ジェントルマンといえば、イギリスの大地主ですが長期にわたり国の中枢を担って来た歴史があります。
そのイギリスが今大変な局面を迎えています。
その一つにイギリス紳士の思惑よりも強い力が英国の舵を切る可能性が高い様で、国の中枢で舵を握るイギリス紳士達は今後どのようにイギリスを導くのか世界中が注目しています。
見方によると民意が高まるより、ジェントルマンの威力が低下している様にも捉える事も出来ます。
日本でジェントルマンといえば・・・
私は日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた武士のイメージがあり、武士のイメージを現代風にすると、礼儀と教養を持ち合わせた軍事や政治に精通した紳士になります。
そんな武士の威力が低下し新しい時代に突入した日本の歴史にも似た、英国紳士の立場が感じられます。
日本の中枢を長期にわたって担って来た武士の素養を身につけつために柔術は必修でした。
武士は、柔術や剣術の武術を通して素養を高めて、国を導く処まで能力を発揮したと推測すると、柔術を含む武術の中にただ戦いの方法だけでは無く国を導く程の素養を身に付けられる程の中身があったのではないかと思います。
当然学問も必要ですが、学問優先であれば武士でなくても良かったわけで、武士が国を担うということは、やはり武術の方が優先順位は高いはずです。
この武術の中に学問以上に国を導く処まで素養を高める内容が詰まっている筈です。
その一つとして柔術が含まれています。
柔(やわら)の術(すべ)の意味するところ意図するところは何なのか?
その答えが独自の稽古法である「型稽古」の中にあるはずです。
型稽古は受け手と捕り手の二方が、決められた手順どおり攻防を行います。
この手順を行うことで術を収得することが出来るということですが、実際に行ってみてもどのあたりが術として生かされているのか理解しがたく、また実戦に使うには不自然な動きがある印象です。
現実にいにしえから受け継がれた多くの流派が在ったにもかかわらず、現存する流派は少数になりました。
それは流派の型の意味するところを解読できず、形骸化しいつの間にか意味を見出せづ継承されること無く消滅したと推測されます。
一つの手掛かりとして柔(やわら)の意味するところをきちんと押さえることが出来るか否か。
柔とは、やわらかく、しなやかで弱く、心がやさしく穏やかである。
これらの意味することが理解できなければ、柔と型の本質を読み解くことはできないはずです。
なぜ、やわらかく、しなやかで弱く、心がやさしく穏やかなことが武士の素養を高める肥やしに成り得るのか。
そして、なぜそれらが術(すべ)にまで昇華するすることが出来るのか。
それは実際に型の理論を体験しなければわからないことなのでしょうが、体験しても理解できずこの世から多くの型が消滅してしまいました。
それだけ武士が行ってきた柔術は意味不明であり理解不能な領域に到達していたと思われ、理解できる人は到底少数になるはずです。
その様な難解な術をたしなむ武士が普通にそこらへんに歩いている世界は考えただけでも驚きを隠せません。
逆にその様な意味不明、理解不能な代物が現代に残っていること事体が奇跡に近いとも取れます。
いずれにしても、歴史の中で培われた柔術は先人の知恵と知識が凝縮した理論であることは間違いありません。
その凝縮された理論はある意味タイムカプセルのごとく型として残されてきました。
このタイムカプセルを解読する作業はきっと国を導くほどの難解さを踏まえているのではないかと思います。