力を抜く身体目指して古武術稽古中

余計な力はパフォーマンスの邪魔になる、無駄な動きを省いてシンプルな身体の使い方を目指そう

ピアニスト牛田智大さんのファンになったオジサン 2

昨年末初めて牛田智大さんのラフマニノフピアノ協奏曲第2番を聞いてファンになって以来、今月2度目の演奏を神戸国際会館ホールで聴く機会を得ました。

今回はラフマニノフピアノ協奏曲第3番です。

この曲は、ほとんど聴き覚えが無く最後の盛り上がりだけかろうじて印象にある程度ですので、楽しめるかどうか少々不安でしたが、前回の第2番の印象が今でも強く残り期待十分。

そして、彼の身体操作から新たな武術の気付きが生まれるか大変楽しみです。

特に前回では身体の繋がりが実体する線を創りだすのではなく、その線が出来るであろうスペースにわだかまりを作らない事は大きな収穫となりました。

さて、こんな期待を持ちながらホワイエに入ると、いきなりスーツを着たおじさんが一列に並んでヘンな雰囲気でした。パンフを見ると銀行の協賛ということで行員さんが招待客を迎えていたのです。

・・・ということは、牛田君のファン以外にもファンではないけど招待されて来た人が相当数いた感じです。

ラフマニノフピアノ協奏曲第3番って第2番と違って私みたいなシロートには良さがわかりづらい通好みの曲だと思っていたら、やはり、唯一聞き覚えのある最後の盛り上がりになって、前列の女性がLINEを始めだしたので一気に気持ちが萎えてしまいました。

 

やはり第3番は第2番より難曲らしく、牛田君も苦戦していたのでしょうか?

残念ながら私は、前回のように響きが感じられませんでした。

 

苦戦の姿は、肩に現れている様な気がします。

 

前回気付いた指先から躯幹(体幹)に連なるルートに、わだかまりが無ければ力がスムーズに伝わり、音であれば反響するスペースが生まれ、武術であれば手ごたえが無くなる状況が出来るのだが、今回の彼の肩はわだかまっていたように感じたのです。

普通だと「肩に力が入る」となるのですが、彼らレベルと一般的な力の入れようは格段の差があると思いますが、彼らのレベルでも一旦わだかまりが出来ると力は途絶え、技は消えてしまう、そんな気がしました。

では、わだかまりとは何なのか?「肩に力が入る」どのような状況なのか?

蟠り(わだかまり)とは、すらすらと運ばず、つっかえていること。

肩の状況でいうと、躯幹(体幹)で作られた動きが肩を通過して腕や手指に伝わる時に肩の辺りで何らかの障害もしくは抵抗が生じ力が途絶えてしまう状態が起こると、力は伝わらず、つっかえたところから又新たな力を出力し腕から手指に動きを伝える。

この力は、躯幹(体幹)からの力が一旦消滅して、又新たに肩から力を出力しているので躯幹(体幹)部の力は全く影響なく、肩から先の腕力となるため、躯幹となる「身体」に響かない。

躯幹(体幹)が動いて初めて周囲の「身体」に影響を与えることができるはずです。

 

ではなぜ肩でつっかえて蟠ってしまうのか、

それは、肩周辺の筋肉は感情など細やかな身体や気持ちの変化に対して非常に敏感で、緊張し易い性質であり、身体の状態や感情のあり方を端的に表してくれ、これらの筋肉が過剰に緊張することで「実」となり、これがつっかえる要素となりえます。

例えば、後姿でも肩の表情でその人が喜んでいるのか、愁いでいるのか読み取れることがあります。

特に、ストレスや緊張した場面では肩が上がり、その人の心境が垣間見ることが出来ます。

肩に力が入るとき。肩の外側を覆う三角筋や背部の僧帽筋や肩甲骨周辺の筋等が過剰に緊張すると、上腕骨が上方に引き上げられ肩上部のスペースが狭くなります。

この肩の位置が力を途絶えさせる致命的な実体のある「実」の状態といえ、前回に書いたように力を伝えるラインは、「虚」の状態である時、実体はないが確かに存在する状況が生まれ、実体の実との差が明確になる程、虚のラインは力強い力の働きを表してくれます。

