力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

武術の観点から見た四股踏みの方法

相撲における四股踏みは、紛れもなく「型」の一つであり、この型を体得した時「四股十両テッポウ三役」の格言通り十両級の実力が備わっている事になります。

四股を踏む事によってそれだけの実力が備わるのか、武術の観点から考えてみたところ、四股は身体の重心の操作を稽古するには最適な方法だと考えられます。

日常生活に於いて身体の重心を意識する事は殆どありません、しかし重心は物理的に身体そのもの、存在そのものと言っても過言では無いぐらい重要な存在です。

この重心の在り様をコントロールする事が四股を踏む目的ではないでしょうか。

相手を制御し白星を勝ち取る為には、自らを制御し相手より有利な動きを行わなければなりません。

この時の自らの制御は、身体が相手に対して有利な位置関係にある事が前提で、その有利な身体の位置や場所により適した技を繰り出す事で勝つ可能性が高まります。

ですので、有利な位置関係にないにもかかわらず技を掛けても技が決まらない、あるいは不利な体勢から無理矢理技を打ってケガのリスクを高めてしまう結果になってしまいます。

技を掛ける前に必ず相手よりも有利な位置関係に身を置く事が大変重要になってきます。

身体を移動させる事とは重心が移動する事であり、この重心をいかに相手より有利な位置に運び態勢を整えることで技の確実性が高まるはずです。

身体の移動方法すなわち重心の移動方法として四股を踏むことで養われるのでしょう。

そこで普通の四股踏みと武術的な四股踏みの違いを述べるとすると、普通は身体が動くことで重心が移動しますが、武術的には重心が移動することで身体が変化します。

これを四股踏みの動作に当てはめてみると、普通は上半身を横にスライドさせ脚を上げます、このとき上半身が先に倒れこみ重心が後で付いてくることが多いようです。(反対の場合もあります)いずれにしても、身体の動きと重心の動きが一致していません。

そのズレは身体の動きに微妙に現われ、そのズレを調整するために筋力を使いコントロールします。

身体の動きと重心の動きがコントロールされると一見一致した動きに見えます。

しかし実際の動きは筋肉を緊張させ身体を制御しているため、自らの動きを動かないように止めてしまう形となります。

身体を動かないように動かすような非効率な力の使い方となり、それを補う為に筋力を高め動きを補助します。

自動車に例えるとサイドブレーキを利かせたままアクセルを踏み込んで走るようなもので、外から見ると普通に走っているように見えますが、運転者はおかしいと感じているはずです。しかし、毎回毎回そのような走り方をしているとおかしな事がわからなくなりそれが当たり前の感覚に陥る様な感じです。

四股を踏む目的は、このズレを自覚して修正する事が目的だと考えます。

武術的に四股を踏むとすれば、この誤差を詰める事を稽古します。

経験上いきなり一致させることはあり得ないと思われ、それは重心と言う感覚が無ければ一致しているかどうか分からないので(この感覚が中心感覚なのかは分かりません)先ずこの感覚を養わなければならないのです。

これは、自転車に乗るプロセスと同じで、いくら運動神経が優れていてもいきなり自転車や一輪車を乗りこなす人はそんなにいないはずです。

武術の稽古は、自転車に乗るプロセスと同じ様に経験を積み感覚を高める作業を繰り返します。

この感覚が高まってくると、自身の身体が重心に乗る感覚が芽生えてきます。

そして、身体と重心が一致した動きを養われた時には自身の身体の重みや接触する相手などの重みさえも感じることなく動く事ができます。

その時初めて重心が動く事で身体が動かされたと言う感覚になり、その時力を入れて、力を使って身体を動かした感覚は全くありません。

妙な感覚としか言いようがありません。なぜなら、身体を動かす時には必ず力感が伴っていますが、この力感が感じられないので普通では在りえない感覚に陥ります。

四股を踏む事だけではなく、武術的動作はこの力感が伴わない動作が特徴であり、身体が動いて重心が動く一般的動作から、重心が動く事で身体が動く様に質の変換を行えるよう稽古に励みます。

 

「四股十両テッポウ三役」における四股の意味

大相撲の世界で「四股十両テッポウ三役」といわれる格言があるそうです。

これは申し合い稽古をしなくても、四股をしっかり踏み続ければ十両まで上がれる。そこにテッポウを加えれば三役まで上がれる。という意味がこめられているそうです。

相撲にとって「四股」は紛れもなく型の一つです。相撲史上起源を遡り千数百年間四股が踏まれて来たことは、相撲界にとって四股は切っても切れない存在と言えるでしょう。

力士になれば、先ず四股踏みの稽古から始めるとすると、柔術であれば受身、剣術であれば素振りと同じく基本となる大切な型である事は間違いありません。

剣術における素振りの第一動作が極意とすると、相撲における四股踏みも極意に匹敵する要素を持ち合わしているはずです。

だから、四股で十両まで上がれるという事なのでしょう。だから四股を踏む事が申し合い稽古よりも大切であるはずです。

しかし、四股を踏んでいるだけで十両に上がれるイメージが沸くでしょうか?

