ピアノが趣味の妻に付き合い、ラフマニノフピアノ協奏曲第2番大友直人指揮牛田智大ピアノ大阪フィルの演奏を聴きに大阪シンフォニーホールへ赴きました。
私の場合、オケのチューニングでその日の満足度が決定される傾向があり、この日もすべての楽器が鳴り出した時点で涙がうるっと出てきたので、自分の中では演奏が始まる前にテンションはマックスに高まっていました。
しかし、牛田智大さんの演奏は聞いたことがなく、まったく白紙の状態です。
さっと会場が静まり大友さんが牛田さんを見つめる中、ピアノの一音が鳴ったと同時に自分の身体に響きが伝わった感じがしたのです。
年に何回か演奏会に出かけ感動した演奏は幾度もありますが、身体が響くことは余り経験したことはありませんでした。しかし、この日の牛田さんのピアノに自分の身体が反響していることが腰の辺りで感じ取る事ができたのです。
これは武術で云われる「腰を取れれる」感覚とまったく同じ感覚なので大変驚いてしまいました。
特に柔術では相手を崩す為にお互い腰を取り合います。
といっても直接手で腰を触りにいくのではありません。
いろいろな技の形はありますが、共通することは相手の腰(体の中心)に対して自分の身体の中心を分け入れる事により、相手の中心である腰がその場に居る事が出来ない状況を作ると、結果的に相手の中心がかすかにずれて、身体がその位置では維持する事が出来なくなり崩れるのです。
ですから、相手を崩すのではなく相手が崩れるのです。
そのためには、身体の中心を相手より厳密に捉えることが重要になります。
もう一つ大事なことが、それを行うにあたり絶対力を使わないことです。
”絶対”なのです。
これが難しいのですが、力を使う、もしくは力を入れてしまうと必ず相手が力を察知しその力に対して防御もしくは対処しますので相手は崩れません。
といって筋力を使わなければ身体は動きません。
表現がしにくいのですが、力を出さないように筋肉を動かすとでも云うのでしょうか。
筋肉が動いていても動いていない感覚とでも云うのでしょうか。
例えば、時速100kmで走っている車を歩道から見ていると動いていることがわかりますが、時速100kmで走っている車に同じ速度で併走すれば動いていることがわかりにくくなる感じでしょうか。
その様な感じで身体のそれぞれのパーツを同時に動かすと相手はどの様に動いているかが認識できなくなります。
これらのような条件で腰を取られると自らが崩れてしまいそして、腰が抜けたようになり、その時の感覚として見事に気持ちよいのです。
逆に力が入った動きで崩そうとすると、自らも力を入れて対応するため身体と身体がぶつかり合い力がみなぎった膠着状態となりますが、力の存在しない動きには力を入れて対応できないため自分の身体が自分の身体を支えることを止めてしまうほど力が抜けてしまいます。
牛田さんは武術とは無縁だと思いますが、身体の動きや使い方が共通していると思われ、その上高度な身体操作が行われている様に見えました。
たまたま最前列の左側に座ったので、彼を真後ろから背中を見ていたのですが、指と腰がリンクして動いてるように見て取れたのです。
そこで腰と指の繋がりが実体する線を作り出すのではなく、その線が出来るであろうスペースにわだかまりを作らないことだと気付かされました。
現代的発想であれば、腰から指に繋がるラインを作りなさいと云われると、そのラインを繋げると云う実体を創造してしまいますが、いにしえの発想では繋がる線(ライン)となる所(スペース)が虚となり、なくなることで実となる身体との差が生じ、実体としては無いが確かに存在する有が生じると捉えているのではないかと考えたのです。
彼の後姿を見ていて、彼の身体の中心が中空のように真ん中が抜けてスカスカしているように見え、だからその中空の中で音が増幅されこちらの身体に伝わり反響したのかと想像していました。
また、力みの無い身体は当然細かく動くことが出来るので、動きがしなやかで柔らかくなり、彼の指先が鍵盤に吸い付くよう、また張り付くように見えたのです。
これは、石で鍵盤を叩くのとゴムで叩くのと違いのように柔らかければ柔らかいほど接地時間が長くなるので結果的に鍵盤をしっかり叩いていることになるのではないでしょうか。
音楽も武術も人(相手)に影響を及ぼす作業であることは共通であり、身体操作も共通しているに違いないと確信しました。
牛田智大さん、素晴らしい演奏を有難うございました。
宜しくお願いいたします。