力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

武術で身体を練る意味

 武術を始めた頃の目標として、柔術は前受身が出来るまで。剣術は素振りが出来るまでは辞めずに続けようと誓った。

20年以上辞めずに続いているのは、受身も素振りも出来ていないからでです。

一番初めに手渡される「型」として柔術では受身を剣術では素振りを頂くのですが、武術を知らない初心の頃、最初に易しい動きから初めて徐々に難しい型に入って行くと考えていました。

どのような分野でも基本、基礎が先ずあり応用へと進むので同じような感覚でいたのです。

しかし武術における受身、素振はそれぞれの動きの基本となるゆえ一番重要な要素を含む動きと考えられ、特に剣術における素振りの第一動作などは「極意」とされる動きとなります。

武術はいきなり「極意」から始まるのです。

一般的な考え方は、初めから難しいことはせず徐々にレベルを上げていく事が常套で、その流が「基本」から「応用」へ簡単なことから難しいことへ進むことが普通です。

ですので「基本」イコール簡単「応用」イコール難しいとなるのですが、武術では「基本」イコール「極意」となり「基本」イコール一番難しいとなる構図です。

入門当初はその様な事は全く知らず、とりあえず受身、とりあえず素振りと甘い考えで始めたところ辞める機会を逸してしまい、とりあえず、甘い素振りを日課とし続け今日に至ってしまいました。

しかし入門当初の素振り、そして20年目の素振り、同じようですがまったく違ったものとなりました。

素振りという腕の上げ下げの動作だけでも身体の使い方、動きはいろいろな要素を含み、その組み合わせ、使い方は無数にあります。そこに気付いたとき先人は、これだけの動きで、どれだけの可能性を秘めているかを伝えようとされたと思うと現代人の数百倍知恵が働いたと思わざるをえません。

いずれも出来ているとはいえない素振りですが、気がつけば「質」の違いを感じられるようになっていました。

前回の記事にも書きましたが、武術の「術」とは人が身につける「特別」な技とあり「普通」からステージが変わらなくてはなりません。

「普通」から「特別」へステージが変わる。

それは「質」が変わらなければなりません。

「質」という抽象概念は、武術においては明確に区別され「型」の中にそれぞれの段階(レベル)の「質」が封じ込められています。

そこに気付き、そしてその「質」とおり表現できれば「術」に近づくことが出来るのでしょう。

いにしえの武人が築き上げた、この様な「普通」から「特別」へ「質」を変換するシステムは、現代にはありません。

なぜなら現代人には考えも及ばないほど優れたシステムだからです。

その証拠に、身体を練る、身体を鍛錬するといわれる言葉はほぼ使われなくなり、使われたとしても意味合いがずれていたり軽薄な感じを受けます。

身体の「質」を変換するシステムを活用する方法として「身体を練る」「身体を鍛錬する」と昔の人は表現していたと思われます。

「練る」意味は、煮て柔らかくするように身体であれば繰り返し手を加えてより良くする。「鍛」意味は、金属を赤熱させ、打ち叩いて「質」を良くする。

その様に身体を繰り返し、繰り返し、繰り返し、練る様に同じ動作を繰り返していると、良い方向に手を加える所が見えて来て「質」を良くする手立てが見えて来る。

身体を練るとは身体の「質」を高める方法を表現する言葉ではないでしょうか。

 

古武術の眼に映っている虚構の世界と眼に映らない術の世界

日本刀を扱うにあたり斬るための「斬り手」といわれる手の形があります。手首を親指側にやや反らせた形と表現するとイメージしやすいかもしれません。写真や動画で手の形を現せば一目瞭然でどの様な形であるか直ぐ理解出来ます。

しかし、その形が解ったからと言ってなかなか斬る形とはなりません。

表面的な形を似せても機能する形にはならないのです。見た目は同じ様な手の形でも斬ると言う機能を求めた時歴然と違いが現れます。

結果的に斬れるか斬れないか二つに一つ〇かXかです。斬れた時はその形が正解であり、斬れない時は形になっていないことになりますが、偶然斬れる形になるかも知れません。しかし、侍がたまたま斬れる形で満足していたら命が幾つあってもたりません。

この斬る機能を備えた斬るための形は写真や動画で見たり、実際に術者の手を目の当たりにし真似たところでその形にはならないのです。

その形と言っても特殊な形ではなく、誰でもできる範囲の形なのですが、それが出来ません。

ですから武術は見様見真似では進歩が無いことになります。

その形が自分のものとなるまで練らなければならないのです。

武術の術とは、人が身につける「特別」の技とありますから、「普通」では身に付けられません。見ただけではダメなのです、普通から特別にステージが変わらなくてはなりません。

