力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

「心技体」は一致して初めて意味をなす

武術より創り出された「心技体」は文字通り心と身体と技の在り方を現しています。

これらの文字の意味を理解しようとする時に現代日本人は、それぞれの文字の意味を見出そうと分けて考えます。

分かりにくい事は分ける事で分かり易く整理する習慣があります。

そして、それぞれの文字の意味を独自に解釈し、それぞれが重要であり、どれが欠けてもバランスを崩しても良くはないと説かれています。

その通りだと思います。

ただ、文字にすると「心・技・体」となるのではないでしょうか。

「心技体」と「心・技・体」の違いが大変重要でそこに意味がある様に思います。

心と技と体をそれぞれ究極に鍛え上げても、心技体にはならないと。

武術では心技体をそれぞれを繋ぎ合わせた物をバランスよく創り上げるのではなく、一致させる事が稽古の眼目です。

打とうと思った瞬間既に相手を打っている。打とうの「う」の時点で動作が完了し相手に到達している。

心が「う」の時同時に体は打ち終わった態勢となり、その時が技であり心技体が一致したと言えます。

心で思った瞬間、同時に体は動作を遂行している状態が技なのです。

それぞれを鍛え上げ繋ぎ合わせた物とは、似ている様ですが全く違うものと言え、繋ぎ合わせた物が技になるかと言えばならない様に思います。

全て一致させる事が難事であり、それぞれを鍛え上げ繋ぎ合わせた物とはそもそも全く別次元のものとなります。

一つのものを一つのものとして、わからないものをわからないものとして稽古に臨まないと、自分なりに解釈しだしてしまうと本質が見えなくなってしまいます。

「心技体」の具体例を挙げると、武術には拍子がありません。

スポーツなどではリズムや拍子をとり動きの流を作る場合がありますが、武術でその様な事をすれば動きが読まれてしまいます。

理想の動きは、一動作一調子で完結すること。

そこに付け入る隙はありません。

隙を作らない動作を心がけるのではなく、動作を究極に削ぎ落とす稽古を行い無駄や非効率な動きを削ぎ落としていくと隙が生まれないのです。

「心技体」の「体」において特に動きの角を削ぎ落とすよう細心の注意を払います。

動作、動きに角が出来るとその部分で一旦動きが止まってしまい、動作が分離してしまいます。

分離された動きは、二動作、三動作と動きが増えて動作の境目が明確になり前の動作と後の動作の動きの違いを比較することで動きを客観的に捉えることが出来ますが、角の取れた動きは初めから最後まで連続した一つの動きとなり動きの比較が出来なくなります。

先の動きより早くなったのか遅くなったのか、どのように方向が転換されたのか、力が強くなったのか弱くなったのかなど、動きの比較が出来ないとどの様に動いたのか認識できなくなります。

認識できない動きは、動きに対して対応する事が出来ませんので、反応することが出来ないことになります。

「心」においては、精神や気持ちというよりも上記の様な動作をコントロールする神経系統の制御能力だと思います。

剣術における素振り動作においても、振り上げている動作の中ですでに振り下ろす筋肉が発動されているように、それぞれの筋肉に動作が途切れないようにまた、角が出来ないように逐次神経を発動させ筋肉を連続させ一連の動きを行います。

その動作は、一般的な筋肉の動かし方ではない動きを神経の疎通を変換させる事で一般的な動きではない「技」の動きを芽生えさせるのです。

技はアクロバティックな事が出来るのではなく、心技体を一致させる事ですべての条件を一つに集約し一動作一調子ですべて完結させる事が技の様に思われます。

そこが難しいところで、それを一致させる為に稽古を行なわなければなりません。