力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

開脚ストレッチで腰痛になり回復する

またやってしまいました。

元々体の固い私は就寝前に開脚ストレッチを習慣づけてきましたが、これで腰を痛める事が二度目になります。

続けていると徐々に脚の可動域が広がり、上半身が倒れてくるので、ついやりすぎてしまいます。

初めの間は脚を無理のない範囲で広げて5分ほど座るだけが、だんだん上半身の前屈を入れ出します。

もっと曲げたくなるので正面にあるベッドの縁をつかんで手でグイグイ引き出します。

その結果、朝ベッドから起き上がろうと腰に力を入れようとするとズキンと痛みが走り、そろりとしか動かせません。

腰の動ごける速度より早く動こうとするとズキン、少しでも身体を傾けると腰が体を支えようとしてズキンと痛みが発せられるのでゆっくりとそして突っ立つ状態でしか動けません。

洗顔しようと腰を曲げようとしようものならズキンと痛み、腰が抜けそうになります。

ですから、洗面台の縁を持ち腰に力を入れない様に寄りかかり、肘で体を支えながら肘から先で水をすくわないと前かがみの姿勢を維持する事は出来ませんでした。

そして、靴下が履けません。

足先を自分の方に引き寄せる事が出来ないのです。

それでも何とか手の指先に靴下を広げた状態でひっかけて足先に届きそうで届かないもどかしい思いで四苦八苦しながら、ようやく履ける有様でした。

上半身を曲げたり、脚を引き寄せたりする動作でズキンと痛みが走り、腰が抜けそうになるので、動かす事が怖くなります。

良かれと思って行ってきたストレッチが仇となって帰ってくる。やらない方がよっぽど利口なようですが、ついやりすぎてしまいました。

開脚ストレッチを行う事でなぜ腰痛になってしまったのか?

自分なりに考察してみました。

まず、曲げたり伸ばしたり動かすとズキンと痛み、振動が加わってもズキンときます。(咳やくしゃみは危ないです!)

しかし、動かずに寝ていたり、直立で突っ立っているような負荷の少ない状態では痛みは全くありません。

この事から動くと問題が起こるようです。

動きの原動力は筋肉の収縮力ですから、筋肉が何らかの影響で収縮しなくなってしまった感覚です。要するに筋肉が固まって動かない状態です。

開脚ストレッチで筋肉が収縮しなくなってしまったのか?

そういえば、開脚を軽く行っている時はほとんど力みはないのですが、開脚がエスカレートしてくると骨盤内の筋肉を強引に緊張させて上体の屈曲を行っていました。

可動域を広げようと脚や腰の筋肉を伸ばすのではなく、骨盤内の筋肉の緊張により筋肉を収縮させて上体を曲げこんでいた感じです。

筋肉が収縮に順応している間は徐々に可動域が広がっていくのですが、痛みが現れた時点では動かす事が出来ません。

この状態は、筋肉の疲労状態がMAXに高まった状態です。結局は特定の筋肉に負荷をかけすぎて疲労を起こし、筋肉が動かなくなってしまった様です。

これは筋肉がストライキを起こした訳で、ストを解除するまでまたなくてはなりません。

筋肉が疲労すれば回復させなければなりません。

そのためには負荷をかけず安静にして循環を促し栄養を患部に流し修復材料を送り込むことが早期に回復できる条件です。

この回復時の待ち方が早く治るか、はたまたなかなか治らず慢性化するのか、分かれ道になると思います。

患部に負荷をかけてしまっては、回復より疲労が上回りますので回復が望めませんし、患部を動かす事により筋肉が緊張すれば血管やリンパ管などの管を圧迫し循環不全が起こります。

そうなれば治るものも治りません。

早く回復したければ、いかに負荷を患部に掛けないかが重要です。

身体にとって良かれと思い頑張ったことが仇となって帰ってくるパターンでした。

皆様、くれぐれもご注意ください。

 

 

 

膝痛の原因は関節の変形ではなく使い方にある!膝の柔軟性と衝撃吸収の重要性

慢性的な膝痛の原因が、関節が狭くなっているとか、変形しているとか医者は言うけれど、それをたどればその様になる膝の使い方が結果をもたらしたのではないでしょうか?

