力を抜く身体目指して稽古中

余計な力はパフォーマンスの邪魔になる、無駄な動きを省いてシンプルな身体の使い方を目指そう

心身の統一っとその前にするべきは

関取が「心身を統一して望みたい」と云うコメントを聞くことがあります。

心と身体が一致し、身体が思い通りに動いてくれるイメージでしょうか。

では、普通の身体は思い通り動いていないのか。

座っていて立とうと思ったときに立てるし、目の前にあるコップを取ろうと思えば取ることができます。しかし、ハードな状況下ではなかなか思うように動くことが出来ません。

それは、状況が動きを許さない場合と自分が思い通りに動けていない場合があります。

勝負の世界では、自分が有利に動こうとしても相手が阻止すれば思うようには動くことが出来ません。しかし、相手より強い力もしくは相手より厳密な動きを行うことで、相手の体勢を崩すことが出来ます。

相手と力が拮抗している場合は、より厳密に正確な動きが出来た方が有利になり、それが技となります。

また、勝負にかかわらず思い通りに身体が動いていないことがあります。

自分勝手な動きは自由なので何もとがめることはありませんが、決められた動きを行う場合、たとえば動きの手順があったり、決められたフォームがある場合はなかなか思い通りには動けません。

例えばゴルフスウィングは、自分の思い通りにならない典型例です。

条件の違うクラブを一振りするだけの動作に、さまざまな理論や方法があり、次々に新たなアプローチが開発されています。

言葉にすれば一振りですが、その一振りの中にそれだけの意味を見出すだけの条件が無数にあるのでしょう。

これだけ研究されていても、ゴルフ史上究極の理論はまだ先のことなのでしょうか。

見方を変えれば、理論どおりに身体が動いていないかも知れません。

一つのスウィングの中には、幾つものタスクがあり、そのタスクを同時平行的に処理しなければなりません。

この同時平行的な情報処理は、ヒトにとって大変高度なテクニックでありタスクが多ければ多いほど複雑な処理が必要となります。

この複雑な処理の対処法がポイントです。

過去の学習経験から複雑なものは単純化し理解し易くする傾向があります。

この方法はタスクをそれぞれに分解して、課題を細分化し一つ一つの問題点を個別に解決し、またそれぞれのタスクを組み合わせる作業と捉えることができます。

一見合理的ではありますが、一つ見落としていることがあります。

それぞれのタスクを解決するには有効かもしれませんが、タスクを分けてしまうとそれぞれが連携する作業がおろそかになってしまいます。

大切なことは、それぞれの作業が連携して強調した一つの動きに集約することが大事ではないでしょうか。

ぶつ切れに切ってから、また繋ぎ合わせても元の状態にはなりません。

協調した一つの動きを求めるためには、身体の繋がり、連携を捉える感覚が必要ですのでそれぞれのタスクも大切ですが、それを繋げる作業も大切です。

協調して繋げる作業は、指揮者の役目で、それぞれのタスクは楽器演奏者の役目のように、ゴルフスウィング一振りのなかにオーケストラを奏でるぐらいの作業が行われていると思うと、ロマンが感じられます。

身体のそれぞれの動きを連動させ協調することで一つの動きが出来ると、心と身体を統一しなくても既に統一した状況になるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

理想の自分に出会ったらするべき事

自分の事は自分が一番よくわかっている。いえ、わかっていないことも多々有ります。

例えば自分の後ろ姿。自分では生の後ろ姿を見ることができないので、ビデオに映った自分に違和感を感じた経験があるのではないでしょうか。

自分では、背筋がピンと伸びていると思っていたのに意外と背中が丸くなっていたりすると、自分にげんなりしたりします。

自分の持つ自分のイメージと現実の自分にはギャップが有り、どちらが正解かというと現実の自分です。

そんなはずはないと心で叫び、現実の自分は認めたくありません。

しかし、そのまま放置しても良くなることはないので改善を模索したいところですが、自分のわからないことを自分で直すことは結構大変です。

まして、自分の認めたくないことをです。

まず、自分の認めたくない自分自身や自分の行為は、一番見たくないので目をつぶろうとし、触れないようにします。

なので、どんなタスクよりも後回しになりがちで手づかず状態となってしまいます。

そして、重い腰を挙げて良くしようとしても、どこをどうしたら良くなるのかもわかりません。

当然です。

今まで、自分で良かれと思ってやってきたことが現実とのギャップを作っているのですから自己否定しなければなりません。

一般的に自分を良くしようとすれば、まず自分を認めて自分に無いものや出来ない事を学び吸収することで、自分のものにし自分を高めていきます。

そこで自己否定しなければならないなんて矛盾しているようですが、自己否定はまず今まで培った習慣をリセットして新たな習慣をまっさらな状態から再構築する作業です。

大阪府咲洲庁舎を耐震化するために一度壊して建て替えるようなもので、現実的ではなく非効率となります。理想は一から立て直した方が盤石の建物ができるでしょうが、現実的には耐震補強工事が一般的になります。