この力強い虚のラインは、何も力を入れない時が一番虚であり力が発揮されるポテンシャルを秘め、その形のまま肩の関節位置を変えないで腕を動かすことが出来ればベストです。

しかし、腕を使うとすると、肩関節が力の強い(外側・上方)筋肉に引っ張られて関節の位置が変わってしまいます。

一般的に腕を使う場合、ほぼ前方もしくは側方に動かすことが多いですが、その時に必ずといって良いほど肩の上(外側)にある三角筋等が先ず働いて腕を動かし始めますが、その瞬間に肩関節中の上腕骨頭は肩甲骨(肩)に対して引きあがってしまい位置関係が変わってしまいます。

関節の位置関係を変えずに腕を動かすとすれば、腕を下げる筋肉(広背筋)を同時に作用させ上腕骨頭を下方に引き下げることで関節位置をキープすることが出来るのです。

感覚的には、腕を上げる時肩関節が沈むぐらで丁度良いぐらいです。

普通にバンザイをすると必ず肩は上がりますが、武術的には肩は下がります。

このように躯幹(体幹)の力を発揮させ、ポテンシャルを引き出すためには、肩が上がらないように肩を操作しなければなりません。

・・・といろいろ書きましたが、子供がゲームをしていて、そのゲーム機を取り上げようとし、子供がその手を不意に払った時、手だけでなく身体ごと崩れそうになる事がありますが、このとき子供は無意識に肩周辺の筋肉を巧みに使い、関節位置変えずに「ひょいっ」っとこなしてびっくりすることがあります。

そんなたわいも無い動作が大人になるにつれ、出来なくなったりします。

ですので、武術の稽古は子供、女性、大人と別ける必要がありません。

子供のほうがよっぽど凄い動きをすることがあります。

大人になるにつれ、固定観念が固まり体の動きもパターン化され、多様に動かなくても動けるような動き方を自然に身に着けて動きの可能性を狭めて行き、自ら動かなくても良い身体に向っていきます。

10台後半の牛田君もいろいろな試練にぶち当たって大人へと向っているでしょうが、頑張ることで失う能力があるかもしれません、今ある能力を信じてその能力を伸ばして欲しいと願っています。

 

 

 

 

手先・指先の力を抜くとパフォーマンスは高まる

先ず、パフォーマンスの高い状態とはどのような状態を指すのか?

運動器系だけで云うとより多くの筋肉が働き、それによって関節が動かされ、複雑な動作を行っている状態といえます。

その前に脳からの命令が細やかに、細部にわたり適切に送り出されなければなりません。

その結果、体の動きは軽やかにスムーズに効率の良い動きが繰り出され、いわゆる「力の抜けた」動きを作り出し、軽々とした動きとしてみることが出来ます。

逆に、パフォーマンスの低い動きとは、個人個人の動き易い筋肉を組み合わせることで、それらしい動きを作ろうとし、見た目は良く似ていても、発動される筋肉の部位や数が圧倒的に少ないため、転送速度の遅い動画のようにカクカクとしたぎこちない動きとなります。

そのぎこちなさを補う為に筋肉を緊張させ(力を入れて)少ない筋肉の出力を高め動きを作るため、より動きがぎこちなくなり、力感が高まり、力が入った状態となります。

パフォーマンスを高めるためには、先ず動く量をこなし動きに慣れる事でスムーズな動きにつながるでしょう。

しかし、それだけでは個人個人の特性である動かし易い筋肉だけが動作を作り出し動作に参加しない筋肉はお荷物になる可能性があります。

慣れた動きをいくら繰り返しても「質」は高まりません。

質を高めるには、動けていない筋肉を使い動作に参加させる事。

そのためには、出来ないことを出来ないまま繰り返すことではないかと思います。

言い換えると出来ないことを出来るように工夫してはならないという事。

工夫して出来る動作は、我流に陥り易く本質が抜け落ちる恐れがあります。

出来ない動きをひたすら繰り返していると、同じ動きでも動きの違いに気付く瞬間が訪れます。

そして、その瞬間に気付いた時「これや!」と感動してしまいます。

 

