力を抜く身体目指して古武術稽古中

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そんな時力が抜けたといえよう。

懐が深いとは、柔らかく使える胸のスペースが広い状態

懐が深いとは、身体感覚を表現した言葉であることは間違いないと思います。

 

広辞苑には、①相撲で、四つに組んだ時、胸の辺りが広くて相手になかなかまわしを与えない。と書かれていて、これは関取が取組時の感覚と捉えることができます。

 

相撲で、四つに組んだ時にお互い胸(懐)を合わせ、まわしを取る形で胸から指先までの距離が長ければ長いほど(深ければ深いほど)まわしが取り易く技を掛ける可能性が高まります。

 

単純に腕が相手より長ければ有利にはなりますが、懐が深いとは腕が長いなどのリーチの問題ではなく、それ以外で有利に働ける身体の特徴です。

 

懐とは、着た着物と胸との間とありますが、相撲での取り組みは着物を着ていませんので、着物ではなくお互い合わされた相手の胸と自分の胸との空間もしくは接点が相撲においての懐と考えられます。

 

ですから、腕の長さではなく相手の胸と自分の胸までの長さ(深さ)で有利に技を掛ける事ができるのです。

 

問題は、相手の胸と自分の胸との隙間はお互い同じで、胸が密着していれば長さ(深さ)は発生しません、しかし、相撲だけにかかわらず、格闘技やスポーツにおいてもこの隙間もしくは接点を制したほうが断然相手より有利に動けるはずです。

 

目に見える表面的な動きではなく、表面には現れない胸の奥で操作される動きが詳細に働いたほうが有利に事が運び、この取り合いが勝敗を決める決め手となります。

 

お互いの胸と胸が創る空間はお互いの最前線で、この最前線でこちらの情報と相手の情報のやり取りが行われます。

 

お互いの情報の中には、相手の身体の位置関係、筋肉の緊張状態、関節の動き、そして相手に接している皮膚感覚から相手の出方を伺います。

 

この感覚は、身体感覚の中でも体性感覚と呼ばれるもので、普通は自分自身の感覚を捕らえる感覚ですが、最前線の接点を通してその感覚を広げ相手の身体の感覚を読み取っているのです。

 

懐では、この様なやり取りが行われる大変重要なスポットで、このスポットをいかに上手に使いこなすかがポイントとなります。

 

上手に懐を使うとなると、懐がより広がりを含む動きが出来ること。

 

前回にも書いたように懐を解剖学的に見ると胸部や胸郭となり、現代医学的には呼吸運動における動きぐらいしかなく、身体能力を発揮する要素はあまり注目されることはありません。

 

一見動かなさそうなところをあえて動かす。

 

そこに、現代における一般的な身体感覚では考えが及ばず、残された言葉だけが使われている今は、精神的な事柄に例えられる事は無理もありません。

 

普通に考えれば、硬い骨が何十本も組まれた鳥かごのようなフレームが普通の関節の様に閉じたり開いたり上下したりするイメージが湧いてこないことは当然です。

 

懐が深いとは、動かないとされている胸部を柔らかく使う(動かす)事で胸部を深く沈ませ、肩先から胸部中央までの距離を広げる事で四つに組んだ時、接点となる胸から指先までの距離が広がり有利な体勢を作る、この広がりを指す言葉だと思います。

 

一千年前の力士は四つに組むにあたって、この懐の深さを競い合ったのではないかと思うと、今の取り組みの様に激しい当たりやダイナミックな投げ技で観客を魅了する様なスタイルではなく、お互いが相手の手の内を読み合う様な情報戦を繰り広げていたと考えると、地味で観ていてもつまらなかったと想像してしまいます。

 

そして、そのやり取りを観ている人は、見えないやり取りを愉しんでいたとすれば、昔の人は、なんという感性を持ち合わせていたと思うと感動すら覚えます。(勝手に)

 

 

 

 

QUEENフレディーマーキュリーの歌声は懐が深いから感動が伝わる

ABBAファンの私は、QUEENサウンドをあえて聴きいていなくても自然に脳裏に刻まれている世代です。

 

映画ボヘミアンラプソディーを観て全ての曲がフラッシュバックするのは、その時代の日本がQUEEN にドップリ浸かっていたのでしょうね。(妻曰く、スタンドから合唱が始まったシーンは日本やなと・・・発音が・・・・)

 

 

映画のラストシーンで涙する自分。

 

 

何故だか自分でも理解できませんでした。

 

何故涙したのか理由を探すのに、映画館を出て、トイレに行って、併設スーパーで妻が買い物をしている後をついて歩いていても理由がわからなかった。

 

親子の感情?  友人との隔壁? カミングアウト? エイズ?