このように一度壊して、また新たに築く事は大変であり、自己否定の作業もまた然りです。まして月日が長くなるほど体の染み付いた習慣は簡単には壊れません。

ですから、年を取ってから新たに何かを身につけようとした時身体に染み付いた過去の自分が顔を出してしまいます。

そして教える方も言っている事をせずに自分勝手なことをするので、それを正すことが大変です。でもそれを身につけようとしている当人は大真面目に行っているのですが、全く見当違いなことになっていることがあります。

なぜなら、過去の習慣の上に新たなものを上書きしているからです。

理想の自分が見つかれば、それに向けて過去の自分は捨て去る覚悟で向き合わなければ本質に触れることはできません。

我を出せば必ず本質を曇らせ捻じ曲げることになるでしょう。

本質を本質のまま、まっさらな身体に染み込ませます。

 

もっと早くに理想の自分に出会いたかったと悔やんでも仕方ありません。

今からでも、過去の悪習を吐き出して自分の理想とする自分を目指しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

頑張るの語源は我を張る事なのか・・・

「頑張る」という言葉に違和感を感じていたところ、ある記事に頑張るとは我を張る事から来たもともとはネガティブな意味合いがあったと書かれていました。

我を張るイメージは、過剰に自己主張し自分を押し出す行為で、自分の持っている力以上の力を出す感じでしょうか。

自分の持つ力以上に力が出れば、目的が達成される可能性は高まるのでいいように捉えることができます。

それを期待して人に「頑張れ」と声をかけ、力を今以上に出せと催促したりします。

確かに頑張って、出来ないようなことが出来た時は達成感があり、満足や充実した気分になり、頑張れば自己実現に近づくためには必要な行為と言えます。

ただ、自分の持つ力以上の力ってどこから来るのでしょう。

頑張ることで自分の持つ潜在的な力が湧き出てくることなのでしょうか。

この潜在的な力は大変魅力的です、自分の知らない力が自分の中に潜んでいてそれを引き出せば、自分の能力がいきなりバージョンアップするのですから、魔法の薬のようです。

現代人はこの魔法の薬の味をしめ、頑張り中毒に罹っているようで、その潜在能力を引き出すそうと無理矢理捻り出している感があります。

例えば、ここ一番に今どうしても力を出しきりたいと栄養ドリンクを飲んで身体や頭を鼓舞させその場を乗り切る行為は、力の前借りをしているわけで、それが続けば借金の自転車操業と同じになってしまい、一回や二回ぐらいなら問題は起きないでしょうが、その行為が続けば破綻します。

破綻の意味するところは、身体の故障や精神的ストレスが生じることです。

頑張ることにより、自己実現ができる。そして報酬系の脳内物質ドーパミンが分泌され達成感や満足感を味わうことができます。

しかし、頑張りすぎた副産物として心身がボロボロにもなります。

頑張るとは、虚勢を張って無理をしているように思えます。

では頑張らない、ではなく頑張らなくても当たり前のように自己実現できた方が無理無駄が無いと云う事。

当たり前の事柄には、満足感も達成感もありません、そしていきなりのバージョンアップも無いので過去と現在の違いも曖昧で気づきにくいですが、日々平安に暮らしている事が幸せであるように、一時的な満足感よりも日々コツコツと繰り返される事柄にスポットを当て、その総計で自己実現ができれば当たり前になるのではないでしょうか。

いつになるのやら。。。

 

 

 

力一杯頑張る体操教室と頑張らない体操教室

オリンピック金メダリスト内村航平選手がプロ転向の発表をされました。

体操といえば、オリンピック競技のような華やかで力強い技が魅力です。

体操教室も、内村二世を目指した少年少女が力一杯頑張っている大手スポーツクラブや、最近は女性だけの舶来健康体操教室も盛況のようです。

年齢層は広範囲にわたり、目的もパフォーマンスの向上や健康増進などありますが、共通していることは、筋肉を鍛えて筋力を高め力強い身体を目指しているところです。

皆さん頑張っているようですが、頑張ると必要以上に力が出てしまいます。

必要以上に力が出ると、それを制御する作業もまた必要になります。

自動車に例えるとエンジンの排気量を増やしてより早く走れるように改造し、余裕の走りを目指している感じがします。しかし反面それらを維持する為に車体の強度やブレーキの強度を高めたりエアバックやリミッターなどいろいろ付け加えなければなりません。

