力を抜く身体目指して古武術稽古中

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そんな時力が抜けたといえよう。

究極の危機回避行動は「後の先」

いにしえの侍は、よっぽどのことがない限り夜道を歩く事はなかったと師にお聞きした事がありました。

 

侍といえば太刀を腰に差し、強い立場と絶対の術を持ち合わせ向かうところ敵なしのイメージで、刺客を討つ場面が想像されます。

 

いつ何時も変幻自在に対応し、夜道であろうが霧の中であろうが怖いもの無しではないのか?と。

 

だから夜道ぐらいは別に問題ないのではと思ってもおかしくはないのですが、それさえも控える侍の慎重の上にもより慎重に生活する様が伺えるようでした。

 

最大のリスクヘッジは最大の準備をして何もしない事の如く、不要不急の事柄は当然として出来るだけリスクを回避し、余計な事はしない事。

 

そこまで徹底して身を守る事が究極の危機回避であり、不測の事態に出くわす確率は断然減ります。

 

根底にある哲学は、「先を読む」ではないかと思います。

 

先を読むにあたって情報収取は必須であり、周りの状況を常に分析して不測の事態に備え、その上であえて回避行動を取る。

 

正確な将来への読みが重要である事は、現代ビジネスマンとて同じ事です。

 

侍の将来への読みの特徴は、遠い未来を予測するのではなく、直近の未来を直近の動きを見て計算し直近の未来予測を行なうと思われます。

 

遠い未来は情報分析が曖昧で複雑になり予測確率は低くなりますが、直近の未来は情報は限定的で単純なので予想し易いのではないでしょうか。

 

限定的にこの直近の未来に対してフォーカスする事で予測確率を高めてそれを将来へ繋げて予測を行なっていると考えます。

 

なぜそのように考えるかと申しますと、一対一で敵と対峙し自らが有利になる為には相手の出方を読む事です。

 

ただし、相手の出方を読んでから自らが動けば当然相手に先を越され自らが不利となりますが、相手の出方が始まろうとするその起こりを読む事で動くであろう出方の予測が出来、そしてその予測を元に動けば、先に動き出した相手より有利に動く事ができるはずです。

 

これが「後の先」と言われる事ではないかと想像します。

 

後の先とは、今その時の状況に対応した動作ではなく、直近の未来に対して対応した動作であり、相手の出方の前に対処している事になります。

 

 ここで大切なのは、動く前の動きの起こりを読むこと。

 

今風に言えば、予備動作になるのでしょうか。

 

予備動作は、動作を行う前の準備動作とも云え、身体が動き出す前に体勢を作る行為です。

 

例えば強いパンチを繰り出すためには、身体の中に十分な溜めを作り、一気に力を放出する時の”溜め”であったり、バットスウィングなどの身体を捻る時の身体のうねりであったりを指します。

 

ですから「後の先」の動きは、相手が動く前の予備動作に溜めが見えれば、パンチを出された時の対処になる動きを相手の身体が発動される前に行うことになります。

 

パンチが出される方向や強さが予測できれば、前もって返し技などの体勢を整えて対処することが出来るわけです。

 

実際の場面では、パンチを出したほうが不利になるような見え方になり、たまたまパンチの出し方がまずかったように見えますが、これはパンチを受けるほうが先に有利になる態勢を整えていたからに過ぎません。

 

パンチが出てきたから対処するのではなく、パンチが出せない対処を前もって作っておけば、後から動いても結果的に有利な体勢には違いありません。

 

その上に、いにしえの侍は相手の思念を読むことで、動こうとする起こり(予備動作)以前の状態で相手を制御できたように思われます。

 

そうなってくると、時代劇にあるようにチャンチャンバラバラなことはなく、相手が太刀を抜く前に動きを制していた、もしくは相手が太刀を抜く必要のない状況まで先を取っていたかもしれません。

 

戦わずして戦いを制するとは、こんな感じなのでしょうか?

