力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

古武術的危機回避能力

古武術稽古仲間から、知人が地下鉄サリン事件の車両に乗り合わせていた時に雰囲気の違う人が乗り込んで来たので車両を降りた後、事件が発生した話を聞いた事があり、まさしく危機回避能力が発揮された事例だと思いました。

 

この人は武術経験者ではなかったそうで、特別なトレーニングを積んだ経験もなかったそうです。

 

たまたまといえば、本当にたまたまなのでしょうが、能力が発揮される時ほどさり気なく、あっさりとこなしてしまう感があります。

 

危機回避能力と聴けば、特別な能力が備わっていたり、特別なトレーニングや修行によって獲得されるイメージがあるかもしれませんが、私はそう思えないのです。

 

ですから映画に出て来る様な、特別な能力を要したヒーローによるワクワクドキドキのストーリーが展開される感じではなく、偶然の如く過ぎ去り、話にもならない行為が結果的に功を奏する事になると思うのです。

 

ではなぜ、この人が危機回避能力を発揮させらる事ができたのか?

 

それは、その人が毎日、その時間、その車輌に乗っていたからだと私は考えます。

 

ほとんどの電車通勤の人はそうだと思いますが、特に朝の通勤時間などはその車輌に乗り合わせている人全てが毎日毎日その時間、その車輌に乗っているわけで、顔ぶれはほぼ同じとなるはずです。

 

何十年も繰り返し乗っていれば、逆にいつもあそこに座っている人が最近座っていない事にも気付いて、退職したのかな?とか左遷されたのかな?とか、いつも難しそうな本を読んでいる人がマンガ本を読んでいて、そんな本も読むんだ!と感心してみたり。

 

いつのまにか、その車輌の些細な日常が自然に手に取るように感じられる様になるのではないでしょうか。

 

まして、日本の中枢となるオフィス街のど真ん中に向かう列車となれば、それなりの人ばかりだと想像します。

 

そんな中、ひょこっと雨も降っていないのに傘を持った似つかわしくない人が入って来たら。

 

“あれっ”て思ったのでしょう。

 

ただし、あれっと思った人は他にもいたかもしれませんが、その思いの深さは感性なのか、よくわかりませんが、ふと身体が反応したのでしょう。

 

この日常と違う事が感じ取れる感性は、日常が重要となるわけで、日常がよく見えているから非日常とのギャップが見えるはずです。

 

その時の危機回避能力が素晴らしいのではなく、日常の観察力が高いからこそその違いを感じ取る事ができたわけで、それまでのプロセスがあったからこそ、できたことではないでしょうか。

 

さて、この話は古武術とは関係ありませんが、古武術の稽古は型稽古を行います。

 

(武術といってもいろいろあり、たまたま私の稽古する古武術はいにしえの侍が持つ身体を目指す武術で、この型稽古を重要視しています)

 

型稽古とは、受け手と取り手が決まった手順で攻防をシュミレーションする様なイメージで、また型稽古に入る前にも基本動作があり、柔術でしたら受け身、剣術でしたら素振り等の基本稽古があります。

 

基本稽古を含め型稽古の目的は、動作を型にはめる事にあります。

 

動作を型にはめるとは、きちんと同じ動作が同じ様に、いつでも出来るようにする事だと私なりに理解しています。

 

そのために繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、決められた手順をきちんと丁寧に、繰り返す作業が求められます。

 

そのように繰り返し動作を行なっていると、さっき行なった動作と違う事に気づきます。

 

同じように行なったと思っていた動作が、今行なった動作と先ほど行なった動作が微妙にズレていたり、真っ直ぐ腰を落としたつもりが曲線を描いていたりします。

 

特に型稽古は受け取り相手を付けて動作を行うため、自分が出来ていると思っても、受け手がズレに気づけば動作はストップしてしまい型稽古にならなくなってしまいます。

 

そして一連の動作を修正して型へと導いていきます。

 

この稽古の眼目は、同じ動作を繰り返し、繰り返し行う事で動作の歪みを排除する事だと考え、歪みのない動作こそ武術の“術”となるゆえんです。

 

いにしえの侍は、そんな術を持ち合わせていたと思います。

 

そのような術を手に入れるためには、術を目指すのではなく、日頃の繰り返しが大切なのではないでしょうか。