どこからか、相撲はそんな甘いもんじゃない。様な声が聞こえてきそうです。

では、この格言はジョークなのでしょうか、それとも昔はそれで良かったが今では通用しないのでしょうか。

だから、四股を踏むより筋トレを行う力士が出てきたりしているかもしれません。

四股を筋トレと同次元で扱う事自体ナンセンスだとは思いますが、前回記事にも書いた様に四股にも「質」を高める機能が備わっていると思われます。

 

nara344970.hatenablog.com

 

筋トレは、力が強くなる事はあっても「質」は余り変わる事はない様に思われます。

結局、上位に上がれる力士は強い力士ではなく、「質」が高い力士であり、強い力士は力が落ちる事があれば番付も落ちるかもしれません。

そのてん「質」は落ちる事は「ない」と言い切って良いと思います。

落ちるとすれば「質」以外の要素でしょう。

質を高めるために技が練り込まれた身体は、身体自体が技になっている為身体がなくならない限り質が落ちる事はなく、一度身に付いた技は何十年活用していなくても、一瞬で技の再生が可能となるはずです。

昔取った杵柄とは、質は劣化が起こらないという事だと思います。

私個人的には、強い力士を観るよりも質の高い力士を観たいです。

その様な質の高い対戦となると、絶対に現在の取り組みとは全く違う雰囲気になるでしょう。

四股を踏む事を重んじていた時代は、そんな雰囲気が漂っていたかもしれません。

しかし、四股を踏んでいるだけで十両に上がれるほど甘くないという考え方自体「四股の形骸化」が起こっているのではないでしょうか。四股がただの相撲パフォーマンスに成り下がってしまえば、全く意味を成さなくなってしまいます。

四股を踏む事よりも、筋トレにシフトしていくとまさしくスポーツです。

個人的には、神事を観ているというよりも、スポーツ観戦と同じで、記事が新聞のスポーツ欄に載ること自体にも違和感を感じます。

それが現代の大相撲としての発展形とし興行とするならば、それで良いのですが。。。

 

 

武術で身体を練る意味

 武術を始めた頃の目標として、柔術は前受身が出来るまで。剣術は素振りが出来るまでは辞めずに続けようと誓った。

20年以上辞めずに続いているのは、受身も素振りも出来ていないからでです。

一番初めに手渡される「型」として柔術では受身を剣術では素振りを頂くのですが、武術を知らない初心の頃、最初に易しい動きから初めて徐々に難しい型に入って行くと考えていました。

どのような分野でも基本、基礎が先ずあり応用へと進むので同じような感覚でいたのです。

しかし武術における受身、素振はそれぞれの動きの基本となるゆえ一番重要な要素を含む動きと考えられ、特に剣術における素振りの第一動作などは「極意」とされる動きとなります。

武術はいきなり「極意」から始まるのです。

一般的な考え方は、初めから難しいことはせず徐々にレベルを上げていく事が常套で、その流が「基本」から「応用」へ簡単なことから難しいことへ進むことが普通です。

ですので「基本」イコール簡単「応用」イコール難しいとなるのですが、武術では「基本」イコール「極意」となり「基本」イコール一番難しいとなる構図です。

入門当初はその様な事は全く知らず、とりあえず受身、とりあえず素振りと甘い考えで始めたところ辞める機会を逸してしまい、とりあえず、甘い素振りを日課とし続け今日に至ってしまいました。

しかし入門当初の素振り、そして20年目の素振り、同じようですがまったく違ったものとなりました。

素振りという腕の上げ下げの動作だけでも身体の使い方、動きはいろいろな要素を含み、その組み合わせ、使い方は無数にあります。そこに気付いたとき先人は、これだけの動きで、どれだけの可能性を秘めているかを伝えようとされたと思うと現代人の数百倍知恵が働いたと思わざるをえません。