力が強くなればなるほど、それを制御する為に力を使わなければならない体系には、余計な贅肉が付いているようにも感じられます。

 

力の抜けた体操教室の目的は、パフォーマンスの向上や健康増進の一翼を担う事ができれば幸いですが、体力や筋力の出力を高めるのではなく、身体の協調性、体性感覚、重心や物理エネルギーなどを総動員して筋力エネルギーに頼らないで身体を動かす方法を模索しようと思います。

(一流選手も活用していると思いますが違う使い方で、筋肉であれば、筋力のテンションは一定であるにもかかわらず、筋肉の長さが変わるような筋肉の使い方を試みます。)

自動車に例えると、ガソリンエンジンに頼らず、状況や環境に応じて補助エンジンにソーラーや風力、電気、水素にバイオなどその時々の用途によって使い分けて、効率の良い走りを目指し、究極に効率が良くなれば何のエネルギーで動いているのかわからないぐらいにまで、精度を高めたいです。

そうなれば、エンジンの出力を高めなくとも十分満足のいく走りが実現されるでしょう。

精度の高い動きは、必ず無駄が最小限に削減されています。

頑張って力を出すのではなく、走る目的に合わせて最小限のスペックで対応したいのです。

少々無駄があっても、それ以上に強い力があれば何とかなるではなく、力はそこそこでも、無駄や無理のない動きを目指すことで超伝導体のようなパフォーマンスができると思います。

そんな体操教室があっても面白いのではないでしょうか。

それもblogの中に。

 

 

 

タイトルを変えてみました

小学生のころからスポーツや運動時に身体の力む感じが気になり、ずっと気持ち悪かった思いがありました。

普通に身体は動いていても身体の奥は動いていない感覚です。

後にメンタルの問題かと考えましたが深く掘り下げることもなく、身体の奥で力む感じを悶々と感じながらいろいろ模索した結果、古武術に辿り着きました。

古武術の稽古を通じて気付いたことは、自分の身体が思い通りに動けていると思っていただけで無理や無駄のある動きを非効率なままに我流で動いていた事、実際は思いとは裏腹に決められた動きになるとまったく動けないのです。

古武術の稽古は、100%「型稽古」を行い、決められた動作を取と受で示し合い、一連の攻防を執り行います。

短い型だと二動作程ですが、全く型になりません。

たかだか二動作でも、型通り動くことが出来ないので受を崩すことが出来ないのです。

似たような動きは出来ても、相手となる受が崩れなければ型通りとはいえません。

型のエッセンスは、戦国時代から実践で培われた生き残るための身体操作にあり、一見単純そうな動きでも複雑な意味を持ちます。

この動きの意味を紐解く作業が、稽古のほとんどの時間に費やされます。

そこでの気付きが、少年期から悶々とした感覚を薄皮を剥がすように変化をもたらして来ました。

その中で共通することは、「力は絶対に入れてはいけない事」です。

力を入れないで動くことが型稽古の絶対条件なのです。

一見ありえないようですが、うまくいった動きは力感が残りません。

きちんと動けた時は、力を入れて動いた実感が湧かないと思います。

そんな体の操作を自分の気付いた範囲で綴りたいと考えました。

力の抜けた自然体になるために

深夜駅から自宅までの帰り道に近道をしようとして、小さな土手越しに駐車場の敷地にジャンプしたら、飛んだ瞬間草むらに隠れていた縁石に脚が引っかかり無謀なダイブになった事があり、土手は駐車場の方が一段低くなっていて、結構な距離を飛んだようでしたが着地の際うまく柔道の受け身のように転がる事ができたので事なきを得ました。

今でも思い出すと、あの時の滞空時間は映画の一本でも見れそうなぐらいの時間があったかの感覚で、その間色々な思いがぐるぐると駆け巡ってました。

身の危険な状況下では身体は強張り、衝撃から身を守って深部へのダメージを減らしてくれます。

でも、出来れば衝撃が加わらない方がありがたいです。

その為には、身体が強張らない方が状況に適応し易く、衝撃を柔らかく衝撃を吸収する事が出来ます。

身体を強張らさないで転倒する事ができれば、身体を積極的にコントロールできていることになると思います。

反射的に力が入るし、考えただけでも力が入ってしまいますが、その神経回路から書き換える作業ができれば、力の抜けた自然体となる事ができるのかな、っと駐車場でダイブして飛んでいる時は気がつきませんでした。

