力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

立って、歌を歌う。座って、ピアノを弾く。

最近iPad 2の動きが鈍くなってきました。

買った時はサクサク気持ちよく動いてくれたのに、反応の遅れでイラッと来ることが多くなり、いよいよ限界が近づいている感じです。

PCの動きは、基本ソフトとアプリで構成されていて二段構えの構造です。

普通に使っている時はアプリを動かしていて、基本ソフトの動きはあまり気にすることはありませんが、裏方で絶えず動いてくれています。

身体の動きに例えると、意識的に何かをしようとする動きがアプリの役割で、無意識的な生命維持活動や身体を支える動きは基本ソフトというところでしょうか。

何かをしようとする動きは、意識的に行うのでコントロールすることが可能ですが、生命維持機能は意識的にコントロールすることは無理があります。

では、無意識に身体を支える機能はどうでしょう。

意識しなくても立って作業するすることもできるし、座ることも健常であればあまりにも当たり前に行うことができます。

しかし、身体にとっては高度な作業を自動的に行った結果であって、意識に上がってこないため気にならないだけで、意識的にコントロールすることはあまりありません。

立って、歌を歌う。

座って、ピアノを弾く。

など、歌いながら立っているし、ピアノを弾きながら座っています。

歌を歌う練習やピアノを弾く稽古は意識的に行いますが、立ったり座る練習はあまりすることはありません。

気になっていても、あまりにも当たり前すぎるし、どのように練習すれば良いかもわからないので、適当になります。

しかし、PCと同じく大切な動きを担っていることには違いありません、そこを疎かにすると、砂上の楼閣になりかねません。

行う作業に意識を持つことと同時に自分の身体に意識を持つことが大切だと思います。

自分の身体の動きを自動制御にするのではなく、積極的に意識を介入してはどうでしょう。

身体の一つ一つの動きを意識化していくと莫大な情報量となりますが、普段意識しないと情報として認識できないので、何をどうすればかがわからないのです。

まずは、情報収集から始めると今まで気にならなかったことに「あれっ」って引っかかるようになります。

そのように意識に上がってこなければ、どうしようもありません。

身体のすべての情報を意識化することは不可能ですが、ほんの数パーセントでも介入しコントロールできれば、見違えるような動きとなるでしょう。

その点PCはそのような訳にはいきません、OSをバージョンアップするごとにスペックが追いつかず、いずれ買い替えしか方法はありません。

しかし身体を支えるOSは、スペックが追いつかないということはありません。

逆に空きスペースが十分あり、まだあまり使われていないと云えます。

どんどん使っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

お稽古事は練習と違って身体の使い方が難しい

古(いにしえ)を稽(かんがえる)事と繰り返し習う事の違いは、視点の違いではないでしょうか。

練習は、一人称で自分なりに考え、自分なりに動き、自分なりに工夫しそれらを繰り返すことで達成されます。

自分次第で結果が出るので、孤独とはいえ自分勝手に行える気ままな行為とも言え、自由な動きは制限がなく自分勝手な動きでも、作業などの目的が達成されればそれで問題はありません。

稽古は自分が行うのですが、視点が違います。

二人称とも言えますが、先人と同じように考え、動かなければならず、そこには自分の工夫が入る余地はありません。

自分の工夫が入った時点で形骸化し、いにしえの動きとは異なるものとなります。

自分が主体的に動くのですが、自由気ままに動いてはならないのです。

決められた動きに則って動くことは、自分の意思に反して動かなければならないこともあります。

ある意味稽古は、自分が思ってもいないような動きを行わなければならないことが多々有るのではないでしょうか。

自分でも思ってもいないことがすぐに出来るものでしょうか、それは無理です。

自分の思いを表現することもままならないのに、思ってもないことを表現するなんて到底無理な話です。

まして、今まで行ったことのないような動作を始めて行うときは、自由に動けるとは言い難く、自分勝手な動きは自由に動けても、決められた動きになると、とたんに動くことが出来ません。

決められた動きが難しいのは、自分勝手な動きではなく、自由に動かないように動かなければならないので、大変不自由になるからです。

稽古は、あくまでも先人の動きを真似ることであって、自分が動作しているのに自分を出してはいけないことです。

自分が主体でありながら自分を出してはならないから稽古は練習より難しいのです。

なぜなら、動きの意味を考えなければなりません、自分勝手な動きであれば自分だけが

理解していれば良いのですが、先人がなぜこのような動きを行ったのか考えた結果を表現することで先人の意図が再生されます。

そこには自分が入り込む余地がないぐらい、先人の意図で満載にしなければなりません。

稽古は自分の動作でありながら、自分ではない動きを表さなければなりません。

それができた時に技だけが残るのでしょう。

 

 

 

理・美容師さんの気になる身体の使い方2

オーナーによるカットが終われば、顔剃り洗髪を若手のアシスタントさんの担当です。

若手のアシスタントさんは、はきはきとした対応でさわやかに淡々とルーティーンをこなしています。

カットが終わると背もたれを倒して洗髪、洗髪が終わると背もたれを起こします。

そこで私は一息「ふー」と息をつき、顔剃りも背もたれを倒して行い、終わると背もたれを起こして「ふー」と息をつきます。

自分は仰向きに寝ているだけで、何もしていないのに背もたれを起こす度に一息ついていることに、初めは気が付きませんでしたが、何時のころからか作業が終わるたび息をつく事に気付きました。

自分は何も頑張っていないのに、何かをしていて開放された感覚でした。

その時アシスタントさんは、手を抜かず一生懸命頑張っていたのです。 

どうもアシスタントさんの一生懸命の頑張りを感じ取り、自分も一生懸命頑張って座っていたようで、作業が終わる度にアシスタントさんと同じように一息ついていたように思います。