 

ストーリーを思い返して自分なりに分析してみても分からなかったのですが、帰りの車の中でふとあの歌声が蘇った時気が付きました。

 

感動したのは、フレディーマーキュリーの歌声そのものだと気付いたのです。

 

劇中のフレディー演じるラミ・マレックは細かなところまでフレディーを再現していましたが、流石に歌声は本物であるQUEENのマスターテープを利用したとネットに書いてありました。

 

私はフレディーマーキュリーの歌声そのものに感動していたのでした。

 

それでも、Liveでもなく当時のマスターテープでそこまで心揺るがせられる事が出来るのかが不思議でなりません。

 

最近のデジタル技術が凄いのか、映画そのものの作りが素晴らしいのか。

 

結果的に私の心が揺らいだのは彼の響きが、デジタル技術を通じてアナログの私のココロを揺すった様に思います。

 

感動するにはLiveの情報量が絶対不可欠である事、それが持論でしたが今回覆されました。

 

ただし、ただのデジタル技術ではなく、やはりフレディーマーキュリーの歌声のなかに感動させる情報がデジタルデータに含まれているはずです。

 

私はその中でフレディーマーキュリーの歌声から懐の深さを感じ取りました。

 

懐が深いとは、一般的に心が広いとか包容力とか書かれていますが、そのような抽象的なことではなく身体的特徴としての許容範囲の広さだと理解しています。

 

(身体的許容範囲が広いから心の広さに繋がる事は、武道論でよくある精神論すり替えの様に思う。)

 

この身体的許容範囲の広さを創る方法として“武”の稽古が日本で発展した経緯があると理解し、現代西洋医学における身体運動学的関節可動域の拡大とは、似て非なるものなのです。

 

いくら関節可動域が広がっても、いくらリーチが有利でも懐の深い状態にはならないはずです。

 

(ふところ)とは、衣服の辺りの内側の部分である。Wikipedia

 

懐が深いとは、その胸の辺りの内側の部分が身体の奥底に潜んでいる、そんなイメージになるのでしょうか?

 

格闘技にせよ楽器演奏にせよ腕を使う時は、身体のより多くの部分を作用させた方が有利に事が運ぶわけですが、腕を使っているだけでは、腕の長さが長いであるとか、腕の力が強いであるとかの評価が優位になり、目に見えた部分だけがクローズアップされます。

 

しかし、腕を使うだけでなく懐を使う事で目には見えないところで腕を操作すれば腕の可能性が格段に広がります。

 

その懐が深ければ深いほど、目には見えない未知の力がより発揮され、よりポテンシャルが秘められていることになります。

 

古武術では腕の操作を腕で行わず、懐で行う事が常套となります。(今だ発展途上中)

 

ですから動作がわかりずらいので、相手に対して有利になるのす。

 

ただ、解剖的に懐を示すところはなく、強いて挙げれば胸部、胸郭になるのですが、その部分は呼吸運動で多少上下し広がる程度の認識が現代の常識です。

 

しかし、いにしえの武人は現代の常識を覆す胸の操作を行い、信じられない動きを創り上げ、そしてそれが日本語に残されてきたのです。

 

実態がほぼ消滅して言葉だけが残る現状では、本当の意味がすり替わることも致し方ありません。

 

そんな言葉に、全く似つかわしくないフレディーマーキュリーが何故懐が深いのか?