いずれも出来ているとはいえない素振りですが、気がつけば「質」の違いを感じられるようになっていました。

前回の記事にも書きましたが、武術の「術」とは人が身につける「特別」な技とあり「普通」からステージが変わらなくてはなりません。

「普通」から「特別」へステージが変わる。

それは「質」が変わらなければなりません。

「質」という抽象概念は、武術においては明確に区別され「型」の中にそれぞれの段階(レベル)の「質」が封じ込められています。

そこに気付き、そしてその「質」とおり表現できれば「術」に近づくことが出来るのでしょう。

いにしえの武人が築き上げた、この様な「普通」から「特別」へ「質」を変換するシステムは、現代にはありません。

なぜなら現代人には考えも及ばないほど優れたシステムだからです。

その証拠に、身体を練る、身体を鍛錬するといわれる言葉はほぼ使われなくなり、使われたとしても意味合いがずれていたり軽薄な感じを受けます。

身体の「質」を変換するシステムを活用する方法として「身体を練る」「身体を鍛錬する」と昔の人は表現していたと思われます。

「練る」意味は、煮て柔らかくするように身体であれば繰り返し手を加えてより良くする。「鍛」意味は、金属を赤熱させ、打ち叩いて「質」を良くする。

その様に身体を繰り返し、繰り返し、繰り返し、練る様に同じ動作を繰り返していると、良い方向に手を加える所が見えて来て「質」を良くする手立てが見えて来る。

身体を練るとは身体の「質」を高める方法を表現する言葉ではないでしょうか。

 

古武術の眼に映っている虚構の世界と眼に映らない術の世界

日本刀を扱うにあたり斬るための「斬り手」といわれる手の形があります。手首を親指側にやや反らせた形と表現するとイメージしやすいかもしれません。写真や動画で手の形を現せば一目瞭然でどの様な形であるか直ぐ理解出来ます。

しかし、その形が解ったからと言ってなかなか斬る形とはなりません。

表面的な形を似せても機能する形にはならないのです。見た目は同じ様な手の形でも斬ると言う機能を求めた時歴然と違いが現れます。

結果的に斬れるか斬れないか二つに一つ〇かXかです。斬れた時はその形が正解であり、斬れない時は形になっていないことになりますが、偶然斬れる形になるかも知れません。しかし、侍がたまたま斬れる形で満足していたら命が幾つあってもたりません。

この斬る機能を備えた斬るための形は写真や動画で見たり、実際に術者の手を目の当たりにし真似たところでその形にはならないのです。

その形と言っても特殊な形ではなく、誰でもできる範囲の形なのですが、それが出来ません。

ですから武術は見様見真似では進歩が無いことになります。

その形が自分のものとなるまで練らなければならないのです。

武術の術とは、人が身につける「特別」の技とありますから、「普通」では身に付けられません。見ただけではダメなのです、普通から特別にステージが変わらなくてはなりません。

増して見えたものが術とは言えないのです。

手品でタネが見えてしまっては技にならない様に、見えない、判らないからから術と呼べるわけで見えているものは術の抜け殻みたいなものです。

術は見えないから術であって、見えている現象は術の虚像を見ているに過ぎません。

見えているものに対して追求している間は、「普通」のレベルで、見えないものに眼を向けることで初めて「特別」の世界に脚を踏み入れることが出来るのです。

しかし、見えないものは見えません。どうしようもありません。お手上げです。

「特別」な世界はこのお手上げ状態から出発し、虚像や抜け殻を頼りに見えないものを作り出す作業を行います。

間違ってはいけないことは、この虚像や抜け殻を術だと勘違いすることです。

見えないと見えるものに頼りたくなるのは心情としてよくわかるのですが、見えないものを見えないものとして作り上げなければなりません。

それも機能を兼ね備えなければ意味がないのです。

そして、機能を備えた見えないものが「術」となるのです。

そこには「働き」しかありません。

お手上げ状態から、何もないただ「働き」だけが存在する状態までの距離は途方もなく長く、生きている間にはほぼ行き着くことは出来ないでしょう。

そんなこと、今頃気付いても遅くさいわけで、勘の良い人はとっとと辞める筈です。

辞めそびれたからには、とことん行くところまで行くしかありません。

手の形一つとっても「働き」が伴う形になるまで練らなければなりません。

冒頭に書いた「斬り手」は、剣を持つ右手は当然ですが、それ以上に重要なのが鞘を引く左手の斬り手となります。

「普通」に考えれば、斬るのは右手であって左手は鞘を引いただけで、左手は斬る作業に直接関与していないから余り関係がないように思われがちです。

しかし、「特別」の世界では直接関与する右手よりも、左手の「働き」如何で斬る身体の形が作られ、この左手斬り手の「働き」が右手に持つ剣の機能を導き出す形となるのです。

