力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

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どんな分野でも基本動作というものがあります。

自分の分野での基本動作を日課にして繰り返す。

長年やっていれば、押さえるべきポイント注意するべき動きなど理解できているはずなのに、理解している事と実際の動きがあっていない事があります。

先日、基本動作を行っていると、「肘が曲がっている」と経験年数の長い方から指摘を受けました。

その場面で肘が曲がってはいけないことは、基本中の基本であり頭には強くしみこんでいるにもかかわらず、実際の肘は伸びきれていなかったのです。

自分の中では肘を伸ばしているつもりになっていたのでした。

その時も普通に見れば肘は伸びているように見えるのですが、経験年数の長い方から見れば伸び切れていないと見えたのでしょう。

改めて肘の動きを見てみると、肘は伸びてはいるのだが脇をより締めると腕が「グニュ」っと伸びる感覚があった。

肘を伸ばすとは、ここまでして始めて肘を伸ばした事になるのかと改めて反省し、このように見えないところを指摘してもらえるところが「道場」の良さだと感じました。

自分だけで繰り返し繰り返し稽古していると、徐々に動作がスムーズになっていく実感が感じられますが、この作業に落とし穴があったのです。

稽古や練習は繰り返し繰り返し動きの反覆を行うことで、動きを身体に浸み込ませる作業を行います。

この反覆動作を細かく行えば厳密な動きが可能となり、またいろいろな動きを組み合わせれば複雑な動きも可能となります。

ただし、反覆動作を繰り返すうちに自分の動き易い動きや形を自分で作ってしまうことがあります。

一般的にはこれが当たり前で、解りにくいものを解り易くしたり、やり難いことをやり易くしたりすることは日常普通に行う行為です。

例えば、数学の図形の問題で補助線を引くと理解し易かったり、体操で動きにくい動きを工夫して動き易くすることは普通です。

このように補助を使ったり、自分なりに工夫する事は目的達成の近道と考え易いのですが、そうでない場合もあるように思います。

出来なかったことが出来る様になる時に、自分なりに動き易い動きを自分なりに探し当てその動きを繰り返しにより強化する作業は、我流の動きと云えるのではないでしょうか。

基本動作を行うにしても、我流で行えば基本ではなく自分なりに動き易い動作になるので基本動作とはいえないと思います。

その場面では肘を伸ばすことが「ミソ」となるがやり難い、やり難ければやり易いように動きを変えてしまう。

反覆動作の中にこの様な作業が含まれてしまうと、動作はスムーズになり動き易くなる、そうすると自分が上達したように感じてしまう場合があるのではないでしょうか。

何十年繰り返してきた行いが崩壊する瞬間です。

改めて肘を意識して基本どおりに動いてみると動きにくく、今までにない筋肉のこわばりが現れたり動きがぎこちなくなりました。

基本を基本どおり行うことが難しいとは、この様な事なのかとようやく解った気がした。

 

 

 

柔道が「相手を崩す」であれば、柔術は「相手が崩れる 」の違いがある

古武術の中に柔術が含まれます。

柔術は日本古来の体術であり、柔術の体捌きで武器得物を操ることで各種武術が応用されいろいろな武術の基本になって来たと思われ、また現代柔道ももともと柔術から発展してきた経緯があります。

しかし、現代柔道と柔術では決定的な違いがあります。それは力の使い方であり、長い歴史の中で変化してきたと推測されます。

柔道も柔術も相手に対して技を掛ける前に必ず相手を崩さなければ技にはなりません。

技になる前のこの崩し方の違いが決定的に違います。

柔道の場合は、組み合った状態の力からより力を強める、力を入れる事で相手がその力に耐え切れずに体勢を崩してしまう状況を作り技を掛けます。

ですから、相手を崩す為に強力な力が出れば有利になるので、筋肉を鍛え筋力UPを目指します。

柔術の場合は、できるだけ相手に干渉しないように組みます。そして組んでいる状態よりさらに力を抜く事で相手を崩します。

人は力に影響される前に力の存在を感じ取る事ができ、この感じ取った情報を元に対応を行います。

相手に干渉しないという事は、相手に力を掛けない、加えないという事であり、これは相手がこちらの力を頼りにこちらの情報を読み取ろうとさせない為です。

力を手がかりにこちらの情報を与えてしまうとその情報に対して相手は対応する事ができてしまいますので自分が有利になるためには、相手にこちらの情報を与えない様にする事が重要なのです。