 

それは、身体の奥底、胸の奥底を響かせて歌っているからです。

 

うわべではない深い深い、普通ではたどり着けない深い所で歌っていると、深い所で受け取る事ができるのではないでしょうか。

 

腰を入れるとは、安定しているのに動かし易い体勢である

人が普通に「立つ」場合、横から見ると腰は中央のラインからやや後方に引けている事が多く、いわゆる「ヘッピリ腰」状態になり易く、特に現代人はこの形に陥っている人が多いように思います。

腰が引けると身体に力が入りにくいことは、経験的に理解できるかと。

逆に身体に力が入り易い形が「腰を入れる」形となります。(力が入るについて後で補足します)

広辞苑には、腰を入れるについて①腰を下げて、体勢を安定させる。②本気になる、覚悟を決めてやる。と書かれています。

「腰を入れる」時は、ここ一番大事な場面で体勢を整えて状況を乗り切るための姿勢と捉えることができます。

広辞苑にあるように、体勢を安定させようとすると腰を下げると安定感が増します。

お解りのように重心が下がれば、物理的に安定します。

但し、実際には重心が下がっただけでは安定はしますが、動きにくくなるので使い物にはなりません。

安定している、なのに動き易い形。

安定と動き易いは相反する状況ですが、それを同時にできた時こそ、ここ一番大事なときに有利な体勢となるのです。

それこそが「腰を入れる」状態なのです。

始めに書いたように腰が引けた「へっぴり腰」でいくら腰をさげても、力が入りにくい形には変わりありません。

腰の入った安定した体勢は、腰の引けたへっぴり腰から腰を前方に引き出し、腰が身体の中央に収まる必要があります。

その上で腰を落としてはじめて「腰を入れる」状態といってよいのではないでしょうか。

これを読まれた皆様、いろいろな事象を乗り越える為に上記の事柄を心得て腰を入れて対処してください。・・・

と、云ってもそれだけでは絶対に腰が入る状態にはなりません。残念ながら・・・

そう簡単には腰は 絶対に 入りませんから。残念ながら・・・

相当な訓練が必要です。

訓練半ばの私の感覚では、まず腰が前方に出すことが出来ません。

お腹や恥骨を突き出すことは出来ても、それが腰を出したことにはならないのです。

安易にお腹や恥骨を出した体勢は、横から見て身体の線が一直線ではなく崩れてしまってます。

身体を崩さず一直線に腰を保つためには、腰を割る必要があります。

腰を割るとは解剖的にはありえませんが、左右の腸骨の外側を左右に引き剥がすと、仙骨あたりが前方にせり出てくるイメージです。

イメージは出来ても実際その様に腰を動かす事は非常に困難で、殿筋群とそれに相対する腸腰筋群のコントロールが難しいように思います。

次に、腰を真下に落とすことの難しさに直面します。

腰を下げるのではなく、腰を真下に落とすのです。真下とは、直線運動で腰が移動することでなければ落ちるとは言わない、その違いが難しいのです。

腰を下げようと思えば、膝を曲げれば腰は下がりますが、同時に骨盤が前方回転もしくは後方回転を起こし腰が前後に移動してしまい中心から外れてしまいます。

そこで股関節を開くと骨盤が締まり安定して腰を落とすことが出来ます。

左右の膝を大きく開き股関節を曲げることで腰は安定して落とすことが出来ますが、それでも腰が真下に落ちたとはいえないのです。

下肢の筋力でコントロールしている間は真っ直ぐ腰を落とすことが出来ないのです。

それは下肢の屈筋と伸筋とが働くと関節部で回転運動が起こり、直線で真っ直ぐ腰を落とすことが困難なのです。

ですので、下肢以外の筋力で腰を落とさなければなりません。

それは他ならない躯幹部(体幹部)の筋力しかないのです。

このように躯幹部(体幹部)の筋肉をコントロールして腰を割り腰を中心に据え、そして躯幹部で真下に腰を落とすことで目的が達成されます。

これらのことを正確に行うことは非常に大変です。残念ながら・・・

最後になぜ真っ直ぐ腰を落とす必要があるのかを書いておきます。

それは、真っ直ぐ落ちる腰の上には真っ直ぐに上半身が乗っているということになります。

