力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

ピアニスト牛田智大さんの座り方

ピアニスト牛田智大さんのファンである妻が、牛田くんのFacebookが再開された事に喜んでPCモニターの写真を撮っていました。

私が牛田くんの記事にコメントを入れた際、彼が返事を返してくれた処です。汗)

改めてYouTubeで彼の演奏(ショパン バラード1番)を視聴したところ、携帯電話のスピーカーで聴いても音色がよく響いているので、やはり凄いと感じました。

そういうものとは、生で聴かないと感じ取れないと思い込んでいたところ、携帯電話のスピーカでも感じ取れた事が意外です。

妻の携帯iPhone11のスピーカー性能が良いのでしょうか?

私の感受性が高いのか? そんな事はないはず。。。。

以前の記事にも書いた記憶がありますが、私の場合響きは腰のあたり仙骨と言う部分がビリビリします。

このビリビリ感がなんとも心地よく、「あ、、腰を取られた!!」という感じです。

武術においてお互いの腰を取り合い、崩された方がthe end 勝負あったとなります。

と言っても直接腰を捕らえに行くわけではなく、身体操作の結果腰が崩される状態になるのです。

稽古の時でも、相手に自分よりうまく腰が取られた時は自分の腰が崩されているにもかかわらず大変心地よく、なんの抵抗もなく腰がスッと落ちます。

ですから、自分が相手に崩されたり投げられても全く悔しいとか残念だとかの気持ちにはならず思わず笑ってしまうことがあるほどです。

そのような稽古の中でも大切な事は、正中を立てる事。

本来は存在しない抽象概念ですが、稽古を重ねるごとにその抽象的な正中線が明確になってきて、その線がお互いの基準線とし、その基準線をお互いが取り合う行為が武術で行っている事です。

相手を掴んだり、刀を振ったりしますがそれは二の次で、その基準となる正中線が明確に現れその線に対して手や足の身体の動きが伴い動作が完成されます。

完成度の高い動作とは、その正中線がぶれずに明確に存在する事。

そのために稽古を積み見えない線を追求する事。それが武術の稽古の大半です。

ただ、そんな稽古をしなくとも正中らしき線を持つ者がいます。

それは、歩き始めた頃の赤ちゃんであったり小さな子供であったり、意識せずにその線を持ち合わしている人もいます。

本人は全く気付いていないのでしょう。

そして、自我が芽生え個性が顔を出し始めると瞬く間にその線が消えてしまう結果になりますが。

自我や個性の塊の大人は、その線の片鱗もありません。しかしそんな大人も幼い頃は残っていたかもしれません。

武術の稽古は、ひたすらそのこびり付いた自我や個性を削ぎ落とす作業だと理解しています。

武術の達人と生まれて間もなく歩き出した赤ちゃんが同等なんて理解に苦しむでしょうね。

ところで牛田くんの素晴らしいところは、その座り方。

YouTube動画では手元ばっかりで腰は写りはしませんでしたが、きっと腰がスゥと伸びて正中が立っている状態と同じ様に座れている様に感じました。

こればっかりは、いくら表面的に腰を伸ばしても無いものは無いのです。

有る状態と無い状態。

見た目はほとんど見分けがつきませんが、0か1かの違いほど大きな違いです。

1の状態を持つ牛田くん、ぜひ1が0にならない様に1の素質を曇らせる事なくそのままに成長して欲しいと切に思います。