力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

ベターッと開脚で軟らかいだけでなくパフォーマンスも高めよう

体の硬い妻がベターッと開脚を始めました。この手の運動法は数多くあったのに運動嫌いがその気になったのは簡単で短期間に効果が現れると謳っているところ。

人を動かすには簡単明瞭がうける良い例ですね。

股関節は土台となる骨盤や背骨を支える重要な関節ですので、十分に機能させることが必要です。しかし、動けているようで動けていない部位になり易く股関節をうまく機能しきれていない人が多いようです。

それは体の奥深くにあるので動きが自覚しにくい事と股関節ではなく腰椎が代わりに動いてしまう事があるようです。

股関節の位置を正確に自覚されている人は意外と少ないのではないでしょうか。

股関節は大腿骨の延長線上ではなく125度の角度で内方に入り込んでいるので、結構身体の内側に有ります。ストレッチや筋トレにしても自分が思っている位置ではないところをイメージしていることが有ります。

また、自分では股関節を動かしているつもりだが実際は腰椎が動いてしまっていることもあります。特に股関節の屈げ伸ばしや回旋運動は、股関節ではなく腰椎の代償運動となることが有ります。

股関節の屈げ伸ばしは上半身の前屈と伸展に影響し、股関節の回旋は上半身の回旋運動に影響します。

お辞儀の動作や前屈みでの動作は、股関節が折れる事が大切です。

一般的には、股関節の角度は余り変わらず、腰椎から上にかけて順番に曲げていく動作が多いようです。

例えば、立って包丁で魚を捌いたり、座ってピアノを弾くときにはやや前屈みになりますが、股関節ではなく脊柱が前方に傾ぐと、身体の重みが背中側に抜けてしまい、重みの持つエネルギーが前方の手元に伝わりません。

また、股関節の回旋運動を腰椎が代償してしまうと、腰椎が捻れてしまいます。

腰椎の回旋角度は片方で5度左右回旋でも10度しか構造上回旋できませんので、腰を過剰に捻ることは生理的に無理があるため故障の原因となります。

ゴルフや野球のスウィングにしても上半身を捻りますが、腰椎から上の胸椎を捻ります。そして胸椎以上に股関節の回旋運動を行うことで、骨盤から上の重みの持つエネルギーがうまく上肢に伝われば、思った以上の力が起こります。

股関節の動かし方如何で、身体の重さによる力がパフォーマンスを高めてくれます。

ただし、ベターッと開脚できたからといってパフォーマンスが高まるとは思えません、なぜなら関節が軟らかい事と関節を意識でコントロールする事は別です。

身体が軟らかいだけでパフォーマンスが低ければ軟らかい意味が有りません。

パフォーマンスは意識的にも無意識的にも身体をコントロールする事、それは神経系の鍛錬となります。

きちんと命令がなされ、その命令どおりに動作することに尽きますが、股関節に関してはイメージしにくく思ったように動いてはくれない部位の一つに思います。

 

 

有り難いが当たり前にならないように

知人の20歳代女子が朝起きたらいきなりひざが痛み出し、病院に行ったら腫瘍が出来ているとの事。一応良性であるものの転移や悪性化の可能性もあるようで、ひざが空洞化し骨折して初めて気付く事が多いようです。

彼女にとって青天の霹靂であり、今は手術に向けて調整されていました。

この様な話を聞くと健康の有り難さが身にしみて感じられますが、普段何も起こらなければ、それが当たり前になり気にも留めなくなり、健康に意識する機会が減ります。

いくら健康に留意しても病気になる時はなるのでしょうが、健康な状態が当たり前だと思うことと、有り難いと思うことでは身体へのいたわり方が変わってくるように思います。

健康が当たり前になっている時は、ベストな状態をキープしていてこのままの生活を維持すれば病気などありえない感覚でしょう。

健康が有り難いと思う時は、たまたま今現在病気ではないが、いつ何時病気になるかもしれないと思う気持ちだと考えると、前者はポジティブ発想で後者はネガティブに聞こえます。

精神衛生上ポジティブに考えることは大切ですが、当たり前の情況は健康に留意することがおろそかになり、結果的に身体に対して無理や負担を押し付けていることになっているのではないでしょうか。

