力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

エフゲニーキーシンの飄々とした演奏が好きです

先日リストのラ・カンパネラを生で聴く機会がありました。

 

音もさることながらあの超絶的な指の動きに驚き、改めてユーチューブで有名人の聞き比べをし、中でもエフゲニー・キーシンのあの飄々とした奏法は素晴らしいと思ったのです。

 

あれほど目まぐるしく指を動かそうとすると、つい力が入ってしまうようなものでしょうが、力みなく動き続ける彼の指使いに感心しました。

 

普通は激しくなればなるほど力が入ってしまいがちですが、激しくとも涼しげに動く彼の指は力感を感じさせることなく、淡々と鍵盤を捉えていました。

 

超絶な技法になればなるほど、力を抜かなければ曲についていけません。

 

力を入れて鍵盤を叩き、また指を力で引き上げてなんてしていたらまったく間に合わないでしょう。 

 

動かすために力を入れると、次は力を抜かなければなりません。

 

その間に必ず一旦停止する瞬間があり、その瞬間をいくら急いでも無くすことは出来ません。

 

結局、力を入れると抜くために動きが止まり、その間が徐々にズレを生み、そのズレを補正する為に急いで動かそうとすると余計に力に頼ったり焦ったりして、本来の動きから逸脱してしまうのではないでしょうか。

 

力を入れるから抜かなければならない。

 

ではいっそう力を入れなければ抜く必要もないのではないでしょうか。

 

力を入れなければ動けないではないかと、突っ込まれてしまいます。

 

ごもっともなのですが、力の入れ方に工夫を凝らしてみる必要があります。

 

この工夫により力をいかにも入れていないように振舞うことが出来るかがポイントとなるでしょう。

 

その一つとして、一筆書きで描く動きを行ってみる。

 

動作を区切らないことで、力を入れたり抜いたりの作業をショートカットできるのではないかと云うことです。

 

言い換えると、ずっと身体が動き続けていることで力のテンションが保たれると止まる瞬間がなくなります。

 

ピアノの演奏に限らず動作を行う時は、動作動作を繋ぎ合わせて一連の動作とします。

 

このとき動作が一旦止まって、また動き出すような極端なことがなくても、動作を繋げた動きは、その繋ぎ合わせの瞬間に動きが滞ります。

 

それは、動作に角ができた時です。

 

動作に角ができた時、一筆書きが途切れた瞬間となり、また動きが始まる瞬間となります。

 

このとき、力を改めて入れなおす作業が力を入れる状態と同じに感じられるのです。

 

ですから、この力の入れなおす作業をしなくて良いように、継続的に動作を続ける事。

 

角ができないように動作を続けるためには、角を出来るだけ丸く使うことです。

 

 

一流の人達は実際の腰の位置も低いです

一流と呼ばれる人達は腰が低い態度だけでなく、実際の腰の位置も必然的に低くなります。

 

腰が高いとスタイル良く見えるますが、スポーツや武道では禁忌とされます。

 

それは動作を行う前の構えの時点で腰が高いと身体が不安定になり思ったようにコントロールすることが出来なくなるのです。

 

日常動作では、腰を落とすと動きにくくなり腰が高いと体が動かし易いですが、正確に身体の動かそうとすれば、先ず一番重たい腰を一番に動かすことが先決です。

 

その重たい腰に身体のほかの部分が形を崩さないで着いて行く事が重要であり、腰以外の部分が先に動いて最後に腰が動く動作は、腰とその他の部分にブレが生じ形が崩れることになるからです。

 

効率的な動きは美しく崩れないことが特徴です。

 

腰が高いと腰以外の部分が動きやすくなり、腰とほかの部分で動きの分離が起こってしまい、動きがばらばらになりまとまりのない動きとなり、正確さを欠きあいまいな動きとなり動きが伝わらなくなります。

 

人に影響を及ぼす動きをしようと思えば必ず腰を低く落とすことです。

 