しかし、後日実際にその動きを検証してもしっくり来ないことは多々あり、仮説が崩れる瞬間ではありますが、それを繰り返し行い実証していかなければなりません。

 

その中でも最近一つ気付いたことがありました。

 

手先、指先に力を入れて人に触れたり、物を持つと躯幹(体幹)の動きが妨げられることに気付いたのです。

躯幹部(体幹部)を動かすことがパフォーマンスを高める大きな課題であることはどの世界でも今では共通となりました。

しかし、躯幹部(体幹部)はなかなか動いてはくれません。

武術では、「テヲモッテセズ、アシヲモッテセズ」と古来より歌われておりました。

手でも脚でもないところで動作できなければならないことを古の武人は後世に忠告したと理解しています。しかし、現代人にとって手足を動かさずにどうやって体を動かすのか考えも及びません。

それがクリアできた時、少しは技と云える動きとなっているのでしょう。

今まで師から、相手や剣に触れるときは極力軽くと、赤ちゃんに触れる時のようにと散々忠告を頂いていました。

これは、相手に干渉しないように、剣の動きを最大限引き出す事と理解していましたが、その他に手先・指先に力が入ると自分自身の感覚が鈍くなり、本来の動きの邪魔になってしまうことに気付きました。

柔術の稽古において躯幹部の動きで相手を崩そうとしてもなかなか自分の躯幹がどのように動いているのか、また動いていないのかが手先・指先に力が入ると解らなくなっていたのです。

手先・指先に力を入れてしまうと体性感覚が鈍くなり、自分の身体の状況が解らなくなり適当に、闇雲に動こうとしてしまいます。

その結果、自分の動き易い動きで対応するため「質」の高上にはつながりません。

自分の体の中で、特に躯幹部(体幹部)の感覚が明確になる事で身体本体の操作が出来る様にならなければならないのです。

これは、野球やゴルフでも同じことが言えるのではないでしょうか。

バットやクラブを強く握ればよく飛ぶというものではないでしょう。

極力軽く握ることでバットやクラブの存在を感じ取り易くなり、また繊細な操作が可能となります。

力でボールを飛ばすのではなく、躯幹部のコントロールを厳密に行うことで道具をコントロールし、道具の能力を最大限発揮させる。その様な飛ばし方があるのではないでしょうか。

そのためには、極力手先・指先の力を抜くことで躯幹部の動きが明確になり、躯幹部の動きで動作できればパフォーマンスは高まると思われます。

 

 

 

 

 

力が抜けると有利になる古武術

力で身体を動かすことが当たり前の現代の思考は、力が強ければ有利になることがエスカレートし、身体を動かす為には力を使う、力を入れる事しかありえない思考回路が出来上がっています。

しかし、西洋文明が入り込む以前の日本では、現代(西洋文化)では考えられない身体活用の文化があったようです。

例えば飛脚の走り方は、現代の走り方である地面を後方に蹴りその反動で前に出る方法ではなく、体自体を前方に倒し転倒する前に脚を出す。体が倒れる方向に脚を出し続け倒れ続けることで前に進む方法では、力が加わる方向が全く逆であるように、出来るだけ力を消費しないように工夫されていると思います。