増して見えたものが術とは言えないのです。

手品でタネが見えてしまっては技にならない様に、見えない、判らないからから術と呼べるわけで見えているものは術の抜け殻みたいなものです。

術は見えないから術であって、見えている現象は術の虚像を見ているに過ぎません。

見えているものに対して追求している間は、「普通」のレベルで、見えないものに眼を向けることで初めて「特別」の世界に脚を踏み入れることが出来るのです。

しかし、見えないものは見えません。どうしようもありません。お手上げです。

「特別」な世界はこのお手上げ状態から出発し、虚像や抜け殻を頼りに見えないものを作り出す作業を行います。

間違ってはいけないことは、この虚像や抜け殻を術だと勘違いすることです。

見えないと見えるものに頼りたくなるのは心情としてよくわかるのですが、見えないものを見えないものとして作り上げなければなりません。

それも機能を兼ね備えなければ意味がないのです。

そして、機能を備えた見えないものが「術」となるのです。

そこには「働き」しかありません。

お手上げ状態から、何もないただ「働き」だけが存在する状態までの距離は途方もなく長く、生きている間にはほぼ行き着くことは出来ないでしょう。

そんなこと、今頃気付いても遅くさいわけで、勘の良い人はとっとと辞める筈です。

辞めそびれたからには、とことん行くところまで行くしかありません。

手の形一つとっても「働き」が伴う形になるまで練らなければなりません。

冒頭に書いた「斬り手」は、剣を持つ右手は当然ですが、それ以上に重要なのが鞘を引く左手の斬り手となります。

「普通」に考えれば、斬るのは右手であって左手は鞘を引いただけで、左手は斬る作業に直接関与していないから余り関係がないように思われがちです。

しかし、「特別」の世界では直接関与する右手よりも、左手の「働き」如何で斬る身体の形が作られ、この左手斬り手の「働き」が右手に持つ剣の機能を導き出す形となるのです。

「普通」は右手の力を高めますが、所詮右手の限られた範囲での能力に過ぎません。

剣の機能を最大限引き出すためには、身体を最大限活用し身体の持つ「働き」を余すところなく剣に伝える事により剣は機能するのです。

身体を最大限活用する時、例えば右手で抜き付けた形であれば、右手から遠くの左半身がポイントとなり、より遠くの左手の作用が「働き」を創り上げるキーポイントとなるのです。

この様な身体の「働き」が一気に剣に乗り移った時「術」と言われる「働き」が表現されます。

右手に目が奪われがちですがそこは虚構の部分で、目には見えない左半身の「働き」が斬るという事実を創り上げます。

目に見えていない部分が「術」の世界なのです。

理想の動きを追求するためのシステム

武術武道、スポーツ、楽器演奏や芸能どの様な世界でも日々理想の動きを目指し精進されていると思われます。

理想的な身体の動きは、自分の思い通りに身体が反応し最大限のパフォーマンス得るために試行錯誤し理想に近づけて行く作業が必要です。

理想の動きと現実の動き、稽古や練習はこの差を詰めて行く作業といっても良いでしょう。

まず、理想の動きとは。

理想の動きを実際に表現する人の動き方、いわゆる憧れの人また師範となる人の身体の使い方、動き方は一番理想の動きとなり得るでしょう。

自分のイメージの中にある理想の動きもあるかもしれませんが表現性が乏しく、実際に動けている人の真似をした方が現実的です。

そして、現実の動き。

自分の中では、理想の動きが出来ているつもりになる事がよくありますが、実際の動きとイメージではギャップが生じています。それを確認するためには、客観的に評価してもらう事です。

一番良い方法は、理想の動きができる人に自分の動きを評価してもらう事になるでしょう。

ですので、師弟関係の構築が一番理想の動きを得る最短の方法となるのです。

実際に理想の動きが出来る人に手取り足取り直接指導して頂き、良くない動きを修正出来ればそれに越した事はありませんが、現実にはその様な条件に当てはまる事は少なそうです。

そこで自分一人で理想の動きが出来る人の動き方をイメージして、その動き方に近付ける様に試行錯誤の日々がほとんどの時間を費やすことになるでしょう。

この一人で行う試行錯誤の稽古が曲者で、回数を重ねると出来た様な気分になれてしまいます。

 動きが慣れてくるとスムーズに身体を操ることが出来る様になってきます。しかしその慣れた動きが理想の動きとは限りません。慣れた動きと理想とする動きの違いをチェックするシステムが必要です。

