力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

力の抜けた自然体になるために

深夜駅から自宅までの帰り道に近道をしようとして、小さな土手越しに駐車場の敷地にジャンプしたら、飛んだ瞬間草むらに隠れていた縁石に脚が引っかかり無謀なダイブになった事があり、土手は駐車場の方が一段低くなっていて、結構な距離を飛んだようでしたが着地の際うまく柔道の受け身のように転がる事ができたので事なきを得ました。

今でも思い出すと、あの時の滞空時間は映画の一本でも見れそうなぐらいの時間があったかの感覚で、その間色々な思いがぐるぐると駆け巡ってました。

身の危険な状況下では身体は強張り、衝撃から身を守って深部へのダメージを減らしてくれます。

でも、出来れば衝撃が加わらない方がありがたいです。

その為には、身体が強張らない方が状況に適応し易く、衝撃を柔らかく衝撃を吸収する事が出来ます。

身体を強張らさないで転倒する事ができれば、身体を積極的にコントロールできていることになると思います。

反射的に力が入るし、考えただけでも力が入ってしまいますが、その神経回路から書き換える作業ができれば、力の抜けた自然体となる事ができるのかな、っと駐車場でダイブして飛んでいる時は気がつきませんでした。

今気づいたのでそのような稽古をアスファルトの駐車場ではなく、柔らかい畳の上でしてみよう。

 

 

 

 

 

 

力の抜けた、ただ身体の重みを乗せているだけの立ち方

体重をアプリで管理し始めて4年近くになります。

体重を増やさない戒めにもなり、また一定の傾向が見えてきました。

夏季体重と冬季体重がくっきり現れていて、おおよその変動は±2㎏ですが、下は夏場で上は冬場で推移しています。

たまに生活のリズムが変わると体重はドカンと上がったりすることがあります。

その時は体が重たく感じたり、胸が揺れるのが解ります。

ちなみに今日の私の体重は68㎏です。

よく思うのですが、10㎏のお米の袋約七つ分に相当するわけで、七つも一度に持つこと出来ないよな~って。

常々こんなに重いものをよく動かしていると感心します。

二階に上がる時に階段を18段上がりますが、今のところ頑張らずとも上がることができます、でも68㎏を二階まで上げていると考えたら、二階に上がるって凄いって思ってしまいます。

