力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

日本の若者よ今こそ武士道精神を発揮しよう

今メディアでは世界の情報がリアルタイムに流されていて刻一刻と各国の情報がタイムラグなく流されてきます。

情報の中でもオリンピックほど世界を一つにまとめ上げるコンテンツは他にはなく、健全な競い合いは人々の関心をより高めています。

そしてオリンピックは延期されましたが、今世界は一つの問題に直面しメディアを通じて世界の国々の成り行きを人々は見守っています。

オリンピックは各国の各競技者代表が戦うわけですが、今回のコロナ問題は各国の代表ではなく国自体が新型コロナと戦い、成果を上げている国や地域とそうでない国の進捗状況が逐次流れてきます。

各国の戦いぶりが報道されて思う事。

各国や地域が戦っている裏には、そこに暮らす住民が必ず居てその住民と国や地域の信頼関係が成果に左右している様にも見えてきます。

国や地域の政治的決定だけではなく、そこに暮らす住民個人個人がそれぞれ考えて行動する。その結果国として機能するのではないでしょうか。

国や地域の方針に対して個人個人が冷静に考え、責任ある行動を心がけなければなりません。

自分のエゴのために他人に迷惑をかける事は慎まなければなりません。

自由に動けないウィルスは人間の弱いところを突いてきます。

人間の弱いところそれは自由に動けてしまう事。

一見自由に動ける事はメリットとして捉える事ができます。しかし自由に動けるとは、自分勝手気まま我流の動きとなり浅はかな動きとなりやすいのです。

「自由に動く」の対称に「冷静に考えて動く」があり、この場合は自分の事だけでなく周りの事も見えていて整合性のある結果を伴います。

自由に動く身体をあえて動かさない思想は、400年以上昔から近代まで継いた武士の思想であり、この武士が嗜めた武術の技に内在されています。

武術の教えは動かない事、それが一番速いとされます。

それは、じっとして動かない事ではなく自由ではない動きを追求した結果現れた動き方で、自由に身体を動かしている人には分かりにくい動き方です。

しかし、漠然と感じ取れる人も居るはずです。それはその人の中に武士道精神がいまだ根付いているからだといつも読ませていただいているブログを読んで納得しました。

その内容をコピペさせて戴きます。

 

武士道とは 何か

 

子どものころから ずっと

気になっていました

 

本も 何冊か

読みましたが

しっくりと こず

今では それらの内容を

思い出すことも できません

 

 

江戸時代に 武士は

支配階級として 5%ほどでした

 

それなのに

日本人には 武士道精神がある

ということの 理由が

私には わからなかったのです

 

今回

「日本人の心をつくった12人」

という

日本国籍を取得している

石平(せきへい)さんの

本を 読みました

 

8歳になる 息子さんを

立派な日本人に 育てたい

そのためには

武士道精神を 伝える必要がある

 

ということで

石平さんが 武士と認める

12人の ことが 書いてあります

 

12人 すべてに ついて

事細かな 解説は

ないのですが

なぜ 武士道精神が

武士以外にも 広まっていたのかが

わかりました

 

牛若丸の 話や

忠臣蔵など

それらは 庶民の 考える

武士道精神を

物語に したのです

 

もちろん 当時の武士は

武士道を 追求したのでしょうが

脈々と 伝えられてきた 武士道精神は

日本人の 精神だと 考えられます

 

先祖が 武士でなくとも

武士道精神を 語ってよいのです

 

そして その精神は

「日本精神」となった

と 私は 考えます

 

この 「日本精神」を

現代の 日本人は

忘れてしまったのかも

しれません

 

しかし

「日本精神」は

現在の台湾で 息づいています

 

今の時代

世界の中の 日本を 考えるとき

「日本精神」を 振り返ってみても

いいのではないか と

思ったりします

https://ameblo.jp/inochinokyouiku/entry-12584949112.html

 

