力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

バイオリニスト五嶋龍さんの腰つき

五嶋龍さんの演奏は、聴かなくとも見ているだけで感動する。(音楽的なことはわかりません)

別にマッチョな男好きではない。

 

悩ましいのではなく、うらやましいぐらいの腰つきだからである。

 

あの安定感のある腰に乗る体と一体になったバイオリンから繰り出される音色は聞かなくとも想像できるから。

 

あの人ならバイオリンでなくても、スポーツ、武道、芸能においても一流の動きをすでに持ち合わせているので何をしても結果を残せるように思う。

 

何よりもあの腰の使い方である。

 

常に腰で動きをリードするようなあの動き。

 

指で弦を押さえるにしても弓を引くにしても、指で操作する感じではなく腰と繋がっている指が一体となって動いている感じがする。

 

体の末端である指先だけの操作と体の中心となる腰からの操作では、影響の仕方に違いが現れる。

 

指先だけの動きでは、体と指が分離してしまいバラバラの不安定な動きとなり易いが、腰と繋がった指の動きは、ブレのない一体的な動きとなり安定し安心感が生まれる。

 

ポイントは、立っていても座っていても腰の上に体がバランス良く乗っており、どのように動いても崩れない。

 

丁度秋田の竿頭のようにバランスを取りながら、その上で演奏している感じがする。

 

これが中心軸の安定した「やじろべい」と同じである。

 

やじろべいを支える指を少々揺らしても、やじろべいはバランスを取り安定している様に振舞う、安定とは固定ではなく状況に応じて揺れ動き、その結果動かないように見える振る舞いである。

 

彼の立派な体は頑丈で強固な感じがするが、実は身体の中で細かく揺れ動き、その動きが統一されているので固まって見えたりもするが、動きは非常に柔らかいものだ。

 

統一された動きはすでに身体の中で創られているので、音を鳴らす前に協調された状態であり、その上に音楽的センスが乗れば鬼に金棒だ。

 

響かせる立ち方

以前、声楽の先生が立ち方のアドバイスとして下半身は下へ地面に根が張るように、上半身は上へ天井から頭が引っ張られるようにと話されているのを聞いて引っかかった思いがあった。

 

上はさておき、下に根が張ってしまっては動けないではないかと思ったのである。

 

声楽や楽器演奏などは走ったり動き回ることがないので動けなくても良いのではないかと考えることも出来るが、問題は身体の中の動きである。

 

身体の動きは表面に現れた目に見える動き以外に目には見えないが確かに動いている動きがある。

 

抽象的な思いや感情を伝えるためには、この目に見えない動きを表現することで身体が響き人に伝わるのではないか。

 

スポーツなどの目に見えた物に対して感動する事と違って、芸術など”術”とつくものは目に見えない、なんだかわからないけど涙が出ちゃった風になるのは、自分でも見えず気が付かない間に影響されている、それは響かす方の身体の中の変化を感じ取った結果だと思う。

 

脚に根が張っても身体がすすきの様に揺らげばよさそうなものだが、脚に根が張った状態すなわち脚を地面に対して踏ん張った状態は、いくら身体の力を抜いて力みをなくして柔らかくしても地面からの反発力が身体に反響してしまい、響かそうとする自分の動きと合成され思いとは異なる動きとなってしまう。

 

これでは思い通りに身体を動かしていても、思い通りに身体が動いてるとはいえない。

 

この先生は下半身を安定させるために、脚を固めその反発力で声を飛ばすと云う様な発想だと思われる。

 

考え方の違いで、スポーツ的な発想であり強く大きく声を飛ばそうとすれば良いかもしれない、しかし、大きい強い声よりも響く通る声は地面を踏みしめない物理的影響を最小限にし、声を出す本来の動きだけのほうが個人的には良いように思う。

 

地面を踏みしめない立ち方で安定して立つとは、どのような立ち方なのか。

 

その前に、一般的な安定のイメージとして大地にドシンと置かれる墓石の様なイメージはないだろうか。

 

私の安定のイメージは、赤ちゃんが何とか立っている、そんな立ち方ではなくシュチエーションであり「やじろべい」が静止している感じ。

 

最小限の力でバランスよく立てたとき中心軸に身体が揃い身体が軽く感じる、そんなシュチエーションを見つけたい。

 

そのような時、踏ん張る必要がなく思い通りの動きが表現し易いかもしれない。

 

 

