大相撲の世界で「四股十両テッポウ三役」といわれる格言があるそうです。
これは申し合い稽古をしなくても、四股をしっかり踏み続ければ十両まで上がれる。そこにテッポウを加えれば三役まで上がれる。という意味がこめられているそうです。
相撲にとって「四股」は紛れもなく型の一つです。相撲史上起源を遡り千数百年間四股が踏まれて来たことは、相撲界にとって四股は切っても切れない存在と言えるでしょう。
力士になれば、先ず四股踏みの稽古から始めるとすると、柔術であれば受身、剣術であれば素振りと同じく基本となる大切な型である事は間違いありません。
剣術における素振りの第一動作が極意とすると、相撲における四股踏みも極意に匹敵する要素を持ち合わしているはずです。
だから、四股で十両まで上がれるという事なのでしょう。だから四股を踏む事が申し合い稽古よりも大切であるはずです。
しかし、四股を踏んでいるだけで十両に上がれるイメージが沸くでしょうか?
どこからか、相撲はそんな甘いもんじゃない。様な声が聞こえてきそうです。
では、この格言はジョークなのでしょうか、それとも昔はそれで良かったが今では通用しないのでしょうか。
だから、四股を踏むより筋トレを行う力士が出てきたりしているかもしれません。
四股を筋トレと同次元で扱う事自体ナンセンスだとは思いますが、前回記事にも書いた様に四股にも「質」を高める機能が備わっていると思われます。
筋トレは、力が強くなる事はあっても「質」は余り変わる事はない様に思われます。
結局、上位に上がれる力士は強い力士ではなく、「質」が高い力士であり、強い力士は力が落ちる事があれば番付も落ちるかもしれません。
そのてん「質」は落ちる事は「ない」と言い切って良いと思います。
落ちるとすれば「質」以外の要素でしょう。
質を高めるために技が練り込まれた身体は、身体自体が技になっている為身体がなくならない限り質が落ちる事はなく、一度身に付いた技は何十年活用していなくても、一瞬で技の再生が可能となるはずです。
昔取った杵柄とは、質は劣化が起こらないという事だと思います。
私個人的には、強い力士を観るよりも質の高い力士を観たいです。
その様な質の高い対戦となると、絶対に現在の取り組みとは全く違う雰囲気になるでしょう。
四股を踏む事を重んじていた時代は、そんな雰囲気が漂っていたかもしれません。
しかし、四股を踏んでいるだけで十両に上がれるほど甘くないという考え方自体「四股の形骸化」が起こっているのではないでしょうか。四股がただの相撲パフォーマンスに成り下がってしまえば、全く意味を成さなくなってしまいます。
四股を踏む事よりも、筋トレにシフトしていくとまさしくスポーツです。
個人的には、神事を観ているというよりも、スポーツ観戦と同じで、記事が新聞のスポーツ欄に載ること自体にも違和感を感じます。
それが現代の大相撲としての発展形とし興行とするならば、それで良いのですが。。。