腰を落とせば、必然的に体が真上に乗り易くなり、身体のバランスがより安定的に取り易くなります。

 

(これは初歩的な身体の使い方で、上級者は腰を低く落とさなくても腰に体を乗せる事が出来るので、スクワットみたいな形にはならない。)

 

低い腰構えは重心線が体の中にあるため、体の重さを利用して体を動かすことが出来るため余計な力を入れなくても体を動かすことが出来るメリットも加わります。

 

腰が高いと体が腰に乗り切れず傾き、体が傾けば体の重心が体の外に出てしまうので重さを利用して体を動かすためのエネルギーが少なくなるので、筋力を利用しなければ動けないことになるのです。

 

そうすると、本来の動きの中に不必要に力が入ってしまい素直な動きが消えてしまいます。

 

本当に少しのブレ、少しの傾きで体が崩れれしまい、伝えようとする力が抜けてしまうのです。

 

そして力が抜けるから、勝手に力を入れて動こうとすると本来の形や動きではなくなります。

 

この時の動きはすでに、伝えるべき形や動きが何もない状態となってしまっています。

 

形や動きは良く似ていても何も伝わるものがない形や動きは、いわゆる形骸化した動きと云うことになるのでしょう。

 

バイオリニスト五嶋龍さんの腰つき

五嶋龍さんの演奏は、聴かなくとも見ているだけで感動する。(音楽的なことはわかりません)

別にマッチョな男好きではない。

 

悩ましいのではなく、うらやましいぐらいの腰つきだからである。

 

あの安定感のある腰に乗る体と一体になったバイオリンから繰り出される音色は聞かなくとも想像できるから。

 

あの人ならバイオリンでなくても、スポーツ、武道、芸能においても一流の動きをすでに持ち合わせているので何をしても結果を残せるように思う。

 

何よりもあの腰の使い方である。

 

常に腰で動きをリードするようなあの動き。

 

指で弦を押さえるにしても弓を引くにしても、指で操作する感じではなく腰と繋がっている指が一体となって動いている感じがする。

 

体の末端である指先だけの操作と体の中心となる腰からの操作では、影響の仕方に違いが現れる。

 

指先だけの動きでは、体と指が分離してしまいバラバラの不安定な動きとなり易いが、腰と繋がった指の動きは、ブレのない一体的な動きとなり安定し安心感が生まれる。

 

ポイントは、立っていても座っていても腰の上に体がバランス良く乗っており、どのように動いても崩れない。

 

丁度秋田の竿頭のようにバランスを取りながら、その上で演奏している感じがする。

 

これが中心軸の安定した「やじろべい」と同じである。

 

やじろべいを支える指を少々揺らしても、やじろべいはバランスを取り安定している様に振舞う、安定とは固定ではなく状況に応じて揺れ動き、その結果動かないように見える振る舞いである。

 

彼の立派な体は頑丈で強固な感じがするが、実は身体の中で細かく揺れ動き、その動きが統一されているので固まって見えたりもするが、動きは非常に柔らかいものだ。

 

統一された動きはすでに身体の中で創られているので、音を鳴らす前に協調された状態であり、その上に音楽的センスが乗れば鬼に金棒だ。

 

響かせる立ち方

以前、声楽の先生が立ち方のアドバイスとして下半身は下へ地面に根が張るように、上半身は上へ天井から頭が引っ張られるようにと話されているのを聞いて引っかかった思いがあった。

 

上はさておき、下に根が張ってしまっては動けないではないかと思ったのである。

 

声楽や楽器演奏などは走ったり動き回ることがないので動けなくても良いのではないかと考えることも出来るが、問題は身体の中の動きである。

 

身体の動きは表面に現れた目に見える動き以外に目には見えないが確かに動いている動きがある。

 

抽象的な思いや感情を伝えるためには、この目に見えない動きを表現することで身体が響き人に伝わるのではないか。

 

