武術入門間なしの頃、師から地唄舞の竹原はん氏の舞の動きが速いと話されているのを聞き、当時氏の舞を見たかったのですが、今のようにネットもなく動きを観る機会は有りませんでした。がしかし、何気なく検索ワードに入れてみたところ、なんと動画がアップされているではありませんか。
師が賞した竹原はんの舞を20年越しに観ることになり、なんと良き時代になったのかと感慨深い思いに浸っていました。
淀みのない滔々とした動きは素晴らしく、腰を落とした低い姿は大変美しいく感じられました。
その中に隠された動きの速さは、きっと20年前に氏の映像を見ても、見る目は養われてはいなかったので、当時見ても理解できなかったでしょう。
しかし、今見る事でおぼろげに何が速いかを理解した気分になったのです。
動かないことが一番速いとする武術の本質が表現されており、師はそのことを話されていたのであろうと。
身体の各パーツが完全に静止した状態で、各パーツが統一された制御の中で、それぞれのパーツが独自の動きを同じ間で行う。
同時並列とでも言うのでしょうか。
空間上に身体を一定に維持するだけでも大変なのに(普通身体は揺らぎますので)それを制御しながら、五体の動く間を一致させることで動きがどんどん削除されていき、身体全体の動きがどんどん単純化されている様に見えるのです。
単純化された動きは、最終的に動いていない様に動くことができるはずです。
竹原はん氏は、女性の美しさを追求されていたのでしょうが、その動きが武術の極意につながるとは思ってもいなかったでしょう。
美しさ、速さ、舞の極意、武術の極意結局同じところに行き着く様な気もします。
動いていない動きが、表現力を高めまた機能を備える事も共通します。
身体を最大限使って最小限の動きで舞っていると、身体以外の雪やら枕が表現される。それは、動きを足していくのではなく動きを引いていく事で、身体以外のモノが表現されると理解します。
武術の動きも力を抜くことで、力が存在しない本質的な形が表現され、その形は一見変哲なくとも機能だけが存在する形が出来上がります。
老名人が剣をヒョイと振る一振りに技が凝縮されている事は、見る人が見ないとわかりません。
竹原はん氏の50歳、70歳、90歳の時の映像を見てさらに驚いたことに、どんどん動きが速くなり進化しているように見受けられるのです。
50歳の頃の舞は、人間の女性らしさが表現されたところが美しく表現されている様にお見受けしました。
70歳の頃の舞は、普通の女性ではない感じです。
人間の女性の進化系を見ている様な、ある意味近い将来現れるであろう人型アンドロイドを見ているよな感じすらします。
あまりにも精密な動きすぎて(揺らぎさえ消えて)、ヒトの動きから逸脱した様にも見えます。
90歳の舞は、究極の進化形です。
ところどころ動きが消えています。
動かない動きの先には、動き自体が消えて無くなります。
しかし、機能や働き、意味など目には見えないものが現れ残るのでしょう。
本当に技の世界は果てしないと改めて感じた次第です。