力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

古武術の歩法は床反力を相殺する歩き方

この秋自宅がマンションから木造二階建てに変わりようやく落ち着いてきました。

どちらも一長一短ですが、フラットなマンション居室と上下階を階段で行き来する一戸建ては前者の方が楽ではありますね。

そして木造二階建てで気になる事が一つ。

一階ではあまり気にならないのですが、二階にいる時に横を通る妻の足音がやけに気になります。

私は神経質でもないし、彼女がドタバタ歩いているわけでもないのですが、木造の性質上やや響きます。

だからと言って響いてうるさいと云うわけでもないのですが、意識がそこに向いてしまうのです。

古武術稽古における歩法は、最重要課題と位置づけされ基本中の基本です。(基本イコール極意)

脚を出す事がそんなに難しい事だったと気づいたのは最近の事で、脚を出す事により重心の移動や体幹や上肢との間合いなど考えだしたら歩く事など出来なくなってしまいます。と言って歩かないわけにもいかず、いい加減な歩き方をしているとその歩き方に対してなんとなく気持ち悪い感じが沸き起こり、なんとか改善したいのだがなんともならぬジレンマを感じながら歩いていると歩きたくなくなります。

ポジティブな考え方をすれば、いい加減な歩き方が意識下に上がり改善の糸口が見えてきたという事は、良くないところ、問題点が明確になってきたと捉えるといずれ良くなる兆しも現れるだろうと自分を慰めています。

今歩法の中で意識的に取り組んでいる稽古に床からの反発力を積極的に消す作業です。

物理法則における作用反作用は、日常生活において実感される事はあまりないと思われます。それは、あまりにも当たり前な物理現象のため気づかない事が要因だと思われます。

普通に歩けば必ず反力が生まれます。

脚が床を押さえれば、床は同じ力押し返し同じ力だから接地した時動いていない。

この反力は余りにも当たり前すぎて気づきにくいですが、自分と地球の関係性を常に実証してくれています。

自分がどう思おうが反力が地球上にいる自分を実証している。

よく自殺願望の少年少女が、自分なんて誰も見ていない認めてくれないと嘆く事がありますが、地球は必ずその存在を認め反応している事が実感できれば、「誰も自分の存在なんて」など言っていられないほど存在感満載である事が実感できるでしょう。

自分なんて居ても居なくても何も変わらないと思うのは、本人が自分の存在に気づいていないからだと古武術をしていれば必ず思います。

ヒトは一般的にこの外力を感じ取り、そしてその力が個としての存在感を作り出して、それに対して対応や反応を起こします。古武術では、この外力を相殺し自分の存在を消す作業として地球上に居ない事にする作業を試みます。

余りにも当たり前な自分の存在はそう簡単には消えず、自分の存在が消す事ができないという事が実感できれば、自殺云々悩んでいるいる暇はありません。

いにしえの侍は、そこまでして存在を消していたという事は誰かに消される前に自分で存在を消せば、消される事はない。そんな事を想像してしまいます。

地球上から自分の存在を消すことで身を守る。侍はそこまでして身を守っていたと。

普通に身体を地球に預けていたら必ず反力は生じるので、普通以上に積極的に身体を使い駆使し動かして反力を相殺する動きを生み出すさなければならない事にようやく気づきました。

言葉にすれば、「そこまでするのか」という感じでしょうか。

たまたまTVを見ていると映画監督の周防正行監督のインタビューを見たとき作品作りに同じような事をおっしゃていました。

作品の意図を伝えるために、自分の思いを他人に聞いてもらい伝わるまで徹底的に表現方法を考察する様なことを語っていました。

人に影響を与えるためにはそこまでしなければ伝わらないのか、そんな思いです。

逆に人への影響を消すためにもそこまでしなければ消えないということも言えます。

身体を最大限使い、そして反力を感じる。対峙する相手に対して身体を使うというより地球に対して身体を使う。

その影響が相手に伝わらなければ存在は消える。

自分が向き合う相手に直接向き合うのではなく、地球に対して向き合った結果が相手に伝わる。そんな間接的動作が影響力を生む様な感じがしてきました。

 相手に影響力を伝えるためにあえて違う方向にエネルギーを向けると相手に意図が伝わる事が実感される今日この頃である。

そんなとき、自宅二階で妻の足音を聞いていると、いにしえの侍の佇まいは、運動のエネルギーが音のエネルギーに変換される事はないのだろうと想像すると、さぞかし静粛な空間であっただろうと想像します。