古武術において柔術が剣術や居合を引き上げるといわれています。

先ず体術を身に着けてから獲物を扱うという考え方もありますが、柔術には必ず技の受け手が付いて技のチェックを都度受け手が直接行います。

この受け手のチェックが慣れた動きであるか理想とする動きの違いを評価します。

見た目だけの慣れた動きには、実質が伴わず受け手の身体が動こうとはしませんが、理想とする動きには、動きの意味が含まれその意味を受け手の身体が動きで表現してくれるのです。

その時、受け手は受け手の意図を持たずただ無心に取り手の動きに追随していると、明らかに普通ではない感覚に捉われます。

受け手は取り手の意図を汲み取って動き出すのではなく、取り手の存在自体が消えてしまうので、どの様にリアクションすれば良いのかがわからなくなってしまいます。そして姿勢の保持が出来なくなり、結果的に取り手に誘導されている状況になってしまいます。

この存在自体を消す事が技の根底にあり、動きの意味となるところです。

理想の動きは、動きを相手に強要するのではなく、自らの身体を捌いて相手にぶつからないように、抵抗のないように振る舞うと抵抗のない方向へ相手を導く事が可能となります。

理想の動きは、力ずくで無理矢理作り上げるものではなく、無理無駄がなく力の存在を感じる事なく動きだけが存在するのです。

その評価を直接取り手の身体を捉えている受け手のリアクションの反応を見ながら理想の動きに近づけて行きます。

理想の動きを求めるため、稽古や訓練を色々な世界で行われていますが、武術の稽古は抽象的な動きの質を客観的評価を元にし、確立された伝承システムと思われます。

身体の力が抜けず脱力方法を意識しても力が抜けない理由

身体の力みを感じて半世紀が過ぎ、今まで脱力する使い方を意識的に色々と行なって来たが、ようやくわかった事は意識的に色々と脱力の使い方を行なってもあまり意味が無かったと言う結果に落ち着きました。

なぜなら身体をコントロールしているのはほとんどが無意識イコール自律神経系が支配しているわけで、意識が身体の動きに関与する割合は多くはないからです。

トイレに行くだけでも方向を決めたりドアの開け具合を調節したり膀胱括約筋のコントロールと、そのような事をいちいち意識していたら大変です。ですから、身体が自動的に無意識に自動操縦で勝手に動いてくれていますので、寝ぼけていても用が足せるのです。

身体に力が入り過ぎて、脱力出来ない対処法は、無意識の作業に対して意識的に関与しなければならず、その様な事が出来様になるには、インドに行ってヨガの修行をするしかない様に思います。

無意識が力を入れよと判断しているのに意識的に力を抜こうとしても余り意味がないのではないでしょうか。

ただ、問題は無意識下で身体にそれだけ力を入れなさいと判断しているわけで、何かしら力をそれだけ入れなければならない理由があるはずです。

無意識下でそれだけ力を入れなければならない理由を明らかにすれば、その理由に対して意識的にアプローチする事には意味がある様にも思えます。

なぜ身体は余計に力を入れよとするのか?

日常の場面でもスポーツの場面でも慣れない場面は緊張したり力が入り過ぎる事がよくあります。

慣れない場面は、居心地が悪かったりポジションが決まらなかったり身体の在るべき場所がしっくりとこないシュチュエーションとして想像できます。

この身体の在りようが力を必要以上に入れてしまう原因となるのであれば、この身体の在りようを変える事で、必要以上の力を抜く事が可能です。

居心地の良い環境は広い意味で身も心も快適な状況に身を置いています。

また、スポーツの場面でもシッカリと訓練された身体は、効率の良いポジションを会得しベストな動きができる身体の準備が出来ています。

これらの身の置き方次第で力の入り具合が決定されるのではないでしょうか。

ベストな身の置き方をすれば、効率良く動く事が出来力の出力は少なくてすみます。しかし、居心地の悪い身の置き方をしていれば身体を制御する自律神経系は自分にとって快適な状況に近付けようと自動操縦で身体をコントロールし始めます。

この自分自身が気付かない作業が厄介です。

自分が意識しなくても自分の身体が良かれと判断し、自らをコントロールする時に力を使ってしまいます。

ある意味このコントロールが身体のそれらしい振る舞いをしてくれるのですが、力でコントロールする以上、コントロールすればするほど力が過剰に入ってしまいます。

この作業をする必要のない身体の状況に出来れば、過剰な力も必要がなくなるわけです。

そのためにも、「構」が極意であり重要になります。構は動作を行う前段階の状況で、この段階で身体が整っていれば力は必要ありませんが、構が崩れていれば身体は無意識的に姿勢を整えようと力を使い始めます。