膝を使わなければ仕事にならないと言われるかもしれませんが、その仕事をしている人がすべて膝を痛めているとは限りません。

問題は膝の使い方が硬いということ。

出来るだけ膝は柔らかく使いたいものです。

若い頃は何も考えなくても、勝手に柔らかく使えて、どの様な動きにでも対応出来たはずです。

しかし、いつの頃からか膝周辺が強張ってきて騙し騙し使った結果、関節が炎症を起こし、水が溜まり、軟骨が擦り減り挙げ句の果てには関節が変形する始末。

誰もなりたくてなったわけではありませんが、勝手になってしまいます。

勝手に柔らかく使えていた膝がいつのまにか勝手に硬くなってしまった。

勝手とは、自分にとって都合のよいやり方。また、ぐあいのよいさま。(コトバンク)

自分に都合よく使ってきた結果痛みが現れたということは、その使い方が道理から外れていたことになります。

勝手に悪くなった膝は、自分に都合よく使っている間は勝手に良くはなりません。

しかし、道理のかなった使い方をすれば改善の余地はあるはずです。

その一つとして膝を柔らかく使うことです。

膝を柔らかく使うことで、衝撃を吸収するのです。

あなたの体重が歩く度に膝に乗り掛かります。医者は、その体重を減らすこと。

もしくは、その体重を支えられる筋力をつけることを推奨されますが、使い方に言及されることはあまり聞いたことがありません。

それは、抽象的でわかりにくいから、そこまでのアドバイスがないかもしれません。

古武術稽古においても膝を柔らかく使うと指導がありますが、明確な膝の感覚はなかなか掴めるものではありません。

ただ、ちがう言い方をすれば、「踏ん張らない」が近い様に感じます。

若い子は軽やかに歩きますが、年配者は踏ん張って重そうに歩くイメージがあります。

どうしても転倒することを避けるために、自然に足に力を入れて体を安定させようと力が入ってしまいます。

力を入れて歩くことは、安定性が高まるメリットがありますが、体が力で固まっている為一旦バランスを崩すと対応が鈍くなります。

また、この余計な力が本来の動きの邪魔になり素直な動きの足かせになったりします。

踏ん張らないで衝撃を吸収する様な膝の使い方が出来れば、道理に近くなるのではなるのでしょうか。

たとえば、キャッチボールで強い球を受ける時は、肘を突っ張って、手のひらを硬くしていては衝撃がモロに伝わり痛いので、肘の力を抜き手のひらを柔らかくして衝撃に対応するはずです。

歩く時でも、膝を柔らかく使い、地面をやさしく踏むようにすれば地面からの衝撃が体に伝わりにくくなるのではないでしょうか。

立ったり、座ったり、歩いたり、普段から考えて動く人はいません。体が勝手に動いてくれています。

慢性的に膝が痛い人は、体が勝手に動く自動運転ではなく、意識的に動く手動運転に切り替えて体を動かしてみると、自分にとって都合の良い動き方に道理から外れた状態が現れるかもしれません。

それに気づくだけでも膝の痛みは改善されるのではないでしょうか。

 

 

 

古武術は来ると思ったのに来ない時の落胆が技となる

仕事でクライアントとの時間を取り、用意して準備万端「いざ」となった矢先、相手先からのキャンセルの連絡が入った時の落胆の度合いは大きく、気分が落ちます。

先月、義理の父が法事で広島に行きたいと言い出しました。

私の妻は、体力的に無理だからやめておけと説得を続けましたが、しかし、どんどん頑固になっていく義父は聞く耳を貸しませんでした。

仕方なく妻は義父を連れて広島にいく事になりました。

さて日取りはゴールデンウィークの真っただ中、新幹線とホテルの予約が大変ですが、必死の思いで二人分押さえたようです。

妻も義父が最後の旅になるだろうと、最後の親孝行のつもりで仕事と楽しみにしていたコンサートのキャンセルをして日程調整をしていたところ・・・

先日義父が、「しんどいので広島にはいかない」と言い出しました。

それを聞いた妻は、落胆・・・ではなく、、普段からスケジュールが乱れる事を極端に嫌う妻は怒り心頭に達しました!!

