力に頼らない体の使い方道場

余計な力はパフォーマンスの邪魔になる、無駄な動きを省いてシンプルな身体の使い方を目指そう

力を抜けば抜くほど身体は動きやすくなる一例

身近な重たいものに自分自身の身体があります。身近と云うよりも自分自身が重たいのですが、意外と自分の重みに気が着いていない人が多いです。

疲れたときや風邪をひいた時などは、身体が重たくだるくなることはあっても普段は気にすること無く当たり前のように支えています。

この重たい身体を楽に支え動かすためには、どのようにすればよいのでしょうか。

方法は二通りあります。

一つは筋肉を鍛えて支え動かす筋力を高めること。

もう一つは、体重が軽く感じるように振舞うことです。

資産形成に例えると前者は、不動産や証券・株など資産をいろいろ蓄え将来やいざと云う時に備えるタイプで、後者は賃貸居住し不動産を持たず流動性資産を軸に資産を持つタイプに似ています。

リスクを分散させる為に前者は有効ですが、いざと云う時には後者のほうが早く対処が出来るのでリスクヘッジには後者のほうが有効だとする見方も出来ます。

これらは捉え方の問題でどちらが優れているとはいえませんし、身体の捉えかたも同じです。

筋肉を鍛えて強くて重たい筋肉を身体にいっぱい提げて立ち回る場合は、身体が大きく重たくなり動きも緩慢になりやすく、エネルギーもたくさん必要です。

普段使いほどの強さで普通の量だがレスポンス良く動いてくれる筋肉がそこそこある場合であれば、後者のほうが使い勝手が良い場合があります。

今ある能力を生かして、どのようにレスポンス良く軽やかに振舞うことが出来るかが問題です。

一つには踏ん張らないことがあります。

踏ん張ると安定はしますが、動きが硬直化してしまい動きのたびに動きを加速させるためのエネルギーが必要になります。また必要以上に地面を踏みしめると地面からの反力も比例して強くなり、身体への外力も加わり易くなるので反射的に身体に力が入ってしまい動きが悪くなり故障の原因となります。

踏ん張らないことは、体を地面に押し付ける力を一端抜いてから動き出すような余計な工程が削除され、無駄な動きや力が必要なくなります。

武術では「膝を抜く」と表現したりしますが、身体を支える両膝の力を身体が崩れる寸前の最小限にすると一瞬無重力の状態に近くなります。

このとき身体は重さを支える事から開放され、動くことだけに筋力を利用することが出来ます。また重みが無いので少ない力で動かせるメリットも生じます。

力を抜けば抜くほど身体は動きやすくなる一例ですが、重たい身体でもそれ以上に強い力があれば動きやすくもなります。

どちらを選択しても良いのですが、一般的には筋トレでしょうね。

なぜなら、行った実感があるから満足感や達成感を伴いますが、力を抜く作業は実感がありません。でも慣れると楽に体を動かすことが出来ます。

 

間合いとは空間と時間の要素が一致した場面

間合いとは自分と相手との距離、空間で「相手にとっては遠く自分には近い」という情況と書かれていますが、私なりの補足をします。

「間」=距離、空間と捉えてよいのですが、「合う」の意味合いが抜けているように思います。

合う=時間、タイミング、特にそれらが一致するニュアンスが重要です。

距離、空間の三次元だけでは、どれだけ間合いを計っても「相手にとっては遠く自分には近い」情況になれず、距離はお互い同じであるので、間合いを取るとはいわず、間を取ることになります。

「相手にとっては遠く自分には近い」自分にとって有利な情況を作り出すためには、「合う」という時間的要素が必要です。

タイミングが一致するその一瞬が合うこと、そしてその合うタイミングが自分の中で出来ていること。

ですから、間合いは「間」より「合い」の方が重要です。

「間」はお互いの関係の中ではイーブンですが、「合い」はお互いの関係ではなく、それぞれの「合い」具合であり、それぞれの身体の中でタイミングが一致している方が有利となります。

例えば、二者でコンペを行う時、与えられた条件は同じであり、お互いの間と同じです。しかし、一回だけのプレゼンでより詳細に現実的な提案をし、実行できる条件を揃えて提示した方が有利になることが「合い」の意味合いと似ていると思います。

