力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

相手の力を利用するとは相手の反応を引き出す事

相手の反応を引き出すための条件は、相手が生物である事。

無機物に対しては当然反応はありません。

当たり前の様に捉えられるかもしれませんが、皆さん無意識に使い分けていると察します。

人に対してこんな事をすれば相手はどうなるか、どう思うか、その加減を調整しながら力の出力を決定しているはずです。

しかし意外と使い分けている人は近年少なくなって来ている様に思われます。

逆に言うと生物も無機物も同じ扱いで、使い分けていない人が増えて来ている様に思うのです。

勝手に推測するに、人間関係が希薄になるにつれてスキンシップは当然少なくなり、肌感覚からの情報を読み取る機会が減る事で反応を嗅ぎ取る感覚が鈍くなって来ている。

また、デジタル社会になりリアルな感覚を使う機会も減り、バーチャルな世界に入り浸ると物理的感覚さえも麻痺して来ているようにも思われます。

以前Podcastを聴いていて感心する話がありました。

セックスが終わり相手が身体を起こす際、自分の胸部の上で肘を立てて起きようとしたらしく、身の危険を感じたと言う話を聴いて、人の胸の上で肘を突いて体重をかけたら相手はどうなるか、そんな事も分からなくなって来ているのかと。

極端な話かもしれませんが、人に対して影響力を加える際は自然に相手への加減や気持ちを読む習慣がありますが、近年そのような習慣が希薄になって来ているのではないでしょうか。

物に対する力の使い方とヒトに対する力の使い方は違うはずです。

物への影響力は物理的な範疇での出来事から外れる事はありません、しかしヒトへの影響力は物理法則では説明しきれない出来事が起こる可能性があります。

自分の胸の上で肘を立てられたら、物理的な力を支える前にその状況から逃避する動きを起こす事は自然な反応ですが、物理的な反応とは言えません。

人は自らに影響する力に対して、必ず反応するために物理法則では説明しきれない結果が生じる事になるはずです。

ですから、物理法則に則っただけの結果が出ず、その人なりの反応が絶対に現れるはずです。

相手の反応を引き出すためには、相手の気持ちになって「こう動いてくれたら自分はその様に動いても良いかも」と思える動きを相手に押し付けるのではなく、自らが表現する事で相手が自然にその様な状況を受け入れて貰えるシュチュエーションを作り出す事。

相手の意志よりも成り行き、シュチュエーションがあまりにも自然であるため、相手はこちらの意図という事を忘れるぐらい自然な成り行きの如く、身体を動かしてしまう。

相手の反応を引き出す動きとはそんなお膳立てが隠されているように思います。

相手の力を利用するためには、相手が動き出す前に色々なお膳立てを自分なりに組み立て、その組み立て通り相手が動く様に自分の動きや体勢を構築しなければ、相手はこちらの動きに納得して動こうとはしないでしょう。

それだけ相手を動かすためには、自分自らが厳密に動く事で相手の動きを導く動きを引き出す様に思います。

介護の世界でも、相手の力を利用する事は可能です。

利用者が介護者の意図を汲む様な動きをした時、介護者の意図が利用者に伝わったという事になるのでしょう。

それは利用者が気を利かせたのではなく、介護者の意図が利用者をその様に振舞わせたという事になります。

ベテラン介護師は相手の反応を引き出すテクニックをお持ちになっているはずです。

相手の力を利用する

武術や合気道で相手の力を利用すると言う表現を聞く事があります。

 

言葉のイメージから、自らは力を使わず相手の力をそのまま技に活かす方法の様に捉える事ができますが、向かってくる相手の力をそのまま返し技で返すという意味ではなく、相手の力を利用するとは、相手の力を引き出し、引き出された相手は自らの力で崩れ倒れる状況を作り出す事だと思います。

 

相手の力を引き出すとは、相手の動きをこちらがコントロールする事であり、制御された相手は自らの姿勢保持が出来ず、自らが崩れそして倒れてしまう結果になる事。

 

相手は、自分が制御されていると気付いていないので、なぜ自らが崩れるのか不思議でなりません。

 

一般的に言われている相手の力を利用するとは、相手の動きをすでに制御出来ていなければなりません。

 

ですので、制御出来ていない動きはいくら頑張っても、返し技は通用しませんし、否しても否しきれず追い詰められます。

 

いかにして相手を制御するか。

 

相手の力を利用するためには、相手を制御しなければ話になりません。

 

そこに武術の術たる難しさが潜んでいます。

 