武士道精神がなんたるかが分からなくても、あなたのDNAにしっかりと刻み込まれているはずです。

以前、サッカーW杯で日本人サポーターがスタジアムのゴミを拾いネットで議論になったと言う記事を目にしましたが、まさしくこれは武士道精神だと思いました。

オリンピックが延期され世界の新型コロナウィルス関連のニュースが連日報道されていますが、世界も日本の行動を見ています。

政府の会見とは別に武士道精神のDNA を各人が自覚を持って行動してほしいと思います。特に若い方の行動が鍵を握るはずです。

古武術的肩の運動

日曜日は電車バスを乗り継いで2時間半をかけて武術の稽古に向かいます。

バスが信号待ちで停車中、交差点沿いの公園で親子がキャッチボールをする様子を目にしました。お子さんは4〜5歳ぐらい一丁前にボールを両手で高々と上げてから左足もしっかり上げて豪快なピッチングフォームで座っているお父さんに投げ込んでいました。

信号待ちの間、お子さんは4〜5球を投げていましたが、さすがにボールを投げ始めて間のない彼のフォームは毎回毎回バラバラで、飛んでいく方向もバラバラになってお父さんは振り回されていました。

この子も何回もボールを投げ続けているうちに身体の動きがまとまっていき投球動作の協調性が高まりコントロールが定まっていくのだろうと微笑ましく見ていました。

ボールを投げるために重要な肩の関節は、複雑な動きを行うことで知られています。

一般的に腕を外側から挙上する際には、肩関節だけでなく肩甲骨と連動して挙がる事が知られていています。これを肩甲上腕リズムと言われていて3分の2が肩関節が動き3分の1が肩甲骨が動くそうです。

そして、ぐるぐる回る肩関節はいろいろな方向から筋肉に包まれいろいろな方向に動く特徴があり、解剖学書にはそれぞれの方向に何度動くかと書かれています。

ちなみに私は小学生の頃から背中に回した両手が届きません。何十センチも空いています。

ですから、解剖学書に書かれている関節の動く角度が信じられず、どの様に決められたのかが不思議でなりません。統計調査をしたのでしょうか。

普段稽古をしていて思うことは、ヒトの身体の動きは一概に決められないのではと。

例えば、剣を振り上げる動作は、上腕の屈曲動作となります。

上腕を挙げろと言われれば上がりますが、果たして本当に上がっていると言えるのでしょうか。

肩関節は主に肩甲骨と上腕骨が接しています。

模型で動かせばイメージしやすいと思いますが、肩甲骨に対して上腕骨が挙がっていくときに肩甲骨に接している上腕骨頭は肩甲骨に対して下方に回転して行きます。

当たり前の様ですが、その当たり前の動きが出来ていません。

上腕骨を挙げるための三角筋が過剰に働くと上腕骨が回転せず肩甲帯と一緒に引き上げられてしまいます。

この様な状態では剣を振り上げているとは言えず、持ち上げていることになります。

見た目はほとんど変わらず違いがわかりません。

しかし、何方かに剣の挙がる方向(上方)に手を置いてもらい、うまく振り上げれば抵抗なく挙がりますが、引き上げてしまうと抵抗が生じ挙げる事が出来なくなります。

剣を引き上げて振っている様では人は斬れません。

(別に人を斬るために稽古をしているのではなく、斬るための理論を学んでいます)

その様なことを気にしながら身体を動かしていると、日常動作は身体の動きのことを考えず結果にフォーカスしている様に思われます。

結果が出ればプロセスはお構無く、とりあえず無茶苦茶でも斬れれば良いという風潮が強くなれば力でねじ伏せる傾向がどんどん強くなるはずです。

それは斬るとは言わず叩くという行為になるはずです。

叩き斬れれば結果オーライでしょうが、そこで力に頼らなければならない身体の使い方になってしまい、本来斬るための体捌きは無くなり力でねじ伏せる身体の使い方となります。

身体の作用は全く無くなってしまいます。

力を抜くとは、力に頼らない身体の使い方を行うことで結果が出る様に身体を動かすことだと思います。

以前TVでお父さんが必死に薪割りをしていて、見ていた子供にさせたらスパッと一回で薪を割った場面を見たことがありましたが、正しく身体を使うことができれば正しい結果が出るはずです。

高齢者が転倒する原因は脚を出さない努力をする

義理の母が大腿骨頸部骨折後約3ヶ月になろうとしていますが、リハビリ病院はいたせりつくせりで居心地が良いらしく退院したくないみたいです。

近頃はすぐに手術をしてすぐにリハビリを行う事がセオリーとなっていますが、一昔前なら骨がひっつくまで安静にしていたため、骨が引っ付いた頃には筋力が弱って寝たきりになるパターンが多かったようです。