日本人は身体活用においての工夫がとても秀でている民族であり、文明開化以前の生活は、工夫を凝らした身体でほぼ人力で行っていました。

そこで効率よく身体を使い作業を行えるように身体の使い方を工夫し、無駄を省き、極力エネルギーロスの無いよう少ないエネルギーで多くの仕事をこなしてきました。

逆に西洋では、体をたくみに使うことより身体以外の道具を発展させることで生活を向上させてきた経緯があるのではないでしょうか。

これらのように日本文化には、身体の使い方から日本独特の発想があり、日本的な身体活動を行うには日本的身体動作がおのずと発達するはずです。

その文化の中で生まれた武術は、現代の身体活動とは違う感覚で動作を行っていたと推測できます。

例えば日本刀を扱うにしても、1キロ半程の重さを有する刃物を刃筋をたてて切る行為は現代的な力の感覚では扱いきれません。

一般的に重みを感じると人は同等の力を入れて支える、または扱おうとしますので重みがあればあるほど、握る力なり、振る力なりが入ってしまいます。

しかし、その力が刃筋を狂わせてしまう外力となってしまうのです。

日本刀は重さを計るように扱うものなのです。

力を入れて握ったり、持ってしまっては重さが解らなくなってしまいます。

極力力を使わず、刃物が刃物本来の仕事が出来るように導くことが刃物の扱い方です。

力を入れて切ろうとすれば、より切れなくなり、刃物の重さを感じながら進む方向に邪魔をしないように運ぶと切れた実感も無く、結果的に切れるものなのです。

日本刀を基準とした古武術は、人に対しても触れると切れる感覚で向き合ってきた歴史があります。

強い力で抑え込んでも相手が刃物で切りつけてくれば強い力は無意味となってしまいます。

それでも刃物で切られないように逃げれば良いのですが、力がたくさん入っている部分は動きにくく動作が遅れてしまいます。

これが居着く状態です。

ですからお互い刃物から攻められぬ様細心の注意を払い相手に向わねばなりません。

そして、相手に触れても自分の存在を相手に知らせてはならないのです。

どのような世界でも、情報は一番の武器となり、相手にこちらの情報を与えぬことが情報戦を有利に進める方法です。

そのためには、相手に触れても力を加えないことなのです。

相手は、力の加わる方向、量、速度などを頼りに相手の出方を計算します。

この力を減らし、情報量を少なくすることで自身の出方を見せずに戦うことが出来るのです。

問題は、力を使って体を動かすことが当たり前の現代人にとって、力を使わず身体を動かす術(すべ)を体得することが困難な時代になったことは避けられません。

そして現代の常識に真っ向から立ち向かう勇気が必要になるかもしれません。

ピアニスト牛田智大さんのファンになったオジサン

ピアノが趣味の妻に付き合い、ラフマニノフピアノ協奏曲第2番大友直人指揮牛田智大ピアノ大阪フィルの演奏を聴きに大阪シンフォニーホールへ赴きました。

私の場合、オケのチューニングでその日の満足度が決定される傾向があり、この日もすべての楽器が鳴り出した時点で涙がうるっと出てきたので、自分の中では演奏が始まる前にテンションはマックスに高まっていました。

しかし、牛田智大さんの演奏は聞いたことがなく、まったく白紙の状態です。

さっと会場が静まり大友さんが牛田さんを見つめる中、ピアノの一音が鳴ったと同時に自分の身体に響きが伝わった感じがしたのです。

年に何回か演奏会に出かけ感動した演奏は幾度もありますが、身体が響くことは余り経験したことはありませんでした。しかし、この日の牛田さんのピアノに自分の身体が反響していることが腰の辺りで感じ取る事ができたのです。

これは武術で云われる「腰を取れれる」感覚とまったく同じ感覚なので大変驚いてしまいました。

特に柔術では相手を崩す為にお互い腰を取り合います。

といっても直接手で腰を触りにいくのではありません。

いろいろな技の形はありますが、共通することは相手の腰(体の中心)に対して自分の身体の中心を分け入れる事により、相手の中心である腰がその場に居る事が出来ない状況を作ると、結果的に相手の中心がかすかにずれて、身体がその位置では維持する事が出来なくなり崩れるのです。