術とは、人知を超えた技と言われる所以です。

 

古武術の中には、主に柔術、剣術、居合術が含まれ、スタイルはそれぞれありますがいずれも相手を制御する術理が含まれている事は共通します。

 

ただしこれらのスタイルの違いだけではなく、難易度にも違いがあります。

 

柔術は、相手と素手接触しているので直接接触点から相手の情報を読み取る事ができます。

 

剣術は、得物(太刀、小太刀、十手等)を通じて間接的に相手と接触する為情報の読み取りが柔術に比べ限定され、増して距離を置いての攻防はより情報は限定されます。

 

居合術に至っては、相手は仮想敵となり、相手の情報はありません。

 

それぞれの状況で、相手を制御する方法を学びとる事が求められます。

 

柔術では相手の存在が実感としてあり、剣術は距離が離れているので実感は乏しく、居合術に至っては実感どころか相手がいません。

 

相手の状況は変わりますが、共通する事は自らは存在している事。

 

相手を制御するためには、相手を操作するのではなく自らを操作するしかありません。

相手もこちらの動向で出方を伺うわけですから、自らの動きで相手の動きも変わるはずです。

 

相手の力を引き出すために、自らの動きを制御する。

 

この制御の仕方で術になるか、カロリーを消費するだけの動きにしかならないか、同じような動きでも雲泥の差となります。

 

術となる自らの動きを制御する。

 

徹底的に制御し、無駄を省いていくと動きが消えます。

 

動きが消えたから作用も消えてなくなるかといえばそうではなく、操作感が消えて作用だけが残る、それが術となるのでしょう。

 

そしてそこには力が存在していません。

 

力が存在しないとは、力を使わないという意味ではなく、力を感じさせない力の使い方であり、力を感じなければ存在感も無くなります。

 

そんな見えない、感じ取れない力の存在により相手は翻弄され、なすがままに制御されて相手が自らの力で自らが崩れる結果となる事が、あたかも相手の力を利用して技を掛けている様に見えるのでしょう。

 

究極に力を削ぎ落とした先に「柔」がある

戦いの技術として「柔」の文字を当てることに疑問を持っていました。

 

やわらかくしなやかで弱い、心がやさしくて穏やかを意味する言葉が、戦いを勝ち抜く技術としてどうしても納得できなかったのです。

 

しかし、ようやく柔術の稽古を通じて「柔」とする意図が見えてきました。

 

意味ではなく意図です。

 

その意図は、力の向こうに目指すものは無いということ。

 

そのことに気付かせる様に型稽古が組まれていることに気付き、稽古を続けて20年目にしてようやくスタート地点に立った思いです。

 

早かったのか遅かったのかは判りませんが、気付けてだけでも型稽古を続けた甲斐がありました。

 

常々稽古を通じて「型」はタイムカプセルの様だと考えるようになり、この型を意図することが理解できればきっと当時のまま、そのままの身体が表現できると感じるようになっていきました。

 

このタイムカプセルを紐解くキーワードが「力の使い方」なのです。

 

しかし、現代人の常識の範疇で生活する私にとって「型」というタイムカプセルを開けるためのキーワードが判ったところで、中を見ても全く意味不明な暗号のようなものが入っているだけでどうしようもありませんが。

 

普通の人はそれを見て理解できないとあきらめる、もしくは理解できるように考える、のどちらかでしょう。

 

そこにタイムカプセルが開かない一つの落とし穴があり、理解できないと諦めてしまえば当然タイムカプセルは開きません。

 

そして、もう一つの落とし穴が、自分なりに理解しようとする行為が本質を捻じ曲げてしまう恐れがあり、タイムカプセルが開いていないにも関わらず、開けたような気分になってしまう事、この場合もカプセルを開けたとは言えません。

 

暗号そのままを理解する事が難しいのです。

 

力を使わないと身体は動かないとする価値観がある限り、暗号は解けません。

 

ただこの自分の価値観に疑問を投げかけ続けると、自分の傲慢さが見えてくるのです。

 

それは、型稽古を行う上で自分なりの動き方をすれば必ず動けないように仕組まれている事に気付かされます。

 

いち・にい・さんの単純な三動作さえも普通の人が普通に動けば何となく動ける動作ですが、当然それでは術にはなりません。

 

普通の当たり前の身体の動きが、傲慢で自分勝手な動きである事を知り、その価値観のまま動き続けても先が無いことに気付かせる方便として型があるのです。

 