「間」はお互いの関係ですが「合う」とは、それぞれの合い具合を指していて、相手に対してより合っていれば有利となるわけです。

ですから、お互いの関係の前に、自分自身の中でより多くの条件が一つの目的に向かって集中できていれば、相手と向き合った瞬間結果が現れます。

間合いとは相手との距離感ではなく、自分自身の中で整合性が一致する瞬間を作り出し、その一瞬が連続した状態です。

そして身体の中で間合いを計った者同士が向かい合った瞬間、お互いの間合いのレベルが判るのでその瞬間に勝負が決まります。

そこで相手の間合いが読めないと、初めから負け戦さとなってしまいます。

我武者羅に勝負することも必要ですが、自分の実力と相手の実力を見極める瞬間が大切であり、その一瞬が間合いを取ることではないかと思います。

 

 

 

心身の統一っとその前にするべきは

関取が「心身を統一して望みたい」と云うコメントを聞くことがあります。

心と身体が一致し、身体が思い通りに動いてくれるイメージでしょうか。

では、普通の身体は思い通り動いていないのか。

座っていて立とうと思ったときに立てるし、目の前にあるコップを取ろうと思えば取ることができます。しかし、ハードな状況下ではなかなか思うように動くことが出来ません。

それは、状況が動きを許さない場合と自分が思い通りに動けていない場合があります。

勝負の世界では、自分が有利に動こうとしても相手が阻止すれば思うようには動くことが出来ません。しかし、相手より強い力もしくは相手より厳密な動きを行うことで、相手の体勢を崩すことが出来ます。

相手と力が拮抗している場合は、より厳密に正確な動きが出来た方が有利になり、それが技となります。

また、勝負にかかわらず思い通りに身体が動いていないことがあります。

自分勝手な動きは自由なので何もとがめることはありませんが、決められた動きを行う場合、たとえば動きの手順があったり、決められたフォームがある場合はなかなか思い通りには動けません。

例えばゴルフスウィングは、自分の思い通りにならない典型例です。

条件の違うクラブを一振りするだけの動作に、さまざまな理論や方法があり、次々に新たなアプローチが開発されています。

言葉にすれば一振りですが、その一振りの中にそれだけの意味を見出すだけの条件が無数にあるのでしょう。

これだけ研究されていても、ゴルフ史上究極の理論はまだ先のことなのでしょうか。

見方を変えれば、理論どおりに身体が動いていないかも知れません。

一つのスウィングの中には、幾つものタスクがあり、そのタスクを同時平行的に処理しなければなりません。

この同時平行的な情報処理は、ヒトにとって大変高度なテクニックでありタスクが多ければ多いほど複雑な処理が必要となります。

この複雑な処理の対処法がポイントです。

過去の学習経験から複雑なものは単純化し理解し易くする傾向があります。

この方法はタスクをそれぞれに分解して、課題を細分化し一つ一つの問題点を個別に解決し、またそれぞれのタスクを組み合わせる作業と捉えることができます。

一見合理的ではありますが、一つ見落としていることがあります。

それぞれのタスクを解決するには有効かもしれませんが、タスクを分けてしまうとそれぞれが連携する作業がおろそかになってしまいます。

大切なことは、それぞれの作業が連携して強調した一つの動きに集約することが大事ではないでしょうか。

ぶつ切れに切ってから、また繋ぎ合わせても元の状態にはなりません。

協調した一つの動きを求めるためには、身体の繋がり、連携を捉える感覚が必要ですのでそれぞれのタスクも大切ですが、それを繋げる作業も大切です。

協調して繋げる作業は、指揮者の役目で、それぞれのタスクは楽器演奏者の役目のように、ゴルフスウィング一振りのなかにオーケストラを奏でるぐらいの作業が行われていると思うと、ロマンが感じられます。

身体のそれぞれの動きを連動させ協調することで一つの動きが出来ると、心と身体を統一しなくても既に統一した状況になるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