今気づいたのでそのような稽古をアスファルトの駐車場ではなく、柔らかい畳の上でしてみよう。

 

 

 

 

 

 

力の抜けた、ただ身体の重みを乗せているだけの立ち方

体重をアプリで管理し始めて4年近くになります。

体重を増やさない戒めにもなり、また一定の傾向が見えてきました。

夏季体重と冬季体重がくっきり現れていて、おおよその変動は±2㎏ですが、下は夏場で上は冬場で推移しています。

たまに生活のリズムが変わると体重はドカンと上がったりすることがあります。

その時は体が重たく感じたり、胸が揺れるのが解ります。

ちなみに今日の私の体重は68㎏です。

よく思うのですが、10㎏のお米の袋約七つ分に相当するわけで、七つも一度に持つこと出来ないよな~って。

常々こんなに重いものをよく動かしていると感心します。

二階に上がる時に階段を18段上がりますが、今のところ頑張らずとも上がることができます、でも68㎏を二階まで上げていると考えたら、二階に上がるって凄いって思ってしまいます。

普通はそんなこと考えませんよね、でも立っているだけでも自分の重みを常に支えているわけで、身体は頑張ってくれています。

その体重の支え方ですが、いろいろな立ち方で支えています。

例えば、体育の時の休めの姿勢で立つとします。

右休めの時は、左脚に体重を乗せて右脚を休めます。左休めはその逆です。

左脚で体を支える右休めの姿勢は、左右均等に立つ姿勢とは重心の位置が変わり左側によります。

重心の位置が中心から1㎝でも2㎝でも変われば、68㎏の支え方も変わらなくてはなりません。

右休めなら、左の腰やお尻の外側の筋肉を緊張させながら、上半身を左に移動させる事で重心の位置が変わり、身体の支え方が変わります。

このとき左半身の筋肉は真っ直ぐ立っている時よりも過剰に緊張しなければなりません。

真っ直ぐ立っていれば、これらの緊張は必要ないのに少し身体が偏るだけで、余計な力が入ってしまいます。

そのような状態が習慣化すれば、筋肉が硬くなり痛みなどの症状が現れるかもしれませんし、パフォーマンスの低下につながるでしょう。

その様に考えると、身体の重さの支え方次第で力の使い方が変わるのですから、楽に立とうとすれば真っ直ぐ立つことが理想です。

しかし、その真っ直ぐが結構難しく、力ずくで真っ直ぐにしようとすると余計力が必要になります。

発想を変えて、真っ直ぐ立つというよりも、身体を真っ直ぐ乗せると発想しても面白いかもしれません。

支えるのではなく乗せる感覚は、力が入った身体では感じにくくまた、すぐに崩れられる状態でなければなりません。

この崩れられる状態が厄介です。なぜならこの状態は不安で怖いからです。

ヒトは経験的に転倒したり尻餅をついたりしたことを憶えていて、怪我や痛みを覚えるなど身体にダメージが及ぶことが理解できています。

まして年配者になると、転倒しないように目一杯力を入れて身体を支えようとします。

この行為は、転倒しないかもしれませんが動きにくくもなります。

動いにくくなれば、転倒の可能性も高くなるのではないでしょうか。

力を入れずに真っ直ぐ立てるようになるために、積極的に崩れる稽古が最適です。

しかしこの行為も厄介で、心底崩れられません。

心底身体を崩すには、立ち眩みの時のように一気に力が抜けた状態にならなければなりません。

たまにTVドラマで役者さんが気絶して、誰かが横で支えるシーンをみると違和感を感じます。

本来ならいきなり何十kgの身体が崩れると、なかなか支えることができず隣の人まで崩れてしまいます。

なぜなら、支えようとする時に崩れてくる力の方向に対して支えますので、一気に崩れられるとその方向が多数になり、どの方向に支えれば良いかが判らなくなり混乱したままお互いが崩れてしまいます。

しかし、身体のどこかに力が入っていたり、順番に力を抜いていったりして崩れた場合は、その動きが感じ取れますので、その動きに対して支えることが出来ます。

隣の人が支えられると云うことは、本当に崩れたとはいえません。

このように、一気に力を抜くことは結構難しいです。

意識的に崩れると、身体の力を順番に抜いて行く場合と、力を抜くのではなく力を緩めてコントロールする場合があり、一気に力が抜けると行為とは違います。

このように一気に力を抜くコントロールができれば、力の抜けた、ただ身体の重みを乗せているだけの立ち方ができるのではないでしょうか。