古武術的危機回避能力

古武術稽古仲間から、知人が地下鉄サリン事件の車両に乗り合わせていた時に雰囲気の違う人が乗り込んで来たので車両を降りた後、事件が発生した話を聞いた事があり、まさしく危機回避能力が発揮された事例だと思いました。

 

この人は武術経験者ではなかったそうで、特別なトレーニングを積んだ経験もなかったそうです。

 

たまたまといえば、本当にたまたまなのでしょうが、能力が発揮される時ほどさり気なく、あっさりとこなしてしまう感があります。

 

危機回避能力と聴けば、特別な能力が備わっていたり、特別なトレーニングや修行によって獲得されるイメージがあるかもしれませんが、私はそう思えないのです。

 

ですから映画に出て来る様な、特別な能力を要したヒーローによるワクワクドキドキのストーリーが展開される感じではなく、偶然の如く過ぎ去り、話にもならない行為が結果的に功を奏する事になると思うのです。

 

ではなぜ、この人が危機回避能力を発揮させらる事ができたのか?

 

それは、その人が毎日、その時間、その車輌に乗っていたからだと私は考えます。

 

ほとんどの電車通勤の人はそうだと思いますが、特に朝の通勤時間などはその車輌に乗り合わせている人全てが毎日毎日その時間、その車輌に乗っているわけで、顔ぶれはほぼ同じとなるはずです。

 

何十年も繰り返し乗っていれば、逆にいつもあそこに座っている人が最近座っていない事にも気付いて、退職したのかな?とか左遷されたのかな?とか、いつも難しそうな本を読んでいる人がマンガ本を読んでいて、そんな本も読むんだ!と感心してみたり。

 

いつのまにか、その車輌の些細な日常が自然に手に取るように感じられる様になるのではないでしょうか。

 

まして、日本の中枢となるオフィス街のど真ん中に向かう列車となれば、それなりの人ばかりだと想像します。

 

そんな中、ひょこっと雨も降っていないのに傘を持った似つかわしくない人が入って来たら。

 

“あれっ”て思ったのでしょう。

 

ただし、あれっと思った人は他にもいたかもしれませんが、その思いの深さは感性なのか、よくわかりませんが、ふと身体が反応したのでしょう。

 

この日常と違う事が感じ取れる感性は、日常が重要となるわけで、日常がよく見えているから非日常とのギャップが見えるはずです。

 

その時の危機回避能力が素晴らしいのではなく、日常の観察力が高いからこそその違いを感じ取る事ができたわけで、それまでのプロセスがあったからこそ、できたことではないでしょうか。

 

さて、この話は古武術とは関係ありませんが、古武術の稽古は型稽古を行います。

 

(武術といってもいろいろあり、たまたま私の稽古する古武術はいにしえの侍が持つ身体を目指す武術で、この型稽古を重要視しています)

 

型稽古とは、受け手と取り手が決まった手順で攻防をシュミレーションする様なイメージで、また型稽古に入る前にも基本動作があり、柔術でしたら受け身、剣術でしたら素振り等の基本稽古があります。

 

基本稽古を含め型稽古の目的は、動作を型にはめる事にあります。

 

動作を型にはめるとは、きちんと同じ動作が同じ様に、いつでも出来るようにする事だと私なりに理解しています。

 

そのために繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、決められた手順をきちんと丁寧に、繰り返す作業が求められます。

 

そのように繰り返し動作を行なっていると、さっき行なった動作と違う事に気づきます。

 

同じように行なったと思っていた動作が、今行なった動作と先ほど行なった動作が微妙にズレていたり、真っ直ぐ腰を落としたつもりが曲線を描いていたりします。

 

特に型稽古は受け取り相手を付けて動作を行うため、自分が出来ていると思っても、受け手がズレに気づけば動作はストップしてしまい型稽古にならなくなってしまいます。

 

そして一連の動作を修正して型へと導いていきます。

 

この稽古の眼目は、同じ動作を繰り返し、繰り返し行う事で動作の歪みを排除する事だと考え、歪みのない動作こそ武術の“術”となるゆえんです。

 