当分近寄れません・・・

 

来ると思っていたのに来ない。

行こうとしていたのに行かない。

期待や希望通りにならずがっかるする「落胆」は非常にエネルギーを削がれます。

人と人が向き合い対峙する時にエネルギーのせめぎあいが起こり、パワーバランスを取り合い、お互いが有利不利に均衡を取り合います。

近代武道やスポーツは、このパワーバランスを有利に立ち回るために正(+)のエネルギーを重要視します。

柔道であれば相手より強い力で投げる、空手であれば強い突きで相手に力を浸透させる、ボクシングは強い力でダメージを与えるなど相手より強い力で均衡を崩し自らが有利な体勢を作り上げます。

古武術は正(+)のエネルギーというよりも負(-)のエネルギーを重要視するのですが、先ほどの「落胆」のエネルギーと似ていると思ったのです。

落胆とは広辞苑に「失望してがっかりすること、力を落とすこと」とありました。

力を落とすことは、胆を落とす事を意味します。

胆とは、体の中で勇気や度胸の生じるものと思われているところ。きもったま、とあり落胆はこの「きもったま」が削がれる状態に陥りエネルギーが弱くなっている状態。

パワーが低下するではなく気持ちが萎える状態です。

この状態は、空手やボクシングのフェイントではなくやる気が失せてしまい戦意喪失状態です。

古武術は、相手が戦意喪失状態になるように振る舞います。そのためには、相手に力を伝えない事が必須条件となります。

力が相手に伝わってしまうとその力を手掛かりに相手は反応・反撃を起こします。

と言って引いたり、逃げてしまっては隙が生じて自らが攻撃の対象となりますので、体勢は攻撃体勢を取り、相手の攻撃を迎え撃つ体勢は必要です。

結果、力が伝わらない様に攻撃する。これが負(-)のエネルギーというのでしょうか。

現代スポーツでは意味不明でしょう。

現代スポーツでも日常動作でも経験を通して動きと力の関係を学習しています。

大柄のボクサーがあの速さでパンチを出したらこれぐらいの衝撃が来るだろう。とか見るからに重そうな荷物は腰を落として持たないと腰を痛めるだろう。など経験的に将来の状況を予想して体の態勢を整えて対応するでしょう。

古武術はその予想をことごとく裏切る動きを心がけます。

来ると思って来ないではなく、来ると思って来た、あれ!来てない!!いや来ている!!!そんな混乱状態に陥ったら戦意などどこかに行ってしまいます。

ヴァイオリニスト五嶋龍氏の腰の落としが武術的

youtube.com

五嶋龍氏2023年のコンサート予定を調べていたら全然出てこない。

検索で調べた範囲だと音楽活動を停止して空手道場を始めた様に伺えます。

定かではありませんが、そうであれば当分ライブで演奏を聴く事が出来ないとなると残念です。2020年に行っておけばよかった。

しかし、五嶋龍氏の空手道場ってなんて魅力的なスペースなんでしょう!