 

 

すべての動作の元となる中心軸

身体を動かす上で基準が必要だ。

 

基準がなければ、何に対してどれだけ動いたかがあいまいになり、動きに取りとめがなくなってしまう。

 

その形の元となる中心を貫くラインに体が乗っていることが第一条件だ。

 

このように書くとあたかも中心となるラインが在るかのようだが、その様なものはなく、体のそれぞれが中心となるところに在るからそれがそろうと線の上に乗っているように見えてくる。

 

別の言い方をすれば、地面からのそれぞれの高さの質量中心が一直線に並ぶように身体を整えた時、身体の中心となる軸が生まれる。

 

動きの始まりはすべてこの中心軸からはじめたい。

 

出元が明確であればあるほどその後の動きもはっきりしてくる。

 

だから動くことよりも、中心となる軸が明確になったほうが動きがわかりやすくなる。

 

さて、この中心軸がしっかりしている人はどんな人だろうか。

 

イチローかそれとも坂東玉三郎か?

 

私は一歳前後の立ち始めた赤ちゃんだと思う。

 

立ち始めの赤ちゃんは、筋肉を過剰に緊張させて立っていない。

 

バランスだけである。

 

余計な力を使わず素直に真っ直ぐな状態は、中心軸が安定している。

 

このバランスの取れた状態は、一番シンプルな力の使い方であり無駄がない、しかし一方で力で身体を支えていないので、ちょっとした変化でバランスを崩し倒れたり尻餅をついたりする。

 

大人になるほど体が倒れないように筋肉を緊張させ身体を制御するようになるり、この過剰に緊張させ身体を支えようとする力が余計な力となる。

 

倒れるのは、バランスが崩れるからでバランスが保てていれば安定していることになる。

 

倒れないように力を入れることは、安定している状態に似せているだけで安定とは程遠いと思われる。

 

大人は赤ちゃんの様に、ボテッと倒れるもしくは、身体を制御せずに尻餅をつく事ができるだろうか。

 

大人は倒れないように筋肉を緊張させ、また衝撃を吸収するように動きを調節する。

 

倒れる、または尻餅をつくなんて怖くて、つい力が入ってしまうものだ。

 

この力は安定させようと身体を固めているだけなので、安定ではなく居着いていると言う。

 

安定した中心軸を創るためには、身体を固めようとする居着きをなくさなければならない。

 

 

響かない様に自分を抑え込む力

自分の思いを表現し伝えるためには、伝える相手と響き合わなければならない。

 

でもせっかく響かしているのに、それを止めようと働く力も身体に存在する。

 

響かすためには、この響かせないようにする力が出ないように徹底的に身体をコントロールし打ち消す作業を行わなけらばならない。

 

一部の武道流派では体を極限まで酷使させ、もうこれ以上動けないところまで体を追い込む稽古をし、そこから体を制御する能力が技になる原動力だとする流派もあるようだ。

 

方法はともかく、力で体を制御することを排除しようとする試みの一つだとは理解できる。

 

だが、スポーツの世界でも「しごき」と称して体力の限界まで体を酷使させ鍛えるという方法があるが、忍耐力の養成であって技が上達することは考えにくい。

 

力で体を動かす事が当たり前の世界で力以外で体をコントロールすることは、それ自体が技ではないか。

 

といって力を抜いてしまえば、動くことは出来ない。

 

では、力以外の何で身体をコントロールするのか。

 

「気」なのか「霊」なのかとなると違う世界になるのでここの本題とは異なる。

 

物理的世界で生きている以上力は切っても切れない存在なので力以外にはない。

 

重要なのは力を使わないのではなく、力のコントロールの仕方を工夫し、あたかも力が存在しないかのように振舞う事で力の存在を消してしまう方法(結果)を見つけ出す稽古を行い、それが出来た時純粋に響く動きが生まれるのではないだろうか。

 

力感を感じない力を創りあげ、響きあう振動の邪魔をせず素直に動きが伝わるシュチエーション自体が技の源になる。

 

と、ややこしく書いたが力感なく身体を操作出来ればそれでよい。

 

だから子供が何気なく動いた動きにびっくりさせるような素晴らしい動きを見せることがある。

 

子供の様に何も考えずに素直に動けば響く 。

 

それが意識的に出来れば最高だが、大人は長年こびり付いた余計な動きを削り取る作業をコツコツと行い、素直な動きに近づいて行こう。