次に、頭にトニックをつけて頭部をマッサージし、そして肩周辺まで降りてきます。

私はもともとマッサージが好きではないので、その様なそぶりを察したアシスタントさんはサラッと終わられます。

それでもアシスタントさんの肩や腕を緊張させて指を立てて押し込む感じが、反射的にこちらの身体も緊張させて反応していました。

そして終われば、やはり「ふっー」と一息ついていたのです。

私が変態趣味だからではなく、自分が緊張する場面でもないのに、周りの緊張に感化される様にヒトは結構周りの影響を受けていると思います。

この様なことは気にしなければまったく影響はありませんが、自分の身体変化が他人に影響を及ぼし、伝播している一例です。

アシスタントさんは一生懸命仕事をしていて私を緊張させようと露ほどにも思っていません、しかし傾向として一生懸命になればなるほど力が入りすぎる傾向も強くなると思います。

その点ベテランになると、力が抜けた状態でも一生懸命に仕事が出来る技術が身に付いて行きます。

いい仕事は力が抜けているからか出来るかもしれませんね。

 

 

理・美容師さんの気になる身体の使い方

いつもお世話になっている理容院で、会話が苦手な私は目をつぶって黙っているタイプで、たまにカットをするオーナーが話を振ってきた時は反応しますが、あまり話をしない難しい客だと思います。

カットの間は半分寝ていますが、その半分はオーナーの身体の動きをモニターしています。(オーナーはその様なことをされているとは露知らず)

目をつぶってただ座っているだけで、オーナーの体の動きの気配とはさみの接触した感覚を頼りに相手の動きを感じ取ります。

動きの気配からは距離感や重心の位置、体の傾きやねじれ具合が感じられ、はさみの接触感からは、毛先の断面のイメージ、はさみとオーナーの重心との距離感などです。

いろいろな部分をカットする時にオーナーの身体は当然動きます。

その動きとその時の重心位置から、いま体重が左脚に乗ったとか、体に対して腰が引けたとか、何か複雑な変な格好をしてそうだとか想像します。

また、はさみの触れ具合から力の強弱、手と重心との関係を感じ取ります。

はさみの違いによる力加減やカットし易い部分とし難い部分をイメージしたり、手と重心の距離が近づいたり離れたりを感じ取っていると、切初めと切終わりで手と重心の距離が変わったりした時、髪の毛が引っ張られ、鈍い音を感じたりします。

目をつぶっていても結構いろいろな情報が得られます。

ただし、そんな事をしているのは変態オヤジぐらいで普通は気にしません。

普通は感じ取る事は出来ても無視するから気になりません。

しかし、身体はその様な情報処理を本人が気にするも気にしないもにかかわらず行っています。

パソコンに例えるとOSがバックグランドで動いていてCPUに負荷がかかっている様な状態です。

その様な情報処理をする必要がなければ、負荷は軽くなります。

理容院のオーナーが余計な情報を与えなければ、今以上にリラックスしてカットを受けてもらえるのではないでしょうか。

そのためには、重心の位置がブレないことが重要です。

手の位置と重心との距離が頻繁に変わると、その差を感じやすくなるので、手と重心との距離を変えないでカットしたり、また重心線自体が体の中や外にと揺れ動くと気配が強くなるので、重心線の位置を変えずに態勢を変えることが出来れば、よりリラックスしてカットを受けて貰う事が出来るのではないでしょうか。

そんなカットしてもらったらすぐ寝ちゃいますね。

 

 

 

 

 

口伝とはタイムマシンのキーワード2

日本人は1200年前からTime Machineの存在を知り、利用してきた。

ただし過去の物事の再生専用ですが。

浦島太郎の玉手箱ではなく、口伝と云う曖昧そうな伝え方が当時の空気感まで表現しうるぐらい正確に当時の事柄を再生することが出来るのです。

このTime Machineの再生にはキーワードが必要であり、それが口伝の内容です。

このキーワードは難解であるためなかなか理解できません、ですから再生できずに消えてしまったTime Machineも数多くあったでしょう。

(また、一応形だけ残っているが機能しないTime Machineもあるようです)

今この世の中に口伝で伝わる技などは奇跡に近い存在です、そしてこれらの存在は口伝の内容を何回も何回も反芻することでキーワードのなぞを解いて来たのでしょう。

その謎解きの期間が20年と考えて良いと思います。

一代で考えられる期間はそう長くはないと思います、それ以上長くなると次の世代になってしまいます。

ですから春日大社の式年造替や伊勢神宮式年遷宮も20年が丁度良いと個人的に考えます。

また、伝えるべき事はお社の造り方ではなく、造り方の技ではないかと思います。

設計図を見れば誰でも出来るものではなく、それなりの技術を持ち合わせなければ設計図の意味を成しません。

ですから20年の間にお社が創れる技術を受け継がれるよう日々精進されているのではないでしょうか。

その様に考えると技術の継承に20年が必要だとする見方も出来ます。

技が伝わるためには最低20年。

20年の間日々謎解きをし、解ければ次の代に口伝で繋げる。

そんなことを60回も繰り返すなんて凄すぎます。

目まぐるしく変化する今の時代に20年は余りにも長いようですが、長い目で見れば当然の期間ではないでしょうか。

昨今、簡単がもてはやされています。

今日から貴方も〇〇〇、明日から使えるテクニックなど、ネットを見ていると見受けられますが浅はかな感じがします。

技を高めようと思えば、石の上にも20年は覚悟しなければならないのでは無いでしょうか。