そして干渉のないように体を捌く事で相手を崩すのですが、この体の捌きが力が抜けた状態といえますが、ただ力を入れるに対して力を抜くというような単純な感じでは無い様に思えます。

「捌く」とは、バラバラにする事やゴタゴタした物事きちんと処理する事とすれば、身体のそれぞれのパーツが整然と並び替わる様子を伺い知ることが出来ます。

並び替えのポイントとして一気に同時に並び替えてしまう事なのです。

身体のパーツをそれぞれ別々の動きとして並び替えていると動きが相手にも認識できるので、相手を崩すどころか動きを止められてしまいますが、身体のパーツがそれぞれの動く距離や時間は、ばらばらだが一気にそれぞれが始まって同時に終われば、身体のどのパーツがどのように動いたのか、相手が混乱してしまう様な動き方をすれば、特別強い力でなくとも身体のパーツを相手に止められずに動かすことが可能です。

そして、動きを止められないままに相手が力に対して対処出来きず自らが崩れた形となります。

これらのような柔道と柔術の力の使い方の違いあるように思います。

手の作業を手で行わない居合術

古武術の中に居合術があります。

居合のシュチエーションは、相手が今まさに上段から斬り付けようとする瞬間であって、自分は座して柄(つか)にも手が掛かっていない絶体絶命の場面を想定されています。この不利な状況下で如何に情況を覆し、自分が有利になる事が「術」の本質となります。

この様な場面で瞬発力や早業で速く剣を抜こうとも不利な情況は変わり有りません。

最終的には運動の「質」が換わらなければなりません。

しかし、居合を何十年稽古していてもなかなか質が変わる実感がないのが事実です。

ただそれまでのプロセスとして、まず身体のどこかを動かした時点で斬り付けられる事は目に見えていますので、まず身体を動かさない事を学びます。

といってじっとしていても何も始まりません。

身体を動かし、使う事で動かさない事を学ぶのです。

例えば鞘に収まっている刀を鞘から出そうとすると、右手で柄を引き抜きぬこうとしますが、そこで右手を使わないで抜刀する身体の使いを稽古します。

右手を使わないように刀を鞘から引き出すために、刀を出すのではなく鞘を後ろに送る「鞘引き」といわれる動作がこれに当たり、鞘を引くことで右手を使わず刀を抜くことが出来るのです。

刀を抜こうが鞘を引こうが、動き方や順序が変わるだけではないかと思われるようですが鞘引きのような体の使い方は一般的な体の使い方とは全く逆の発想と言えます。

一般的な動作は、必ず身体が止まっている状態から動き出すと形の変化や速度の変化が起こり、動く前と動き出した後の形が変わることで動きを見て取ることが出来るので、誰が見ても動きを認識し対応できてしまいます。

鞘引きのような身体の動かし方は、刀自体は動いていないので形や動きの変化が有りません。その代わり刀以外の動きが変化することで結果的に抜刀できていることになります。

稽古法としては初歩の初歩ですが、動きの質を換えていくためには先ずロジックが変わらなければなりません。

同じ次元のレベルの動きを繰り返し練習すれば、そのレベルでは上達するでしょうが「質」を換えるためには、理論や術理等の考え方を多角的に発想し仮説を立て、検証する作業をひたすら繰り返す必要が有ります。

決まった動きをひたすら繰り返し続ける武術の稽古法である「型稽古」は、仮説を検証する実験と同じプロセスように、失敗を繰り返し、ある日何かのきっかけで光明が差す時を待つ必要が有ります。

質の高いものを求めるためには、量をこなすだけではなく、微妙な感覚の違いを感じ取り表現する能力を鍛えなければいけません。

 