無意識に入れた力は、意識で力を抜こうとしてもコントロール出来ません。

それは身体保持に無意識の自律神経系が、自分の思いとなる意識より優先されるから他ありません。

そこで力が抜けないと諦めるのではなく、構となる姿勢を整えて力を入れる必要の無い身体の在りようを見つける必要があります。

普段から、身体に力が入り過ぎて脱力出来ないとお感じの人は脱力に努力するのではなく、構もしくは姿勢もしくは身体の在りようを見直されてはいかがでしょうか。

 

 

指先の力が抜け腰と繋がる時響きが生まれる

雨の中ザ・シンフォニーホールへ日本センチュリーの定期演奏会に出かけ、ラヴェルボレロを初めて生で聴きました。

その前にフランスの山人の歌による交響曲なるものも初めてです。

ピアノは横山幸雄さんで、オルガン席だった為ピアノの音は殆ど聞こえませんでしたが今回アンコールにラヴェルの道化師の朝の歌を弾かれじっくり聴く事が出来ました。横山幸雄さんのピアノコンチェルトは以前聴いたことはあったのですがソロで聴いたのは初めてでしたが響きが腰に来たので感激してしまい、リサイタルも行ってみたくなりました。音楽的感性の全くない私は身体特に腰で共鳴することをコンサートでの最大の楽しみとしています。

オルガン席は、指揮者が良く見えるので個人的には好きな席です。いつも身体の動きを気にしているので聴くよりも見る意識が強くなり、指揮者の身体操作が非常に興味があるためです。

そして、今回のピアニスト横山さんの手元も上から大変良く見えました。

軽やかな手元は、指を丸く使いニャンコの手の様な特徴的なタッチが結構多く見られたのですが、それを見て剣術の手首の操作に共通する動きに気がついたのです。

「切先を効かせる」剣術においてその様に使う場合があります。

切先とは剣の先端部分であり、効かせるとはこの先端部分に力を集約させ剣をコントロールし相手との接戦で相手の剣を通して相手を崩す操作を行うことがあります。

しかし、実際やってみるとわかりますが(箒みたいな棒でどなたかの膝付近に箒の先っちょを軽く当て、横にはたいてみて下さい。)なんともなりません。切先を効かすことが出来れば軽く当てているだけでも受ける人の腰が崩れます。

両手の間隔を広げ力一杯押さえ込めば相手が崩れるかもしれませんが、それは力の作用なので技とはいえません。

「切先を効かせる」ためには、指先の力具合と手首の操作と力の出所である腰の作用を制御し一致した動きを腰から手首を通して指先まで繋げなければなりませんがそれがようやくわかったものの上手くいきません。

演奏中の横山さんの手首は、空間において全く動いていませんでした。表現が難しいのですが、ぶれていないという事。

普通にニャンコの手みたいに指を動かせば必ず手首はぶれますが彼の手首は空間にピタリと止まっていたのです。

素晴らしいと思うとともにあの手首の使い方だから指先イコール切先を効かせる事が出来る、すなわち指先に力を集中させる事が出来、結果的に指先の力が必要なくなるはずです。それは、指先は作用点であり力点は腰(広背筋の下部)で腰からのエネルギーを支点となる手首でエネルギーをロスせず指先に伝える事ができれば、指先に力を入れずに指先を効かす事が出来る。はずです。。。。。、

今まで無数の仮説を立ててことごとく実証出来ず崩れ去って来ましたが、仮説の精度が徐々に上がって来ている感じはします。今まででしたらあの手首を見ても気付かなかったでしょうが感性が高まることで見えないものが見え出す事がある。そして仮説を実証する為にあの手首の使い方が表現できるように稽古しなければなりません。

一流のピアノ演奏と切先を効かせる達人の技は、普通の身体操作では絶対表現出来ません。同じ事を繰り返していても身体操作はどんどん変換され同じ動きでも全く質の違う動きが生み出されなくてはなりません。その結果響かせる事が出来、また腰を崩すことが出来るのでしょう。

楽器演奏で音を共鳴させ響かせることと武術で相手を崩すことは、相手を取るという意味で同じ行為といえるでしょう。

あとは手首を制御し広背筋の下部で指を動かす事が出来る様に稽古しなければなりません。

意識せずに出来る人は出来ても、出来ない人は出来る様に稽古するしかありません。