「普通」は右手の力を高めますが、所詮右手の限られた範囲での能力に過ぎません。

剣の機能を最大限引き出すためには、身体を最大限活用し身体の持つ「働き」を余すところなく剣に伝える事により剣は機能するのです。

身体を最大限活用する時、例えば右手で抜き付けた形であれば、右手から遠くの左半身がポイントとなり、より遠くの左手の作用が「働き」を創り上げるキーポイントとなるのです。

この様な身体の「働き」が一気に剣に乗り移った時「術」と言われる「働き」が表現されます。

右手に目が奪われがちですがそこは虚構の部分で、目には見えない左半身の「働き」が斬るという事実を創り上げます。

目に見えていない部分が「術」の世界なのです。

理想の動きを追求するためのシステム

武術武道、スポーツ、楽器演奏や芸能どの様な世界でも日々理想の動きを目指し精進されていると思われます。

理想的な身体の動きは、自分の思い通りに身体が反応し最大限のパフォーマンス得るために試行錯誤し理想に近づけて行く作業が必要です。

理想の動きと現実の動き、稽古や練習はこの差を詰めて行く作業といっても良いでしょう。

まず、理想の動きとは。

理想の動きを実際に表現する人の動き方、いわゆる憧れの人また師範となる人の身体の使い方、動き方は一番理想の動きとなり得るでしょう。

自分のイメージの中にある理想の動きもあるかもしれませんが表現性が乏しく、実際に動けている人の真似をした方が現実的です。

そして、現実の動き。

自分の中では、理想の動きが出来ているつもりになる事がよくありますが、実際の動きとイメージではギャップが生じています。それを確認するためには、客観的に評価してもらう事です。

一番良い方法は、理想の動きができる人に自分の動きを評価してもらう事になるでしょう。

ですので、師弟関係の構築が一番理想の動きを得る最短の方法となるのです。

実際に理想の動きが出来る人に手取り足取り直接指導して頂き、良くない動きを修正出来ればそれに越した事はありませんが、現実にはその様な条件に当てはまる事は少なそうです。

そこで自分一人で理想の動きが出来る人の動き方をイメージして、その動き方に近付ける様に試行錯誤の日々がほとんどの時間を費やすことになるでしょう。

この一人で行う試行錯誤の稽古が曲者で、回数を重ねると出来た様な気分になれてしまいます。

 動きが慣れてくるとスムーズに身体を操ることが出来る様になってきます。しかしその慣れた動きが理想の動きとは限りません。慣れた動きと理想とする動きの違いをチェックするシステムが必要です。

古武術において柔術が剣術や居合を引き上げるといわれています。

先ず体術を身に着けてから獲物を扱うという考え方もありますが、柔術には必ず技の受け手が付いて技のチェックを都度受け手が直接行います。

この受け手のチェックが慣れた動きであるか理想とする動きの違いを評価します。

見た目だけの慣れた動きには、実質が伴わず受け手の身体が動こうとはしませんが、理想とする動きには、動きの意味が含まれその意味を受け手の身体が動きで表現してくれるのです。

その時、受け手は受け手の意図を持たずただ無心に取り手の動きに追随していると、明らかに普通ではない感覚に捉われます。

受け手は取り手の意図を汲み取って動き出すのではなく、取り手の存在自体が消えてしまうので、どの様にリアクションすれば良いのかがわからなくなってしまいます。そして姿勢の保持が出来なくなり、結果的に取り手に誘導されている状況になってしまいます。

この存在自体を消す事が技の根底にあり、動きの意味となるところです。

理想の動きは、動きを相手に強要するのではなく、自らの身体を捌いて相手にぶつからないように、抵抗のないように振る舞うと抵抗のない方向へ相手を導く事が可能となります。

理想の動きは、力ずくで無理矢理作り上げるものではなく、無理無駄がなく力の存在を感じる事なく動きだけが存在するのです。

その評価を直接取り手の身体を捉えている受け手のリアクションの反応を見ながら理想の動きに近づけて行きます。

理想の動きを求めるため、稽古や訓練を色々な世界で行われていますが、武術の稽古は抽象的な動きの質を客観的評価を元にし、確立された伝承システムと思われます。