スポーツなどの目に見えた物に対して感動する事と違って、芸術など”術”とつくものは目に見えない、なんだかわからないけど涙が出ちゃった風になるのは、自分でも見えず気が付かない間に影響されている、それは響かす方の身体の中の変化を感じ取った結果だと思う。

 

脚に根が張っても身体がすすきの様に揺らげばよさそうなものだが、脚に根が張った状態すなわち脚を地面に対して踏ん張った状態は、いくら身体の力を抜いて力みをなくして柔らかくしても地面からの反発力が身体に反響してしまい、響かそうとする自分の動きと合成され思いとは異なる動きとなってしまう。

 

これでは思い通りに身体を動かしていても、思い通りに身体が動いてるとはいえない。

 

この先生は下半身を安定させるために、脚を固めその反発力で声を飛ばすと云う様な発想だと思われる。

 

考え方の違いで、スポーツ的な発想であり強く大きく声を飛ばそうとすれば良いかもしれない、しかし、大きい強い声よりも響く通る声は地面を踏みしめない物理的影響を最小限にし、声を出す本来の動きだけのほうが個人的には良いように思う。

 

地面を踏みしめない立ち方で安定して立つとは、どのような立ち方なのか。

 

その前に、一般的な安定のイメージとして大地にドシンと置かれる墓石の様なイメージはないだろうか。

 

私の安定のイメージは、赤ちゃんが何とか立っている、そんな立ち方ではなくシュチエーションであり「やじろべい」が静止している感じ。

 

最小限の力でバランスよく立てたとき中心軸に身体が揃い身体が軽く感じる、そんなシュチエーションを見つけたい。

 

そのような時、踏ん張る必要がなく思い通りの動きが表現し易いかもしれない。

 

 

 

 

すべての動作の元となる中心軸

身体を動かす上で基準が必要だ。

 

基準がなければ、何に対してどれだけ動いたかがあいまいになり、動きに取りとめがなくなってしまう。

 

その形の元となる中心を貫くラインに体が乗っていることが第一条件だ。

 

このように書くとあたかも中心となるラインが在るかのようだが、その様なものはなく、体のそれぞれが中心となるところに在るからそれがそろうと線の上に乗っているように見えてくる。

 

別の言い方をすれば、地面からのそれぞれの高さの質量中心が一直線に並ぶように身体を整えた時、身体の中心となる軸が生まれる。

 

動きの始まりはすべてこの中心軸からはじめたい。

 

出元が明確であればあるほどその後の動きもはっきりしてくる。

 

だから動くことよりも、中心となる軸が明確になったほうが動きがわかりやすくなる。

 

さて、この中心軸がしっかりしている人はどんな人だろうか。

 

イチローかそれとも坂東玉三郎か?

 

私は一歳前後の立ち始めた赤ちゃんだと思う。

 

立ち始めの赤ちゃんは、筋肉を過剰に緊張させて立っていない。

 

バランスだけである。

 

余計な力を使わず素直に真っ直ぐな状態は、中心軸が安定している。

 

このバランスの取れた状態は、一番シンプルな力の使い方であり無駄がない、しかし一方で力で身体を支えていないので、ちょっとした変化でバランスを崩し倒れたり尻餅をついたりする。

 

大人になるほど体が倒れないように筋肉を緊張させ身体を制御するようになるり、この過剰に緊張させ身体を支えようとする力が余計な力となる。

 

倒れるのは、バランスが崩れるからでバランスが保てていれば安定していることになる。

 

倒れないように力を入れることは、安定している状態に似せているだけで安定とは程遠いと思われる。

 

大人は赤ちゃんの様に、ボテッと倒れるもしくは、身体を制御せずに尻餅をつく事ができるだろうか。

 

大人は倒れないように筋肉を緊張させ、また衝撃を吸収するように動きを調節する。

 

倒れる、または尻餅をつくなんて怖くて、つい力が入ってしまうものだ。

 

この力は安定させようと身体を固めているだけなので、安定ではなく居着いていると言う。

 

安定した中心軸を創るためには、身体を固めようとする居着きをなくさなければならない。