いにしえの侍は、そんな術を持ち合わせていたと思います。

 

そのような術を手に入れるためには、術を目指すのではなく、日頃の繰り返しが大切なのではないでしょうか。

 

 

懐が深いとは、柔らかく使える胸のスペースが広い状態

懐が深いとは、身体感覚を表現した言葉であることは間違いないと思います。

 

広辞苑には、①相撲で、四つに組んだ時、胸の辺りが広くて相手になかなかまわしを与えない。と書かれていて、これは関取が取組時の感覚と捉えることができます。

 

相撲で、四つに組んだ時にお互い胸(懐)を合わせ、まわしを取る形で胸から指先までの距離が長ければ長いほど(深ければ深いほど)まわしが取り易く技を掛ける可能性が高まります。

 

単純に腕が相手より長ければ有利にはなりますが、懐が深いとは腕が長いなどのリーチの問題ではなく、それ以外で有利に働ける身体の特徴です。

 

懐とは、着た着物と胸との間とありますが、相撲での取り組みは着物を着ていませんので、着物ではなくお互い合わされた相手の胸と自分の胸との空間もしくは接点が相撲においての懐と考えられます。

 

ですから、腕の長さではなく相手の胸と自分の胸までの長さ(深さ)で有利に技を掛ける事ができるのです。

 

問題は、相手の胸と自分の胸との隙間はお互い同じで、胸が密着していれば長さ(深さ)は発生しません、しかし、相撲だけにかかわらず、格闘技やスポーツにおいてもこの隙間もしくは接点を制したほうが断然相手より有利に動けるはずです。

 

目に見える表面的な動きではなく、表面には現れない胸の奥で操作される動きが詳細に働いたほうが有利に事が運び、この取り合いが勝敗を決める決め手となります。

 

お互いの胸と胸が創る空間はお互いの最前線で、この最前線でこちらの情報と相手の情報のやり取りが行われます。

 

お互いの情報の中には、相手の身体の位置関係、筋肉の緊張状態、関節の動き、そして相手に接している皮膚感覚から相手の出方を伺います。

 

この感覚は、身体感覚の中でも体性感覚と呼ばれるもので、普通は自分自身の感覚を捕らえる感覚ですが、最前線の接点を通してその感覚を広げ相手の身体の感覚を読み取っているのです。

 

懐では、この様なやり取りが行われる大変重要なスポットで、このスポットをいかに上手に使いこなすかがポイントとなります。

 

上手に懐を使うとなると、懐がより広がりを含む動きが出来ること。

 

前回にも書いたように懐を解剖学的に見ると胸部や胸郭となり、現代医学的には呼吸運動における動きぐらいしかなく、身体能力を発揮する要素はあまり注目されることはありません。

 

一見動かなさそうなところをあえて動かす。

 

そこに、現代における一般的な身体感覚では考えが及ばず、残された言葉だけが使われている今は、精神的な事柄に例えられる事は無理もありません。

 

普通に考えれば、硬い骨が何十本も組まれた鳥かごのようなフレームが普通の関節の様に閉じたり開いたり上下したりするイメージが湧いてこないことは当然です。

 

懐が深いとは、動かないとされている胸部を柔らかく使う(動かす)事で胸部を深く沈ませ、肩先から胸部中央までの距離を広げる事で四つに組んだ時、接点となる胸から指先までの距離が広がり有利な体勢を作る、この広がりを指す言葉だと思います。

 

一千年前の力士は四つに組むにあたって、この懐の深さを競い合ったのではないかと思うと、今の取り組みの様に激しい当たりやダイナミックな投げ技で観客を魅了する様なスタイルではなく、お互いが相手の手の内を読み合う様な情報戦を繰り広げていたと考えると、地味で観ていてもつまらなかったと想像してしまいます。

 

そして、そのやり取りを観ている人は、見えないやり取りを愉しんでいたとすれば、昔の人は、なんという感性を持ち合わせていたと思うと感動すら覚えます。(勝手に)