健康が有り難い、とは健康であることが有りそうに無い、めったに無い、生きていることが難しい情況であり、現代人にはピンと来ない感覚ですが、健康はめったに無いことだと思うと自分が愛おしくなります。

子供の頃、親にどうして年が明けるとおめでとうと云うのか聞いた覚えが有ります。

また年を越せる有り難さと同じく、当たり前にならないように感謝の気持ちを持ちたいものです。

有り難い事が難なく続けることが出来る世の中は、つい当たり前の事と捉えてしまいがちですが、レアなケースと捉えてもおかしくは無いと思います。

その方がどんなことでも感謝出来そうで。

前出の彼女も手術してもらえる事に感謝でしょう。

健康で過ごす事は、めったに無いことが続いていると思うと、心の底から健康に感謝しなければなりません。

ひざカックンが出来れば自然体

人の背後に立ち、その人のひざの裏に自分の膝頭を「キュッ」と当ててうまくいくと、その人のひざが「ガクッ」と崩れる、そんないたずらを子供の頃にした事があると思います。

ひざ関節は、一つの回転軸上に下腿が後方にしか曲がりませんので、この方向には曲がり易い特性があります。なのでその曲がり易い方向に力を加えると弱い力でもひざを折る事ができます。

ちなみに、鶴やフラミンゴは逆のようです。

子供の頃は「カクッ」となっていたのに大人になって大人にしてみても余り「カクッ」となりません。

それは、やる方もやられる方も子供の頃のあの軽やかなステップをいまやってみようと思っても出来ないように大人になると年々ひざに力を入れて立つ傾向が強くなるからだと思います。

まして、年配の方でややひざを曲げて歩かれている方などは、相当ひざ周辺の筋肉を緊張させないと勝手にひざカックンとなるので、そうならないようひざ周辺に力を入れて曲がらないように歩かれています。

歩くためにはひざは曲がったほうが歩き易いですが、曲がらないように歩いたら当然ひざの負担は大きくなるので痛める可能性は高くなるでしょう。

ふくらはぎや太ももは重力に拮抗する筋肉とされていて、立っているだけで力が入ってしまうことは仕方がありません。

 何も意識しなければ、年々力みが強くなる傾向は否めません。

自分では力んでいるつもりは無くても、自分の身体は重力に拮抗する為にどんどん力を入れて支えようとします。ですから自分では力を入れている自覚が無くても過剰に緊張している場面が現れます。

この自覚が無い自分自身の操作が厄介です。

まず、自覚が無いので力を抜こうとは思わないです。そして抜こうとしてもどのように操作すれば力が抜けるのかもわかりません。

それは、無意識にしている事を意識的に操作しようとしてもうまくいかないからです。

無意識に意識を介入させようとすれば、それなりの訓練が必要になるでしょう。

例えば、ひざカックンを意識的にするとふくらはぎの筋肉を緊張させ床の反動を利用してひざを前に出そうとします。

形的にはひざカックンの形ですが、無意識に支えている身体には反応しません。

無意識の身体に介入しようと思えば、無意識っぽい身体の操作が必要になります。

そのためには、何気なくひざカックンが出来ればよいのです。この何気なくが難しく何かしようとすれば、何気なさが無くなり、やります感があふれ出します。

このやります感が意識的な操作となり何気なさがなくなってしまいます。

意識的な何気なさは結構難しいものです。

意識的な何気ないひざカックンは、ふくらはぎの緊張を止めた時ひざの力が抜けてかかとが浮き上がる感じが理想的です。

意識的なひざカックンと何気ないひざカックンの違いを見分ける為に親しい方の後ろに立ち(余り知らない方には行わないように)ひざを後ろからカクッとやってみて下さい。

前の人が「カクッ」となれば余計な力の入っていない自然体で立っていることになるでしょう。

力を抜けば抜くほど身体は動きやすくなる一例

身近な重たいものに自分自身の身体があります。身近と云うよりも自分自身が重たいのですが、意外と自分の重みに気が着いていない人が多いです。

疲れたときや風邪をひいた時などは、身体が重たくだるくなることはあっても普段は気にすること無く当たり前のように支えています。

この重たい身体を楽に支え動かすためには、どのようにすればよいのでしょうか。

方法は二通りあります。

一つは筋肉を鍛えて支え動かす筋力を高めること。

もう一つは、体重が軽く感じるように振舞うことです。

資産形成に例えると前者は、不動産や証券・株など資産をいろいろ蓄え将来やいざと云う時に備えるタイプで、後者は賃貸居住し不動産を持たず流動性資産を軸に資産を持つタイプに似ています。