自分なりの身体の動かし方が、全く機能しないことを知らしめてもらえます。

 

そこで自分の価値観を崩壊させることが出来るのです。

 

自分の中の自分の価値観は、自分の中では大きな割合を占めていますが、400年以上先人が練りに練った「型」における価値観に比べれば「屁」みたいなものです。

 

そんなものに自分の価値観で考えても太刀打ちできるわけがありません。

 

だから屁みたいな価値観を壊す作業をしなければなりません。

 

そして自分の価値観で動いた身体の動きをどんどん削ぎ落とす、自分の動きを否定すると「型」に仕組まれた術のエッセンスが滲み出てくると思えてきました。

 

究極の自分を消す作業。

 

自分か消えてしまえば死んでしまいます。

 

型稽古は死をも疑似体験できる所まで設定されているようにも思えます。

 

自分の力、価値観を削ぎ落としていく作業は、やわらかくしなやかで弱く、心やさしく穏やかでなければ達成できないようにプログラムされているのでしょう。

 

このように考えると、柔は戦いの技術ではなく戦う必要が無い技術と捉えることができます。

 

柔術はジェントルマンのたしなみ

ジェントルマンといえば、イギリスの大地主ですが長期にわたり国の中枢を担って来た歴史があります。

 

そのイギリスが今大変な局面を迎えています。

 

その一つにイギリス紳士の思惑よりも強い力が英国の舵を切る可能性が高い様で、国の中枢で舵を握るイギリス紳士達は今後どのようにイギリスを導くのか世界中が注目しています。

 

見方によると民意が高まるより、ジェントルマンの威力が低下している様にも捉える事も出来ます。

 

日本でジェントルマンといえば・・・

 

私は日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた武士のイメージがあり、武士のイメージを現代風にすると、礼儀と教養を持ち合わせた軍事や政治に精通した紳士になります。

 

そんな武士の威力が低下し新しい時代に突入した日本の歴史にも似た、英国紳士の立場が感じられます。

 

日本の中枢を長期にわたって担って来た武士の素養を身につけつために柔術は必修でした。

 

武士は、柔術や剣術の武術を通して素養を高めて、国を導く処まで能力を発揮したと推測すると、柔術を含む武術の中にただ戦いの方法だけでは無く国を導く程の素養を身に付けられる程の中身があったのではないかと思います。

 

当然学問も必要ですが、学問優先であれば武士でなくても良かったわけで、武士が国を担うということは、やはり武術の方が優先順位は高いはずです。

 

この武術の中に学問以上に国を導く処まで素養を高める内容が詰まっている筈です。

 

その一つとして柔術が含まれています。

 

柔(やわら)の術(すべ)の意味するところ意図するところは何なのか?

 

その答えが独自の稽古法である「型稽古」の中にあるはずです。

 

型稽古は受け手と捕り手の二方が、決められた手順どおり攻防を行います。

 

この手順を行うことで術を収得することが出来るということですが、実際に行ってみてもどのあたりが術として生かされているのか理解しがたく、また実戦に使うには不自然な動きがある印象です。

 

現実にいにしえから受け継がれた多くの流派が在ったにもかかわらず、現存する流派は少数になりました。

 

それは流派の型の意味するところを解読できず、形骸化しいつの間にか意味を見出せづ継承されること無く消滅したと推測されます。

 

一つの手掛かりとして柔(やわら)の意味するところをきちんと押さえることが出来るか否か。

 

柔とは、やわらかく、しなやかで弱く、心がやさしく穏やかである。

 

これらの意味することが理解できなければ、柔と型の本質を読み解くことはできないはずです。

 

なぜ、やわらかく、しなやかで弱く、心がやさしく穏やかなことが武士の素養を高める肥やしに成り得るのか。

 

そして、なぜそれらが術(すべ)にまで昇華するすることが出来るのか。

 

それは実際に型の理論を体験しなければわからないことなのでしょうが、体験しても理解できずこの世から多くの型が消滅してしまいました。

 

それだけ武士が行ってきた柔術は意味不明であり理解不能な領域に到達していたと思われ、理解できる人は到底少数になるはずです。

 

その様な難解な術をたしなむ武士が普通にそこらへんに歩いている世界は考えただけでも驚きを隠せません。

 

逆にその様な意味不明、理解不能な代物が現代に残っていること事体が奇跡に近いとも取れます。

 

いずれにしても、歴史の中で培われた柔術は先人の知恵と知識が凝縮した理論であることは間違いありません。

 