普通はそんなこと考えませんよね、でも立っているだけでも自分の重みを常に支えているわけで、身体は頑張ってくれています。

その体重の支え方ですが、いろいろな立ち方で支えています。

例えば、体育の時の休めの姿勢で立つとします。

右休めの時は、左脚に体重を乗せて右脚を休めます。左休めはその逆です。

左脚で体を支える右休めの姿勢は、左右均等に立つ姿勢とは重心の位置が変わり左側によります。

重心の位置が中心から1㎝でも2㎝でも変われば、68㎏の支え方も変わらなくてはなりません。

右休めなら、左の腰やお尻の外側の筋肉を緊張させながら、上半身を左に移動させる事で重心の位置が変わり、身体の支え方が変わります。

このとき左半身の筋肉は真っ直ぐ立っている時よりも過剰に緊張しなければなりません。

真っ直ぐ立っていれば、これらの緊張は必要ないのに少し身体が偏るだけで、余計な力が入ってしまいます。

そのような状態が習慣化すれば、筋肉が硬くなり痛みなどの症状が現れるかもしれませんし、パフォーマンスの低下につながるでしょう。

その様に考えると、身体の重さの支え方次第で力の使い方が変わるのですから、楽に立とうとすれば真っ直ぐ立つことが理想です。

しかし、その真っ直ぐが結構難しく、力ずくで真っ直ぐにしようとすると余計力が必要になります。

発想を変えて、真っ直ぐ立つというよりも、身体を真っ直ぐ乗せると発想しても面白いかもしれません。

支えるのではなく乗せる感覚は、力が入った身体では感じにくくまた、すぐに崩れられる状態でなければなりません。

この崩れられる状態が厄介です。なぜならこの状態は不安で怖いからです。

ヒトは経験的に転倒したり尻餅をついたりしたことを憶えていて、怪我や痛みを覚えるなど身体にダメージが及ぶことが理解できています。

まして年配者になると、転倒しないように目一杯力を入れて身体を支えようとします。

この行為は、転倒しないかもしれませんが動きにくくもなります。

動いにくくなれば、転倒の可能性も高くなるのではないでしょうか。

力を入れずに真っ直ぐ立てるようになるために、積極的に崩れる稽古が最適です。

しかしこの行為も厄介で、心底崩れられません。

心底身体を崩すには、立ち眩みの時のように一気に力が抜けた状態にならなければなりません。

たまにTVドラマで役者さんが気絶して、誰かが横で支えるシーンをみると違和感を感じます。

本来ならいきなり何十kgの身体が崩れると、なかなか支えることができず隣の人まで崩れてしまいます。

なぜなら、支えようとする時に崩れてくる力の方向に対して支えますので、一気に崩れられるとその方向が多数になり、どの方向に支えれば良いかが判らなくなり混乱したままお互いが崩れてしまいます。

しかし、身体のどこかに力が入っていたり、順番に力を抜いていったりして崩れた場合は、その動きが感じ取れますので、その動きに対して支えることが出来ます。

隣の人が支えられると云うことは、本当に崩れたとはいえません。

このように、一気に力を抜くことは結構難しいです。

意識的に崩れると、身体の力を順番に抜いて行く場合と、力を抜くのではなく力を緩めてコントロールする場合があり、一気に力が抜けると行為とは違います。

このように一気に力を抜くコントロールができれば、力の抜けた、ただ身体の重みを乗せているだけの立ち方ができるのではないでしょうか。

 

 

 

立って、歌を歌う。座って、ピアノを弾く。

最近iPad 2の動きが鈍くなってきました。

買った時はサクサク気持ちよく動いてくれたのに、反応の遅れでイラッと来ることが多くなり、いよいよ限界が近づいている感じです。

PCの動きは、基本ソフトとアプリで構成されていて二段構えの構造です。

普通に使っている時はアプリを動かしていて、基本ソフトの動きはあまり気にすることはありませんが、裏方で絶えず動いてくれています。

身体の動きに例えると、意識的に何かをしようとする動きがアプリの役割で、無意識的な生命維持活動や身体を支える動きは基本ソフトというところでしょうか。

何かをしようとする動きは、意識的に行うのでコントロールすることが可能ですが、生命維持機能は意識的にコントロールすることは無理があります。

では、無意識に身体を支える機能はどうでしょう。

意識しなくても立って作業するすることもできるし、座ることも健常であればあまりにも当たり前に行うことができます。

しかし、身体にとっては高度な作業を自動的に行った結果であって、意識に上がってこないため気にならないだけで、意識的にコントロールすることはあまりありません。

立って、歌を歌う。

座って、ピアノを弾く。

など、歌いながら立っているし、ピアノを弾きながら座っています。

歌を歌う練習やピアノを弾く稽古は意識的に行いますが、立ったり座る練習はあまりすることはありません。

気になっていても、あまりにも当たり前すぎるし、どのように練習すれば良いかもわからないので、適当になります。

しかし、PCと同じく大切な動きを担っていることには違いありません、そこを疎かにすると、砂上の楼閣になりかねません。

行う作業に意識を持つことと同時に自分の身体に意識を持つことが大切だと思います。

自分の身体の動きを自動制御にするのではなく、積極的に意識を介入してはどうでしょう。

身体の一つ一つの動きを意識化していくと莫大な情報量となりますが、普段意識しないと情報として認識できないので、何をどうすればかがわからないのです。

まずは、情報収集から始めると今まで気にならなかったことに「あれっ」って引っかかるようになります。

そのように意識に上がってこなければ、どうしようもありません。

身体のすべての情報を意識化することは不可能ですが、ほんの数パーセントでも介入しコントロールできれば、見違えるような動きとなるでしょう。

その点PCはそのような訳にはいきません、OSをバージョンアップするごとにスペックが追いつかず、いずれ買い替えしか方法はありません。

しかし身体を支えるOSは、スペックが追いつかないということはありません。

逆に空きスペースが十分あり、まだあまり使われていないと云えます。

どんどん使っていきましょう。

 

 

 

 

 

 