義母は寝たきりは免れたものの、いたせりつくせりで依存心が強くなり日常生活に戻れるか心配です。

先日お見舞いに行った時に母がロッカーの物を取る姿を見て、なるほどこれで転けたのかと思えた事がありました。骨折時は自宅の洗面所で転倒し本人もどのように転倒したのか覚えがなかったのですが、洗面所左側の電気スイッチに手を伸ばした時に脚を出さず、上半身だけを左に伸ばしそのままバランスを崩し左側に倒れたと推測できました。

病室のベッドサイドのロッカーに手を伸ばした時、その立ち位置から手を伸ばすとバランスを崩すだろう位置だったのです。

思わず、「お母さんもう一歩脚を出してロッカーに近づいて下さい。」と言いました。

もう一歩ロッカーに近づけば、なんともない動作なのですが離れたその位置から手を伸ばした姿は不安定極まりない状態でした。

高齢者の転倒の原因に筋力不足とかバランスを失ったりとありますが、その前に脚が出ていない事が問題ではないでしょうか。脚を出さずに動作すれば、いくら筋力があってもバランスを意識していても体の保持力は低下します。

一般的に年齢を重ねるとともに体を動かさない様に動作する習慣が顕著になってきます。コタツの周りに必要なグッズを並べる様に。

(私もショッピングモールに車を止める時は、店舗入口に一台でも近い位置を狙ってしまいます)

年々脚を出さなくなり、脚を出さない努力をします。

脚を出さない動作の中には、もちろん歩数が少なくなる事は目に見えて理解できる事ですが、もう一つに目には見えないが脚の使い方として力を一段と入れて使う様になります。

以前、高齢の方が転倒すれば寝たきりは免れないと憂慮され、歩く時は脚に力を入れて転ばない様に努力されているとお話しされていました。

転倒しない様にするためには、脚に力を入れて踏ん張る事は倒れないための常套手段です。しかし、反面脚に力を入れ地面に対して踏ん張ると動きにくくなるデメリットも生まれます。

力を入れて踏ん張った立ち方は、静止時には安定した状態を保つ事はできますが、動きのある状態では踏ん張った力が動きの妨げとなる外力となりえます。

踏ん張り力が入りぎこちない動きの対極に子供や若い人が軽やかに動く姿は脚に力を入れて踏ん張ってはいません。

軽やかに動くためには踏ん張る力を入れていては動きに時間がかかってしまい、スムーズな動きができません。軽やかとはスムーズな動き、すなわち動きに時間をかけずに動ける事です。

踏ん張って力を入れている間動きが止まっている事になります。

その動きが止まっているにもかかわらず、気持ちが先に走ってしまうと気持ちと身体の動きが乖離してしまいます。

一般的にお年を取られても、気持ちはお若いままの方が多いはずです。

若い気持ちで年老いた身体を動かそうとした時の状況として、気持ちは動いていても身体はついていかない事はある年齢になれば経験する事でしょう。

ヒトは年々動作が緩慢になり脚が地に着いて踏ん張っている時間が長くなり、しまいには脚さえも出せなくなります。

この様な状態を武術では「居着く」と称し、日常動作で表すと上記の様に脚を動かしていない時間を示し、地面に接地している時間が長ければ長いほど居着いている事になり動きが制限されている事になります。

動きの止まった居着いた状態は、身体を動かす上で大変不利になり武術においては致命傷です。

致命傷を負わないためにも脚を軽やかに出す事が筋トレよりも先決で、そのためにも地面を如何に踏ん張らずにそして力を入れずに身体を支えるかが優先されます。

そんなことを考えていると脚を地面に置く事ができなくなり、まるで真夏の砂浜を素足で歩く様な感じになってしまいます。

それでも、身体の重みは一旦足裏に短時間でもしっかり掛かるので、その短時間居着いている事になってしまいます。

居着かぬように身体を捌くためには、物理的に時間を短縮するのではなく脚の踏み方自体を根本的に変えなければなりません。

そのためには物理的な時間ではなく力の作用を消す努力をする必要があります。

地面に対して作用させない。すなわち作用させなければ反作用も生じない。

居着いているとは、反作用を実感することであり、そしてこの反作用を消すことで一般的ではない武術的な動きを表現する事が出来るのです。

そんなことをしていると、転倒する前に身体が倒れている状態になれる様な気がします。いずれジジイになって脚の運びがおぼつかなくなり義母の様なシュチエーションになった時うまく反力を消して身体を支える事が出来るのか近い将来が楽しみです。