リスクを分散させる為に前者は有効ですが、いざと云う時には後者のほうが早く対処が出来るのでリスクヘッジには後者のほうが有効だとする見方も出来ます。

これらは捉え方の問題でどちらが優れているとはいえませんし、身体の捉えかたも同じです。

筋肉を鍛えて強くて重たい筋肉を身体にいっぱい提げて立ち回る場合は、身体が大きく重たくなり動きも緩慢になりやすく、エネルギーもたくさん必要です。

普段使いほどの強さで普通の量だがレスポンス良く動いてくれる筋肉がそこそこある場合であれば、後者のほうが使い勝手が良い場合があります。

今ある能力を生かして、どのようにレスポンス良く軽やかに振舞うことが出来るかが問題です。

一つには踏ん張らないことがあります。

踏ん張ると安定はしますが、動きが硬直化してしまい動きのたびに動きを加速させるためのエネルギーが必要になります。また必要以上に地面を踏みしめると地面からの反力も比例して強くなり、身体への外力も加わり易くなるので反射的に身体に力が入ってしまい動きが悪くなり故障の原因となります。

踏ん張らないことは、体を地面に押し付ける力を一端抜いてから動き出すような余計な工程が削除され、無駄な動きや力が必要なくなります。

武術では「膝を抜く」と表現したりしますが、身体を支える両膝の力を身体が崩れる寸前の最小限にすると一瞬無重力の状態に近くなります。

このとき身体は重さを支える事から開放され、動くことだけに筋力を利用することが出来ます。また重みが無いので少ない力で動かせるメリットも生じます。

力を抜けば抜くほど身体は動きやすくなる一例ですが、重たい身体でもそれ以上に強い力があれば動きやすくもなります。

どちらを選択しても良いのですが、一般的には筋トレでしょうね。

なぜなら、行った実感があるから満足感や達成感を伴いますが、力を抜く作業は実感がありません。でも慣れると楽に体を動かすことが出来ます。

 

間合いとは空間と時間の要素が一致した場面

間合いとは自分と相手との距離、空間で「相手にとっては遠く自分には近い」という情況と書かれていますが、私なりの補足をします。

「間」=距離、空間と捉えてよいのですが、「合う」の意味合いが抜けているように思います。

合う=時間、タイミング、特にそれらが一致するニュアンスが重要です。

距離、空間の三次元だけでは、どれだけ間合いを計っても「相手にとっては遠く自分には近い」情況になれず、距離はお互い同じであるので、間合いを取るとはいわず、間を取ることになります。

「相手にとっては遠く自分には近い」自分にとって有利な情況を作り出すためには、「合う」という時間的要素が必要です。

タイミングが一致するその一瞬が合うこと、そしてその合うタイミングが自分の中で出来ていること。

ですから、間合いは「間」より「合い」の方が重要です。

「間」はお互いの関係の中ではイーブンですが、「合い」はお互いの関係ではなく、それぞれの「合い」具合であり、それぞれの身体の中でタイミングが一致している方が有利となります。

例えば、二者でコンペを行う時、与えられた条件は同じであり、お互いの間と同じです。しかし、一回だけのプレゼンでより詳細に現実的な提案をし、実行できる条件を揃えて提示した方が有利になることが「合い」の意味合いと似ていると思います。

「間」はお互いの関係ですが「合う」とは、それぞれの合い具合を指していて、相手に対してより合っていれば有利となるわけです。

ですから、お互いの関係の前に、自分自身の中でより多くの条件が一つの目的に向かって集中できていれば、相手と向き合った瞬間結果が現れます。

間合いとは相手との距離感ではなく、自分自身の中で整合性が一致する瞬間を作り出し、その一瞬が連続した状態です。

そして身体の中で間合いを計った者同士が向かい合った瞬間、お互いの間合いのレベルが判るのでその瞬間に勝負が決まります。

そこで相手の間合いが読めないと、初めから負け戦さとなってしまいます。

我武者羅に勝負することも必要ですが、自分の実力と相手の実力を見極める瞬間が大切であり、その一瞬が間合いを取ることではないかと思います。