ですから、相手を崩すのではなく相手が崩れるのです。

そのためには、身体の中心を相手より厳密に捉えることが重要になります。

もう一つ大事なことが、それを行うにあたり絶対力を使わないことです。

”絶対”なのです。

これが難しいのですが、力を使う、もしくは力を入れてしまうと必ず相手が力を察知しその力に対して防御もしくは対処しますので相手は崩れません。

といって筋力を使わなければ身体は動きません。

表現がしにくいのですが、力を出さないように筋肉を動かすとでも云うのでしょうか。

筋肉が動いていても動いていない感覚とでも云うのでしょうか。

例えば、時速100kmで走っている車を歩道から見ていると動いていることがわかりますが、時速100kmで走っている車に同じ速度で併走すれば動いていることがわかりにくくなる感じでしょうか。

その様な感じで身体のそれぞれのパーツを同時に動かすと相手はどの様に動いているかが認識できなくなります。

これらのような条件で腰を取られると自らが崩れてしまいそして、腰が抜けたようになり、その時の感覚として見事に気持ちよいのです。

逆に力が入った動きで崩そうとすると、自らも力を入れて対応するため身体と身体がぶつかり合い力がみなぎった膠着状態となりますが、力の存在しない動きには力を入れて対応できないため自分の身体が自分の身体を支えることを止めてしまうほど力が抜けてしまいます。

 

牛田さんは武術とは無縁だと思いますが、身体の動きや使い方が共通していると思われ、その上高度な身体操作が行われている様に見えました。

たまたま最前列の左側に座ったので、彼を真後ろから背中を見ていたのですが、指と腰がリンクして動いてるように見て取れたのです。

そこで腰と指の繋がりが実体する線を作り出すのではなく、その線が出来るであろうスペースにわだかまりを作らないことだと気付かされました。

 現代的発想であれば、腰から指に繋がるラインを作りなさいと云われると、そのラインを繋げると云う実体を創造してしまいますが、いにしえの発想では繋がる線(ライン)となる所(スペース)が虚となり、なくなることで実となる身体との差が生じ、実体としては無いが確かに存在する有が生じると捉えているのではないかと考えたのです。

彼の後姿を見ていて、彼の身体の中心が中空のように真ん中が抜けてスカスカしているように見え、だからその中空の中で音が増幅されこちらの身体に伝わり反響したのかと想像していました。

また、力みの無い身体は当然細かく動くことが出来るので、動きがしなやかで柔らかくなり、彼の指先が鍵盤に吸い付くよう、また張り付くように見えたのです。

これは、石で鍵盤を叩くのとゴムで叩くのと違いのように柔らかければ柔らかいほど接地時間が長くなるので結果的に鍵盤をしっかり叩いていることになるのではないでしょうか。

音楽も武術も人(相手)に影響を及ぼす作業であることは共通であり、身体操作も共通しているに違いないと確信しました。

牛田智大さん、素晴らしい演奏を有難うございました。

宜しくお願いいたします。

 

 

 

 