 

力を抜くコツはブレーキペダルを踏む最後のところ

そろそろ車の買い替えの時期にきた日産党の私は「e-power」のシステムを知人に聞きエンジンで車輪を回すのではなく電気を作り発電させモーターで車輪を動かす事を知りました。

昔は価格とカッコイイだけで選んでいたのに、今はどんどん進化して比較の仕方が全く違ってきて困ってしまいます。

次は「e-power」がいいかなと思っていてもアクセルを戻すとブレーキがかかるらしくどのような感じなのかよくわかりません。

古武術の動きは力を抜いて動くことが基本とされていますが、力を抜いて身体を動かす事がよくわからないと思われます。

日常動作での身体の使い方ではない古武術動作を日常動作の中で説明する事は困難ですが、古武術における力を抜く感覚を日常動作の中で探した時に近い動きとして自動車のブレーキを踏む時の使い方に近いのではないかと思いつきました。

それもブレーキが効いてきて車体が今にも止まる直前の使い方です。

自動車を運転されている方であれば当たり前にされている、あの止まる直前のブレーキペタルを緩める感じに近いように思います。

自動車教習所で初めて運転しブレーキを踏むとそのままブレーキペダルを踏み込んでしまうので車がガクンと止まってしまう経験をお持ちの方が多いと思いますが、この時はブレーキペダルを踏み込む力だけが働いています。

慣れてくると車が止まる瞬間に”フッ”と足の力を緩めて緩やかに車を止めるようになった事でしょう。これは踏み込む力と同時に力を抜く力も働いています。

この時、右足はブレーキペタルを踏み込んでいます。しかし同時に足首の力を抜いて微妙に引き上げてもいます。

その瞬間は踏んでいるけれど引き上げている絶妙のバランス感覚です。

力を入れるプラスの部分と力を抜くマイナスの部分が一致する事で、車はその時その瞬間ピタリと止まります。慣れると当たり前ですが車の動きとペタルワークが一致している事になります。

身体の力を抜くという事は、脱力する事ではなく上記のブレーキペダルワークのように入れるべき力と抜くべき力を一致させる事ではないでしょうか。

一般的に力を使う場合に力を入れる事は意識されますが、力を抜いて力を使う意識はあまりないように思われます。

動作を行う上で力は、過剰でもなく過少でもない力加減でその動作のその動きを作り上げると何も感じなくなります。(車がガクッではなくフワッと自然に止まるように)

動きが感じられるとは、その動きに対して力が過剰な場合圧力として感じられ、力が過少な場合弱い力を感じ取る事ができます。

過剰でも過少でもない力は、その時に適した力具合であり何かしらの抵抗が生じないため力感がありません。

言い方を変えると実感がない事になります。

実感を伴わない力感ほど頼りないものはありません。ヒトはそのような頼りない力を受けても抵抗する気が起こりません。

何も感じなければ何かしようとはしません。

武術の技は、この何も感じない力で行うので技の受け手は訳がわからない状況に陥り、知らぬ間に技を掛けられた状況になってしまうのです。

「身体の力を抜く」を表現すると必要な力より過少な力加減をイメージされるかもしれませんがが、その場合は弱い力として認識できるので弱いと言う実感が伴います。

そのような弱い力の場合も力を抜いているとは言えません。

弱い力に対応する反応が起こります。

これは当人の身体の中にも、またその力を受ける他人にも力に対して反応が起こります。自分の中に起こる力に対しての抵抗感はよほど神経を研ぎ澄まさなければわかりません、そして他人の場合は弱い力として明確に捉える事ができてしまうので、その力に対して抵抗する力が入ります。いずれの場合も抵抗という反応が起こってしまいます。

