力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

楽器演奏と武術操法の共通点は体で覚えること

 正月になんとなくTVを観ているとピアノ経験のない漁師さんが7年かけてラ・カンパネラをフジ子・ヘミングさんの前で演奏する企画を偶然目にしました。

妻いわく、ラ・カンパネラは複雑で跳躍が多くテクニック的に難曲らしいのですが、その漁師さんは身体で指の位置を覚え込み、音楽性はともかく見事に弾き切られました。

それを観て楽譜の読めない自分もピアノを弾いてみたくなったのです。

ピアニストだけでなく弦楽器奏者や楽器演奏家の素晴らしいところは、身体が音の位置を覚えていることです。

意識せずともその音が出せる。寝ぼけていても酔っ払っていても会話しながらでも。

それは意識ではなく無意識で出来てしまう。

ヒトの神経回路はふた通りあり、意識で動く回路と無意識で動く回路。

自転車に乗れる様になるためには、まずバランスを意識してコントロールしなければなりませんが、感覚をつかめてしまうとバランスを意識せずとも自転車に乗れてしまいます。

楽器演奏も同じく神経の回路を変換して意識せずともその音を出すことができるのでしょうが、高度になればなるほどより複雑で繊細な作業が無意識的に見えない動きの中で行われているのでしょう。

簡単に言えば身体が覚える。

この身体に憶えさせ方が非常に重要だと思われます。

それを我流で覚えてしまうとそれが動きの癖になり、同じ動作の様でもそれぞれの動きによるものになれば、同じ様でも違う動きになってしまいます。

音楽の世界で身体に覚えさせ方があるのかどうかは知りませんが、身体に動きを覚えさせる理論が武術にはあります。

我流の様な癖のある身体で動きを覚えせる作業は一貫性に乏しく動きにムラができて曖昧になり、再現性が乏しく正確性が低くなります。

生き死にを前提とした武術動作は、再現性が乏しい確率の低い動きを行えば命がいくつあってもキリがありません。偶然一度できても次ぎ出来なければ命がありません。

ですから生きる確率を最大限に高めるための動きを身体に染み込ませる稽古を行います。さすがに現代に於いてその様なシリアスな場面はありえませんが。

武術とは、戦いの方法ではなく生き残るための確率を最大限高める理論だと理解しています。この理論に則った動きが「型」であり、曖昧な動きは極力排除し、理論通りに動く稽古を行います。

ただ、理論となる動きは難解でほとんど意味不明です。(生き残る秘訣がそんな簡単に理解できるはずがありません)

しかし、何十年か続けているとぼんやりと、「この動きはこういう意味なのかな」とうっすらと感じ取れることが出来てきます。

そんな中、動きが理論化されつつあると動きの基準が気になりだします。

基準が曖昧だとそこから繰り出される動きは全ていい加減になってしまいます。

その基準を先人は「身の規矩(みのかね)の大事」として後世に残されたと考えます。

動きの基準となる自分の身体がきちんと解っていなければ、どんなに頑張って動いても非効率極まりないヨ、と言われている様です。

それは、自分の体のサイズがどうのこうのというのではなく、身体の中の規矩準縄(きくじゅんじょう)を明確に認識する事だと思います。

ただ身体の中に動きの基準をイメージで設定しても意味がありません。

身の規矩は、正確な動きが作り出された結果出来上がるモノであり、また正確な基準により作り出された結果出来上がる動きの身体認識だと考えました。

ですから基準だけを作り出そうとしても無理があり、動きと動きの基準の相乗効果により作り上げられる様に思われます。

楽譜も読めない、音楽性ゼロ、まして歌えば音痴な私でも身の規矩を明確にすれば、鍵盤を正確にコントロールできる可能性が秘められている様に感じられたのでピアノを弾いてみようかな、、、と思ってみました。

でも、そんな時間があれば武術の稽古をするべきです。