理想の自分に出会ったらするべき事

自分の事は自分が一番よくわかっている。いえ、わかっていないことも多々有ります。

例えば自分の後ろ姿。自分では生の後ろ姿を見ることができないので、ビデオに映った自分に違和感を感じた経験があるのではないでしょうか。

自分では、背筋がピンと伸びていると思っていたのに意外と背中が丸くなっていたりすると、自分にげんなりしたりします。

自分の持つ自分のイメージと現実の自分にはギャップが有り、どちらが正解かというと現実の自分です。

そんなはずはないと心で叫び、現実の自分は認めたくありません。

しかし、そのまま放置しても良くなることはないので改善を模索したいところですが、自分のわからないことを自分で直すことは結構大変です。

まして、自分の認めたくないことをです。

まず、自分の認めたくない自分自身や自分の行為は、一番見たくないので目をつぶろうとし、触れないようにします。

なので、どんなタスクよりも後回しになりがちで手づかず状態となってしまいます。

そして、重い腰を挙げて良くしようとしても、どこをどうしたら良くなるのかもわかりません。

当然です。

今まで、自分で良かれと思ってやってきたことが現実とのギャップを作っているのですから自己否定しなければなりません。

一般的に自分を良くしようとすれば、まず自分を認めて自分に無いものや出来ない事を学び吸収することで、自分のものにし自分を高めていきます。

そこで自己否定しなければならないなんて矛盾しているようですが、自己否定はまず今まで培った習慣をリセットして新たな習慣をまっさらな状態から再構築する作業です。

大阪府咲洲庁舎を耐震化するために一度壊して建て替えるようなもので、現実的ではなく非効率となります。理想は一から立て直した方が盤石の建物ができるでしょうが、現実的には耐震補強工事が一般的になります。

このように一度壊して、また新たに築く事は大変であり、自己否定の作業もまた然りです。まして月日が長くなるほど体の染み付いた習慣は簡単には壊れません。

ですから、年を取ってから新たに何かを身につけようとした時身体に染み付いた過去の自分が顔を出してしまいます。

そして教える方も言っている事をせずに自分勝手なことをするので、それを正すことが大変です。でもそれを身につけようとしている当人は大真面目に行っているのですが、全く見当違いなことになっていることがあります。

なぜなら、過去の習慣の上に新たなものを上書きしているからです。

理想の自分が見つかれば、それに向けて過去の自分は捨て去る覚悟で向き合わなければ本質に触れることはできません。

我を出せば必ず本質を曇らせ捻じ曲げることになるでしょう。

本質を本質のまま、まっさらな身体に染み込ませます。

 

もっと早くに理想の自分に出会いたかったと悔やんでも仕方ありません。

今からでも、過去の悪習を吐き出して自分の理想とする自分を目指しましょう。

 

 

 

 

 

 

 

頑張るの語源は我を張る事なのか・・・

「頑張る」という言葉に違和感を感じていたところ、ある記事に頑張るとは我を張る事から来たもともとはネガティブな意味合いがあったと書かれていました。

我を張るイメージは、過剰に自己主張し自分を押し出す行為で、自分の持っている力以上の力を出す感じでしょうか。

自分の持つ力以上に力が出れば、目的が達成される可能性は高まるのでいいように捉えることができます。

それを期待して人に「頑張れ」と声をかけ、力を今以上に出せと催促したりします。

確かに頑張って、出来ないようなことが出来た時は達成感があり、満足や充実した気分になり、頑張れば自己実現に近づくためには必要な行為と言えます。

ただ、自分の持つ力以上の力ってどこから来るのでしょう。

頑張ることで自分の持つ潜在的な力が湧き出てくることなのでしょうか。

この潜在的な力は大変魅力的です、自分の知らない力が自分の中に潜んでいてそれを引き出せば、自分の能力がいきなりバージョンアップするのですから、魔法の薬のようです。

現代人はこの魔法の薬の味をしめ、頑張り中毒に罹っているようで、その潜在能力を引き出すそうと無理矢理捻り出している感があります。

例えば、ここ一番に今どうしても力を出しきりたいと栄養ドリンクを飲んで身体や頭を鼓舞させその場を乗り切る行為は、力の前借りをしているわけで、それが続けば借金の自転車操業と同じになってしまい、一回や二回ぐらいなら問題は起きないでしょうが、その行為が続けば破綻します。

破綻の意味するところは、身体の故障や精神的ストレスが生じることです。

頑張ることにより、自己実現ができる。そして報酬系の脳内物質ドーパミンが分泌され達成感や満足感を味わうことができます。

しかし、頑張りすぎた副産物として心身がボロボロにもなります。

頑張るとは、虚勢を張って無理をしているように思えます。

では頑張らない、ではなく頑張らなくても当たり前のように自己実現できた方が無理無駄が無いと云う事。

当たり前の事柄には、満足感も達成感もありません、そしていきなりのバージョンアップも無いので過去と現在の違いも曖昧で気づきにくいですが、日々平安に暮らしている事が幸せであるように、一時的な満足感よりも日々コツコツと繰り返される事柄にスポットを当て、その総計で自己実現ができれば当たり前になるのではないでしょうか。