通えるものなら通ってみたい。

大好きなアーティストの一人である氏の魅力はヴァイオリンを構える立ち姿です。

残念ながら音楽的な事は全くわかりませんが、あの立ち姿から繰り出される音色は素晴らしいに違いないと思うのです。

音楽を見て楽しむ私のスタイルにぴったりなアーティストですね。

あの立ち姿、構えは演奏を奏でる前に響くに違いない状況がすでに出来上がっています。演奏する前からすで安定感、安心感を感じさせる雰囲気を醸し出している状況は、戦う前に有利な状況を作り出す武術的戦略と同じです。

こんなところに空手の技が活かされていると思います。

いつも思う事は、演奏家こそ武術を学ばれることをお勧めしたい。

演奏家の身体は音を奏でる一部分だから。

身体を使うにあたり現代運動学は筋肉を収縮させて動かす事が常識ですが、筋肉を弛緩させて使う古武術独特の身体の使い方は演奏家を含む音楽家には親和性が高いと思われ、身体を固めてしまえば身体が響かなくなると思います。

そんな思いで五嶋龍氏の演奏動画を視聴していたら、「おっ」と思う場面がありました。

その場面は曲調が変わる一瞬の事でした。

画面に映る氏の身体が瞬間的に落ちるのです。

この時の音色が音楽的にどうだったのかはわかりませんが、あの身体が落ちている時間に音は無限大の広がりを秘めている様に見えました。

なぜなら、遮るものが何一つないから。

物理的空間に居る以上そんなことはあり得ませんが、あの一瞬ヴァイオリンを持つ手の圧力や弓の押さえつける力さえもが無くなるのです。

いくら軽く持っても、いくら軽く弓を当てても物理的な圧や抵抗は生じるはずです。

でも、あの瞬間はそれらが「0」になったのです。

ゼログラビティー

重力さえ無くなったあの時間、まるでブラックホールに引き込まれるかのごとく身体ごと吸い込まれます。

この瞬間の体の使い方は、古武術の崩しをかける動作と同じです。

画面には映ってはいませんが、この瞬間に氏の腰が落ちています。

この腰を落とす動作が一般の人には出来ません。

一般的な腰の落とし方は、膝や脚を使って腰を落とします。これは主体的に腰が動いているのではなく脚によって腰が動かされている状態です。そうすると、脚の動きの後腰が動き出すのでタイムラグが生じます。

そのタイムラグが生じる事で身体の動きが順番に動いている事が見て取れるのです。また、脚を使うと関節が動きますので関節を中心とした回転運動になり真っ直ぐ落ちる事ができません。

この二点が武術的に腰を落とすことと一般的に腰を落とす事が決定的に違います。

腰が主体的に落ちると、腰から上が一気に落ちるのでタイムラグが生じません。そうした動きは動きの順番がなくなるので画像上コマ落ちの様に見えるのです。そしてより厳密に腰が落ちると動きが消えてしまいます。

そして、落ちるとは地球に直線的に向かわねばなりません。

関節を使うと構造上必ず回転運動から始まり、いきなり下向きの方向が生まれません。なのでこの動きは落ちるとは言えません。

一般的に言うと腰を下げると言えますが、腰を落とすとは言えません。現実は落ちていませんから。

腰が落ちるとは、腰が主体となり脚からではなくいきなりだるま落としの様に「落ちる」のです。

この落ちている時間は、重力が無くなり宇宙空間に居るのと同じですので指一本でどんなに重たいものでも動かす事が可能です。

大男を投げ飛ばす技術と楽器を響かせる技術は共通しているところです。

 

 

胸が締め付けられる動悸の原因が古武術稽古だった

還暦を前に心臓がドキドキして胸が締め付けられる動悸を経験する。

初めての時は就寝時で、仰向けに寝たとたん心臓の拍動がドクンドクンと胸の真ん中で起こり胸が締め付けられた。そして心臓が締め付けられ縮んでしまった感覚になり、その余ったスペースに肺が引っ張られるような、気管が広げられたような感覚になった。普段の呼吸が出来なくなり、むせるようなせき込むような状態が続いたのである。

焦りました。

今まで血圧は正常もしくは低いぐらいで、心臓の持病もなく病気とは無縁だと思っていたのに、突然このような症状が現れると一気に不安感が溢れ出し、どうなるんだろうと怖くなったのです。