体を動かす為には筋力以外に何があるか

体を動かす為には筋肉が収縮しなければ動きようが無いことは当たり前ですが、ほかに方法は無いのでしょうか。

例えば歩く時には脚の筋肉を収縮させて床を蹴り、その反発力で前方に進みます。

しかし、直立の状態から脚の前方の筋肉の緊張を緩めると身体が緩んだ方へ倒れて行きます。

そのまま脚を出さなければ、前方に転倒してしまうので転倒する前にどちらかの脚を緩んだまま、より前方に出せばつっかえになり倒れずに済みます。

これは身体が倒れるから脚を出すと云う、昔飛脚などが行っていた脚の運び方があったようです。

現在の歩行は、後ろに力を加えてその反発力で進む方法ですが、昔は前に倒れるから前に足が出る方法であり全く逆の使い方となります。

体の使い方として力を一旦後ろに向けて加えその反発力で前に出るよりも、初めから前に出たほうが効率が良いように思うのですが、子供の頃からの習慣を変える事は大変です。

このように体を動かす上で 筋力で体を移動させるか、もしくは重心の位置が変化することにより体の移動が可能となる場合も有ります。

筋力優先の今の世の中ではなかなか腑に落ちないかも知れませんが、体の重さというポテンシャルをもっと引き出し、活用できるのではないでしょうか。

重心移動を筋肉の緊張で行わないように力を抜く事で動くことが出来ると効率よく楽に体を動かすことが出来そうです。

ただ、現代人は「体を動かすイコール筋肉を緊張させる」プログラムが出来上がっており、体の力が抜けた時に体が動くプログラムが無いために理解不能になり、フリーズしてしまい余計体が固まってしまいます。

歩く時のように後ろに力を加える事と力が抜けて前に倒れる事は、全く正反対の行為であり、力が抜けたときに動こうとすればプログラムの修正が必要となります。

今までスイッチをONにすれば電気が点いていたことが当たり前だったのに、今からスイッチをOFFにすると電気が点き、ONにすると電気が消えると人は大変混乱するでしょう。

コンピュータならプログラムを書き換えた直後から変換できますが、ヒトの長年の習慣はそう易々と変わってはくれません。

ヒトにとってプログラムの書き換え程大変な作業はないですが「力を抜いた時に体を動かす」、そんなプログラムが身に付けば自分の体の使い方が格段に変わり、人や物に対する影響力も今までとは全く違う次元の出来事が見えて来るのではないでしょうか。

タイトル変更第二段

ここでは自分の目的に向って自分が気付き、自分で修正していく事を目標としていて、また人に教えるつもりも無いのに教室はおかしいのではないか。

そして人から教わったことは知識になりますが、それと体得し自分の物として使う事とは別と考えると、教室ではない違う場所になるのではないかと考える。

自分を高め、自分を表現する為に自分で稽古する場所は「道場」ですし、練習やトレーニングではなく、古人が行ってきた事を自分で考えて古人に近づく「稽古」はやはり「道場」が良いように思いました。

逆に「道場」では、教えてはならないのではないでしょうか。

道場で教えるとは、教える側の価値観や概念が含まれた形で伝わってしまい、本来の情報に教える人の情報が上書きされてしまいます。

稽古の一番大事なところは、古人と同じことが出来るかと云うところであり、古人と自分とのに間にいろいろな人の解釈が含まれると、本来の形が歪曲してしまい「似ているが違うもの」が伝わってしまいます。

これが「形骸化」であり、稽古で一番良くないことが、形骸化することです。

だから芸事は教えるのではなく、「やって見せるだけ、後は自分で考えなはれ」となるのでしょう。

教えてもらえないと絶対自分勝手な解釈を行い、自分が出来る範囲で出来る様にしようとし、自分流にアレンジしてしまいます。

この行為は理解できない難しいことを自分の理解できる範囲で理解しようとすることなので、せっかく高い次元の物事を自分の理解できる次元に引き下げてしまうことなのでこの行為もまた本質からかけ離れてしまい形骸化を起こしてしまいます。

「道場」で行う稽古は、教え教えられてもダメですし、自分勝手もダメと云うことになります。

ダメなことをいくら努力してもダメには変わり有りません。

ダメではない稽古を如何に行うかが、稽古の中で一番難しい問題点となり、稽古の大半がこの問題に対して模索することが大切ではないかと思います。

始めは誰でもダメから始まります。

そして稽古を続けてダメからダメではないターニングポイントが現れるまでひたすら稽古を重ねるしかないのでしょう。

すぐに結果を求められる時代には向いていませんが、本質に近づくためにはそれなりの時間が必要です。

リアルでもバーチャルでも如何なる場においても「道場」は存在し得ますし、そこで時間を費やす事が本質に近づく最短の時間となるのでしょう。

 皆さんもご自分の道場でご自分を磨いて下さい。