ブラック企業ならぬブラック身体

ある方の職場のお話を聞いて、思わずブラックじゃないですか?と言ってしまった。

その方も否定せず、内部でも自分の部署を言うと、少し間が開いて「・・・ご、ご、ご苦労様・・です・・」とだけ返ってくるそうです。

つい最近も部署の方が長期休養に入られたそうで、その方の仕事が丸ごと抱え込むことになったそうです。

ただでさえ一杯一杯の状態なのに、その上人の仕事を引き受けるには物理的に無理があるのは解っていてもこなさなければならない事が現実のようです。

組織を維持する為に人がばたばたと倒れていく。

その方が、野戦病院のようだといったことが印象的でした。

職場という組織のように、身体も一つの組織で構成されています。

この身体の組織も一杯一杯になればブラック化することもありえるのではないでしょうか。

例えば、身体の運動機能だけを取り上げてみると。

身体は筋肉で動かされるので、筋肉が健全に動いていれば身体は不自由なく動作することが出来ます。

しかし、一見スムーズに動いているように見えても、本当に身体が機能しているかどうかはわかりません。

身体を動かすための筋肉は約400程あり、260程の関節を動かしているそうですが、一流のパフォーマーでもすべての機能を使い切っているとは思えません。

しかし、より多くの筋肉や関節が機能していることでしょう。

一般的に見た場合、やはり子供の頃は身体も柔らかく運動が機能し易い状態でポテンシャルも高いですが、やがて年齢と共に身体も硬くなり運動機能も低下してきます。

単純に子供の頃はよく動くが、大人になると動きが鈍くなります。

まして便利な世の中に暮らす現代人は身体を動かさない(楽をする)ように工夫しますのでどんどん運動機能が低下するように思います。

そんな時、400の筋肉のうちどれ程の筋肉が機能しているのでしょうか。

病気や怪我でなくても身体を動かさなければ、筋肉は鈍ってしまい収縮する機能が衰えてしまいます。

気がつけば半数程度の筋肉しか機能していないということもありえるのではないでしょうか。

200の筋肉で260の関節を動かすようになれば、今後の年金制度のように破綻してもおかしくはありません。

潰れることはないにしても、機能不全となり思うように動作できなくなることは想像できます。

病気や怪我もなく見た目にも問題がないように見えても、中身が半分しか機能していなければ身体が動かしにくいはずです。

ただ、鈍った筋肉は病気でも怪我でもないので顕在化しにくく、自分自身でも存在を認識することは余りありません。

なぜなら鈍った筋肉は、自己主張しないし存在を隠そうとします。

例えば職場だったら仕事をした振りをしたり、綱引きだったら綱を引いてる振りをするのに近いように思います。ですから一目見ても解らないのです。

その様な筋肉が一杯ある身体は大変です。

精密検査をしても異常がなく、ケガをした憶えもないにもかかわらず身体が痛んだり、思うように動かない。

そんな状態に陥る場合がある時は、身体を動かすための筋肉が鈍ってしまい機能が低下した情況に陥っているかもしれません。

 動いている振りをしている筋肉が多い身体は、疲れやすいでしょうね。

ブラック企業のように体裁はしっかりしているものの蓋を開けてみたら疲弊が蔓延している状態と変わりありません。

外から見たイメージでは中身はわからないものです。

知らぬ間に自分の身体自身がブラック化している事もありえるかもしれません。

外向きだけでなく、たまには内に向けてお伺いを立てることも必要だと思います。

 

 

 

 

マリンバのマレットやピアノの鍵盤ををまっすぐ真下に落とす事は結構大変

先日マリンバを最近始められて、近々発表会がある方の話を聞いて感じた事があった。

発表会前なので、先生に大きい音を出すために「マレット(スティック)を真っ直ぐ落としなさい。」と指導されたそうです。

ただ、もっと力イッパイとおまけ付きだったそうですが。(汗)