その凝縮された理論はある意味タイムカプセルのごとく型として残されてきました。

 

このタイムカプセルを解読する作業はきっと国を導くほどの難解さを踏まえているのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

柔術の稽古で柔(やわら)の意味を考える

柔とは①やわらかい。しなやかで弱い。②心がやさしい。おだやか。とあります。 

 

 しなやかで弱いのは困りますが、しなやかに順応でき柔らかい物腰で心やさしく穏やかな人になれればもう何も望みません。

 

柔(やわら)とはそのような人を創るための意味が含まれているのではないでしょうか。

 

その方法論として柔術といわれる技術が発展してきたと考えることができます。

 

ただ柔術は武術の一種で戦いを想定した技術に柔(やわら)は似つかわしくないような印象があります。

 

しなやかで弱いとされる柔がなぜ武術の名となったのでしょうか?

 

現代の柔といえば「柔道」となりますが、私のイメージでは、柔道にしなやかで柔らかい物腰で心やさしく穏やかではなく、質実剛健心身ともに強くたくましく強靭さを思い浮かべてしまいます。

 

いつの間にか、いつの時代か柔が柔でなくなっているような気がして、柔という言葉だけが残り、中身は全く別の何かに置き換わった競技として変化しているように思います。

 

柔を解釈するためには、いにしえの柔術を学ぶしかありません。

 

武術という戦いを想定された技術に、しなやかで弱いとか心がやさしいと意味する文字を当てる意味について実際に柔術を稽古している人間として考えて見ました。

 

最近の柔術は良くわかりませんが、私が稽古する柔術は昔ながらの稽古法として型稽古を最重視ししています。

 

型稽古は、受け手と捕り手にそれぞれの決められた手順があり、この手順どおり正しく行うことで身体が練られ、武術の”術”に導くための手段と理解しています。

 

この型稽古の稽古法の中に柔(やわら)の意味が潜んでいるはずです。

 

よく型稽古を実戦での雛型と捉えられている武術家がおられますが、実際に稽古している中で型どおりの状況が起こるとは余り思えません。

 

ですから、戦いのパターンを憶える作業ではなく、型通り身体が捌けるか、型が意味するように動くことが出来るか。その結果術にたどり着ける、そんな身体づくりの方法論として頭ではなく身体で理解するよう組み立てられた理論なのです。

 

この理論は、頭で理解するより身体で理解するために組み立てられているため、実際に身体を使って動作しない限り、見聞きしただけでは理解不能です。

 

 まして、身体を使って動作したところで意味不明な動きばかりで稽古の目的すらも良くわかりません。

 

その様なことを20年ほど繰り返していると、力の入れ方自体に違和感を感じ始めました。

 

現代の常識として身体を動かす、使うときには力を入れて動くことが当たり前です。

 

しかし、いにしえの型稽古法はどうも力を入れて行うと型通り動けないことがわかって来ました。

 

力を入れて身体を動かすと、とたんに相手の受け手にぶつかってしまい動きが止まってしまいます。

 

20年間そんなことに気付かず稽古をしていました。

 

しかし、逆にようやく力以外で身体を動かすとはどのようなことなのか理解できた時期でもあり、この力の使い方が明らかに柔(やわら)に繋がる術となるきっかけになるはずです。

 

現代での常識が覆される程の内容が柔術の中に含まれています。

 

と言ってもその昔であれば、常識であった事が今は非常識であることもしかりです。

 

例えば、昔は全ての作業が人力でしたので、出来るだけ疲れない様に身体に負担を掛けないように身体を動かしていたと推測しますが、現代は筋トレ等体に負荷を加えてその負荷に打ち克つような、積極的に負担を掛けることが常識です。

 

いつのまにか力の使い方が、力を入れないで動作を行う事から力を入れて動作を行う事に変化してきたように思い、逆転した元であるその最たる動作が柔の動きであり、その力の入れ具合が究極に力を感じさせない技術として武術に生かされたのではないかと推測します。

 

力を削ぎ落とした身体の動きは、しなやかで弱々しく優しい動きとして捉える事ができます。

 

柔の動きは力感を感じさせない動きとなるため、技を受ける側は柔の動きを認識する事が困難になり、反応する事がより難しくなる事は当然です。

 

技を掛けられていても気付かないままに技を掛けられている。そして知らぬ間に勝負がついてしまってしまいます。

 

力を削ぎ落とした動作の先に術がある。

 

柔術の稽古を通じてそれが柔の理だと確信しました。