知人に言わせると「今まで何の問題もなかったのに60になったとたん色々出てくるよ」と脅されたことはあったが、この事かと思った。

その後、ちょくちょく起こるので動悸をググってみると年だから現れるというよりも、意外と20歳代や30歳代の若い世代の人たちが訴えている印象だった。

また、心臓の病気で起こるものだと思っていたが、そうではなかったので意外でした。

しかし、自分の意志とは関係なしに体がイレギュラーな動きをしコントロールが出来ない分、自分の体がどうなってしまうのか怖くなる気持ちがよくわかりました。

それが続くと心配や不安が募りメンタルにダメージが至る事も理解でき、動悸はメンタル疾患の症状において上位に現れる事も納得できます。

動悸とメンタルの関係の間には心配や不安という心境が介在し、動悸の症状のある人はメンタルに問題を抱えている場合が多いと言う事も身をもって理解する事が出来ました。

本当に自分の意思に反して体が反応を示すと、紛れもなく不安な気持ちになります。特に心臓なんかが変に主張しだした時には何よりも不安になるでしょう。

私も初めは焦り、不安や心配な気持ちになりなした。しかし、「なるほど、当然心臓がドキドキするよな」と納得出来る心当たりがあったのです。

今現在も心臓がドックンドックン脈打って、むせていますが、嬉しい気持ちでいっぱいなのです。

それは古武術稽古で腕の使い方を見直した事に端を発します。

何か手作業を行う場合、手は長く大きく使えた方が有効性が高まる事はどなたでも理解できるはずです。

ただ、腕の長さは生まれ持った長さがるので伸ばしようがありません。

なので、手先を伸ばす事は不可能ですが、反対の付け根を伸ばす事は可能です。

腕の付け根を伸ばすとは?

そもそも腕とはどこからどこまでを腕というのでしょうか?

指先から肩関節まで?指先から肩甲骨まで?指先から鎖骨まで?

いずれにしても長い距離を使えた方が有利になります。

指先から肩関節までを動かす事よりも指先から鎖骨や肩甲骨までを動かせた方が当然大きく動かす事が出来ます。

それ以上は腕の動きとは言えないのでしょうか?

もっと長く、もっと奥深く伸ばせないかと考えると、体の中心までは伸ばせるのではないか・・・

そんな思いで体の奥底から腕を動かそうと四苦八苦していると、いつの頃からか心臓の裏当りが筋肉痛の様な感覚を覚えるようになったのです。

今まで体の奥底まで動かそうとしても動いている実感がなかったのですが、最近起こる心臓の裏当りの筋肉痛の様な感じは、体の奥底が動いていると実感させ、嬉しくてついつい心臓の裏当りが筋肉痛になるように努めて腕の操作を続けていました。

その矢先動悸が起こり始め、初めは腕の操作と動悸は結びつきませんでしたが、実感としてはこの筋肉痛の様な感じは結構心臓を圧迫しているのではないかと、自己分析に至ったのです。

実際に心臓の裏には筋肉痛になるような筋肉はないのですが、明らかに心臓が締め付けられているので、鼓動が筋肉痛になるぐらい固くなっているところに伝わりやすくなったのかと推測したのです。

それが動悸の原因であれば、嬉しくてうれしくて仕方ありません。そうでなければ悲しいですが。・・・

ようやく無理やりにでもそこまで動かせるようになれたのかと思うと、感無量です。

普通の考え方であれば、動悸が気になるのであればそのような事を止めれば済むことなのですが、変わり者の私はより心臓の裏の筋肉痛を楽しみ、楽しんでいるうちに無理やりの動きが慣れてきて、無理やりではなく普通に心臓の裏を動かす事が出来れば、動悸などかわいいものです。

突然、動悸を起こす人は何かをきっかけに心臓周辺が緊張して心臓を圧迫しているのではないでしょうか。

その何かがメンタルなのかフィジカルなのかは自分で自分の体を観察してみると、気づくことがあるかもしれません。

動悸の因果関係が納得できれば、不安や心配はなくなるのではないでしょうか。