弱い力と力が抜けている力との違いがわかりにくいのです。

力が抜けているとは、力が弱いのではなく力を感じない力すなわち過剰でもなく過少でもない力具合とでも言うのでしょうか。

その絶妙な力加減が力の存在を消し、気付かせない力として存在し力が抜けているように感じるのではないかと考えます。

 弱いが力の存在があるのと、過不足ない力の存在は似ているようですが全く違う状況です。

力を抜くとは、力の過不足が「ない」状態で、弱い力だが「ある」状態では全く異質な状況となります。

ブレーキペダルの最後のところもこの微妙なせめぎ合いが行われているはずです。

しかし、最新のe-power は電子制御によるコントロールでヒトの微妙なコントロールは必要ないのでしょう。

どんどんヒトの感覚を必要としない動作が一般化する事が進化なのか疑問に思うところです。

マニュアル車坂道発進のコツを覚えた時は嬉しかったな〜

マッサージの効果は重力を味方に

情熱大陸スキージャンプの小林選手の番組で小林選手が腰を痛めてマッサージを受けている場面で気になる所がもう一箇所。

それは、小林選手ではなく小林選手をマッサージしているマッサージ師さんの重心線の位置です。

小林選手の腰をマッサージしているマッサージ師さんは腰を揉む為に身体を前方に倒れかけていました。腰を揉む為には身体を乗せると体重が乗り揉み応えが出るのでしょうか。しかし、古武術的観点からから見ると疑問が湧きます。

それは過剰な力が発生し、その力に対して力で対応しなければならないので緊張が高まってしまうからです。

身体を前方に傾けると重心線が当然前方に移動します。

重心線が前方に移動すれば、身体が前方に倒れ、身体の周りに何もなければマッサージ師さんの身体は前方に倒れてしまいます。

でもマッサージ師さんは倒れません。

当然ですが、倒れない様に下肢の前面の筋肉を緊張させ支えます。そして倒れかかる先には小林選手の腰があるのでその腰が支えになりマッサージ師さんは倒れる事はありません。そしてその圧力がマッサージの効果となるのでしょう。

日常動作からすれば、何の問題もなく疑問のない一場面なのでしょうが、古武術を稽古していると気になります。

それはマッサージ師さんが倒れない為に様々な力が使われている事が気になるのです。

自身の中で前方に倒れかかる身体を脚力で支えて倒れない様に身体を保持します。また倒れかかる先に小林選手の腰もマッサージ師さんの身体を支える為に一役買っている事になります。一役買う為に頑張らなくてはなりません。

いずれも筋肉が緊張しなければなりません。

マッサージ師さんの身体が前方に傾くだけでいろいろな緊張が生じ、この緊張でマッサージ師さんの身体が維持されていると考えると小林選手の腰を含め固着している事になります。

古武術では、この固着が「居着く」として避けなけらばなりません。

じっとしている事が居着きとされ、狙われやすい場面となるのですが、動きが澱んでも同じです。

身体を保持する為にいろいろと固着してしまい、この固着が身体の動きを阻害する要因として動きを澱ませてしまう事があります。

澱んだ動きはスムーズに力が伝わりません。ヒトは力がスムーズに伝わらないと伝える為に力の出力を高めて伝達しようとします。

そこでどんどん力が必要になり、力が強い方が有利となるのですが、古武術では力の出力を高めるのではなく澱んだ動きを無くす事で動きを伝達する方法を稽古します。

例えばマッサージの場面であれば、身体が傾くと身体が緊張し、この緊張が相手に伝わり相手もこの緊張に対応して緊張が起こります。緊張した筋肉を緊張した筋肉で刺激を加えようとするとより緊張が生じてしまいより強い力が必要になるように思います。

どうせなら傾かない方が効率が良いのではないでしょうか。

また傾いたとしても重心の移動と身体の位置が一致していれば傾いていても筋肉を緊張させ固着状態に陥いっていないので動きが澱む要因にはならないはずです。

基本は傾かない事。

傾く事で必要以上に支えなければなりませんが、地球に対してまっすぐ立てば必要最小限の力で立ち支える事ができます。

そしてまっすぐ立った状態からまっすぐ落ちる事ができれば、ほとんど力を使わずに済み、後は重力に任せる事ができます。

落ちる動力は、身体で作る筋力ではなく重力を利用すれば筋肉を緊張させなくても済み、またその力を受ける相手も余計な緊張もなく、あまりにも当たり前な力である重力は認識さえ感じさせない力であり抵抗の余地がありません。

 そんなところに小林選手の腰があれば、筋肉を緊張させずに済むように思います。

その方がお互い楽ではないでしょうか。