お稽古事は練習と違って身体の使い方が難しい

古(いにしえ)を稽(かんがえる)事と繰り返し習う事の違いは、視点の違いではないでしょうか。

練習は、一人称で自分なりに考え、自分なりに動き、自分なりに工夫しそれらを繰り返すことで達成されます。

自分次第で結果が出るので、孤独とはいえ自分勝手に行える気ままな行為とも言え、自由な動きは制限がなく自分勝手な動きでも、作業などの目的が達成されればそれで問題はありません。

稽古は自分が行うのですが、視点が違います。

二人称とも言えますが、先人と同じように考え、動かなければならず、そこには自分の工夫が入る余地はありません。

自分の工夫が入った時点で形骸化し、いにしえの動きとは異なるものとなります。

自分が主体的に動くのですが、自由気ままに動いてはならないのです。

決められた動きに則って動くことは、自分の意思に反して動かなければならないこともあります。

ある意味稽古は、自分が思ってもいないような動きを行わなければならないことが多々有るのではないでしょうか。

自分でも思ってもいないことがすぐに出来るものでしょうか、それは無理です。

自分の思いを表現することもままならないのに、思ってもないことを表現するなんて到底無理な話です。

まして、今まで行ったことのないような動作を始めて行うときは、自由に動けるとは言い難く、自分勝手な動きは自由に動けても、決められた動きになると、とたんに動くことが出来ません。

決められた動きが難しいのは、自分勝手な動きではなく、自由に動かないように動かなければならないので、大変不自由になるからです。

稽古は、あくまでも先人の動きを真似ることであって、自分が動作しているのに自分を出してはいけないことです。

自分が主体でありながら自分を出してはならないから稽古は練習より難しいのです。

なぜなら、動きの意味を考えなければなりません、自分勝手な動きであれば自分だけが

理解していれば良いのですが、先人がなぜこのような動きを行ったのか考えた結果を表現することで先人の意図が再生されます。

そこには自分が入り込む余地がないぐらい、先人の意図で満載にしなければなりません。

稽古は自分の動作でありながら、自分ではない動きを表さなければなりません。

それができた時に技だけが残るのでしょう。

 

 

 

理・美容師さんの気になる身体の使い方2

オーナーによるカットが終われば、顔剃り洗髪を若手のアシスタントさんの担当です。

若手のアシスタントさんは、はきはきとした対応でさわやかに淡々とルーティーンをこなしています。

カットが終わると背もたれを倒して洗髪、洗髪が終わると背もたれを起こします。

そこで私は一息「ふー」と息をつき、顔剃りも背もたれを倒して行い、終わると背もたれを起こして「ふー」と息をつきます。

自分は仰向きに寝ているだけで、何もしていないのに背もたれを起こす度に一息ついていることに、初めは気が付きませんでしたが、何時のころからか作業が終わるたび息をつく事に気付きました。

自分は何も頑張っていないのに、何かをしていて開放された感覚でした。

その時アシスタントさんは、手を抜かず一生懸命頑張っていたのです。 

どうもアシスタントさんの一生懸命の頑張りを感じ取り、自分も一生懸命頑張って座っていたようで、作業が終わる度にアシスタントさんと同じように一息ついていたように思います。

次に、頭にトニックをつけて頭部をマッサージし、そして肩周辺まで降りてきます。

私はもともとマッサージが好きではないので、その様なそぶりを察したアシスタントさんはサラッと終わられます。

それでもアシスタントさんの肩や腕を緊張させて指を立てて押し込む感じが、反射的にこちらの身体も緊張させて反応していました。

そして終われば、やはり「ふっー」と一息ついていたのです。

私が変態趣味だからではなく、自分が緊張する場面でもないのに、周りの緊張に感化される様にヒトは結構周りの影響を受けていると思います。

この様なことは気にしなければまったく影響はありませんが、自分の身体変化が他人に影響を及ぼし、伝播している一例です。

アシスタントさんは一生懸命仕事をしていて私を緊張させようと露ほどにも思っていません、しかし傾向として一生懸命になればなるほど力が入りすぎる傾向も強くなると思います。

その点ベテランになると、力が抜けた状態でも一生懸命に仕事が出来る技術が身に付いて行きます。

いい仕事は力が抜けているからか出来るかもしれませんね。