私はマリンバを触った事はありませんが、大きい音や音を響かすためには、鍵盤に対して真っ直ぐマレットを当てる事は素人でも理解できました。

それは鍵盤に対して直角に当てる事が一番自然な感じがするからです。

ただ、真っ直ぐ落とす事は、以外と難渋な作業である事はあまり知られていません。

棒を真っ直ぐ振り落とす事など誰にでもできる、たわいもない事だと思われるでしょうが、これが結構大変です。

なぜなら、棒を振り落とす前に腕を落とさなければなりませんが、腕は肩関節に接続し回転運動を行います。

肘も上腕に接続し前腕の曲げ伸ばしの回転運動と内外回転を行い、手首も主に上下の回転運動を行う関節です。

上肢の運動は、回転運動が主になるので、単純に直線的な運動がやりにくい構造なのです。

何気なく真っ直ぐ振っているつもりでも、厳密には直線運動に近い回転運動を行っている事になるのです。

まして、初心者など演奏や動作の慣れていない動きを行うときには、肩に力が入ると支点が固定され、より明確な回転運動が起こり鍵盤を擦ってしまう結果となるのでしょう。

このとき、マレットが真下に掛かる縦方向の力とは程遠い横方向への力が強くなるので、鍵盤に対する力は弱められるはずです。

このような運動構造でいくら力をイッパイ入れても、鍵盤に対する力は増えず力が横に逃げるばっかりで、鍵盤に対して力が増える事なないのではないでしょう。

この運動構造はピアノの演奏でも云えるのではないでしょうか。

自分では、鍵盤を真下に落としているつもりでも、構造上回転運動が起こり鍵盤を擦ってしまう結果となっている事がありそうです。

では、真っ直ぐマレットを落とすにはどうすれば良いのでしょう。

一番理想的な操作は、マレットを手から離す事です。

ピアノであれば指を切り離す事。。。。

必ず真下に落ちます。

しかし、現実的ではありませんので、マレットを手から離すように、またピアノの鍵盤に指を切り離したように落とす(押さえるではありません)事ができれば、自然法則に近い動きが出来ている事になるのではないでしょうか。

素直に動作すれば地球の重力に従い絶対真下に落ちるのですが、それでも、云うようにはいきません。

押さえなくては音が出ないとか、強い力=大きい音などの概念が頭の中にはびこっていると、無意識に力で操作してしまいます。

これらのような力が、回転運動のきっかけとなり、理屈では真っ直ぐ落とさなければいけないと解っていても、現実の動きは力で押さえつけてしまう動きとなる事があるでしょう。

 

自然法則により近い動きを行うためには、腕や道具が自然の摂理から反しないように邪魔の無いように身体を捌かなくてはなりません。

このとき、力の存在や力の実感は生まれないはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

肘の使い方

振り出しに戻ってから二ヶ月が過ぎた。

やはりよほど意識しないと肘がゆるい感じがして、完全に伸びているとは言えない状態が現れる。

稽古の過程は大阪から東京へ向かう道中静岡あたりで引き返し、またようやく京都に入ろうかとうい感じだろうか。

普通なら心が折れて諦めてしまいそうだが、このような振り出しに戻るシュチエーションはしょっちゅうなので、10年間が遡ってもいつもの感覚でいられるのは良いことなのか悪いことなのか。。。

しかし、今回の振り出しに戻る事で肘の有り難さが身をもって感じ取る事が出来た。

肘の存在は大変有り難いという事。

例えば、肘の関節がなければ生活は大変不便な事になり、動作は一変するでしょう。

今、目の前にあるビールグラスを取る事はできても、肘が曲がらなければ口に運ぶ事はできません。

何気なく肘を使ってはいますが、肘が機能する事で人は大変便利に動作する事が出来るのです。

ただ、この便利な事が災いとなると今回学びました。

人類は、不便を強いられた環境から改善を模索し便利な世の中を築き上げてきた歴史があります。

ですから、不便と感じると便利になるように工夫するDNAが働いてしまいます。

それで人類が進化し文明を発展させていたと言えるわけですが、今回肘を使う事(曲げる)で動作が楽にできるようになっていたのです。

便利を享受した今の世の中で失われた物事が有るように、肘を便利に利用し動作させる事で、その他の身体の機能が活性化しなくても動作できてしまう錯覚に陥いるデメリットが生まれる事が自覚できたのです。

自動車が出来て便利な世の中になった反面、歩かない習慣により足腰が弱るデメリットが生まれるように、肘を器用に使う事で体幹の動きがおろそかになった事が挙げられます。

特に上半身の体幹部を操作しなくとも、肩や肘の関節が動く事でパフォーマンスは達成されますが、体幹部は動作しません。

今はやりの体幹トレーニングを行っても、その前に手足の末端にある便利な関節が先に働いてしまうと体幹トレーニングの意味がありません。

身体は動き易いところから動く特性があります、ですから動きにくい体幹部より手足の方が先に動いてしまうのです。

今回気づいた事は、便利で使い易い物事を横において、あえて動きにくい扱いにくい物事にこだわる事でより深い所の身体を動かすことの大切さに気づく事が出来た。

基本動作を行うにあたり、肘を曲げると楽に行う事がで来るのです。

しかし、楽に行うことで本来動いて欲しい部分が動かなくてもでできてしまうトリックに陥ってしまっていた。

肘を曲げてはならないのは、本来働かなくてはならない所が働けるための方便だったのだ。

「稽古(いにしえを考える)」つくづく昔の人は偉大だと思います。