いつになるのやら。。。

 

 

 

力一杯頑張る体操教室と頑張らない体操教室

オリンピック金メダリスト内村航平選手がプロ転向の発表をされました。

体操といえば、オリンピック競技のような華やかで力強い技が魅力です。

体操教室も、内村二世を目指した少年少女が力一杯頑張っている大手スポーツクラブや、最近は女性だけの舶来健康体操教室も盛況のようです。

年齢層は広範囲にわたり、目的もパフォーマンスの向上や健康増進などありますが、共通していることは、筋肉を鍛えて筋力を高め力強い身体を目指しているところです。

皆さん頑張っているようですが、頑張ると必要以上に力が出てしまいます。

必要以上に力が出ると、それを制御する作業もまた必要になります。

自動車に例えるとエンジンの排気量を増やしてより早く走れるように改造し、余裕の走りを目指している感じがします。しかし反面それらを維持する為に車体の強度やブレーキの強度を高めたりエアバックやリミッターなどいろいろ付け加えなければなりません。

力が強くなればなるほど、それを制御する為に力を使わなければならない体系には、余計な贅肉が付いているようにも感じられます。

 

力の抜けた体操教室の目的は、パフォーマンスの向上や健康増進の一翼を担う事ができれば幸いですが、体力や筋力の出力を高めるのではなく、身体の協調性、体性感覚、重心や物理エネルギーなどを総動員して筋力エネルギーに頼らないで身体を動かす方法を模索しようと思います。

(一流選手も活用していると思いますが違う使い方で、筋肉であれば、筋力のテンションは一定であるにもかかわらず、筋肉の長さが変わるような筋肉の使い方を試みます。)

自動車に例えると、ガソリンエンジンに頼らず、状況や環境に応じて補助エンジンにソーラーや風力、電気、水素にバイオなどその時々の用途によって使い分けて、効率の良い走りを目指し、究極に効率が良くなれば何のエネルギーで動いているのかわからないぐらいにまで、精度を高めたいです。

そうなれば、エンジンの出力を高めなくとも十分満足のいく走りが実現されるでしょう。

精度の高い動きは、必ず無駄が最小限に削減されています。

頑張って力を出すのではなく、走る目的に合わせて最小限のスペックで対応したいのです。

少々無駄があっても、それ以上に強い力があれば何とかなるではなく、力はそこそこでも、無駄や無理のない動きを目指すことで超伝導体のようなパフォーマンスができると思います。

そんな体操教室があっても面白いのではないでしょうか。

それもblogの中に。

 

 

 

タイトルを変えてみました

小学生のころからスポーツや運動時に身体の力む感じが気になり、ずっと気持ち悪かった思いがありました。

普通に身体は動いていても身体の奥は動いていない感覚です。

後にメンタルの問題かと考えましたが深く掘り下げることもなく、身体の奥で力む感じを悶々と感じながらいろいろ模索した結果、古武術に辿り着きました。

古武術の稽古を通じて気付いたことは、自分の身体が思い通りに動けていると思っていただけで無理や無駄のある動きを非効率なままに我流で動いていた事、実際は思いとは裏腹に決められた動きになるとまったく動けないのです。

古武術の稽古は、100%「型稽古」を行い、決められた動作を取と受で示し合い、一連の攻防を執り行います。

短い型だと二動作程ですが、全く型になりません。

たかだか二動作でも、型通り動くことが出来ないので受を崩すことが出来ないのです。

似たような動きは出来ても、相手となる受が崩れなければ型通りとはいえません。

型のエッセンスは、戦国時代から実践で培われた生き残るための身体操作にあり、一見単純そうな動きでも複雑な意味を持ちます。

この動きの意味を紐解く作業が、稽古のほとんどの時間に費やされます。

そこでの気付きが、少年期から悶々とした感覚を薄皮を剥がすように変化をもたらして来ました。

その中で共通することは、「力は絶対に入れてはいけない事」です。

力を入れないで動くことが型稽古の絶対条件なのです。

一見ありえないようですが、うまくいった動きは力感が残りません。

きちんと動けた時は、力を入れて動いた実感が湧かないと思います。

そんな体の操作を自分の気付いた範囲で綴りたいと考えました。