上半身が真っ直ぐに乗っていれば、支える必要がありませんので筋肉を緊張させる事がなく「力の抜けた状態」になります。

上半身が傾いたり捻れたりしていること自体が、筋肉の緊張が発生していることになり、またその形を支えなければならず「力が入った状態」となります。

そして下肢の筋力も使わず腰を落としていれば、下半身も「力の抜けた状態」となり、身体全体が力の抜けた身体の動かしやすい状態となるが安定はしている体勢となるのです。

これからここ一番の大事な場面で力が入り易い形とは、力を最大限発揮出来る体勢だと思うのです。

そのためには、身体が安定していて、なおかつ出来るだけ力が入っていない、力が抜けている状態であればあるほどポテンシャルを引き出せるのではないでしょうか。

 

 

 

ピアニスト牛田智大さんのファンになったオジサン 2

昨年末初めて牛田智大さんのラフマニノフピアノ協奏曲第2番を聞いてファンになって以来、今月2度目の演奏を神戸国際会館ホールで聴く機会を得ました。

今回はラフマニノフピアノ協奏曲第3番です。

この曲は、ほとんど聴き覚えが無く最後の盛り上がりだけかろうじて印象にある程度ですので、楽しめるかどうか少々不安でしたが、前回の第2番の印象が今でも強く残り期待十分。

そして、彼の身体操作から新たな武術の気付きが生まれるか大変楽しみです。

特に前回では身体の繋がりが実体する線を創りだすのではなく、その線が出来るであろうスペースにわだかまりを作らない事は大きな収穫となりました。

さて、こんな期待を持ちながらホワイエに入ると、いきなりスーツを着たおじさんが一列に並んでヘンな雰囲気でした。パンフを見ると銀行の協賛ということで行員さんが招待客を迎えていたのです。

・・・ということは、牛田君のファン以外にもファンではないけど招待されて来た人が相当数いた感じです。

ラフマニノフピアノ協奏曲第3番って第2番と違って私みたいなシロートには良さがわかりづらい通好みの曲だと思っていたら、やはり、唯一聞き覚えのある最後の盛り上がりになって、前列の女性がLINEを始めだしたので一気に気持ちが萎えてしまいました。

 

やはり第3番は第2番より難曲らしく、牛田君も苦戦していたのでしょうか?

残念ながら私は、前回のように響きが感じられませんでした。

 

苦戦の姿は、肩に現れている様な気がします。

 

前回気付いた指先から躯幹(体幹)に連なるルートに、わだかまりが無ければ力がスムーズに伝わり、音であれば反響するスペースが生まれ、武術であれば手ごたえが無くなる状況が出来るのだが、今回の彼の肩はわだかまっていたように感じたのです。

普通だと「肩に力が入る」となるのですが、彼らレベルと一般的な力の入れようは格段の差があると思いますが、彼らのレベルでも一旦わだかまりが出来ると力は途絶え、技は消えてしまう、そんな気がしました。

では、わだかまりとは何なのか?「肩に力が入る」どのような状況なのか?

蟠り(わだかまり)とは、すらすらと運ばず、つっかえていること。

肩の状況でいうと、躯幹(体幹)で作られた動きが肩を通過して腕や手指に伝わる時に肩の辺りで何らかの障害もしくは抵抗が生じ力が途絶えてしまう状態が起こると、力は伝わらず、つっかえたところから又新たな力を出力し腕から手指に動きを伝える。

この力は、躯幹(体幹)からの力が一旦消滅して、又新たに肩から力を出力しているので躯幹(体幹)部の力は全く影響なく、肩から先の腕力となるため、躯幹となる「身体」に響かない。

躯幹(体幹)が動いて初めて周囲の「身体」に影響を与えることができるはずです。

 

ではなぜ肩でつっかえて蟠ってしまうのか、

それは、肩周辺の筋肉は感情など細やかな身体や気持ちの変化に対して非常に敏感で、緊張し易い性質であり、身体の状態や感情のあり方を端的に表してくれ、これらの筋肉が過剰に緊張することで「実」となり、これがつっかえる要素となりえます。

例えば、後姿でも肩の表情でその人が喜んでいるのか、愁いでいるのか読み取れることがあります。

特に、ストレスや緊張した場面では肩が上がり、その人の心境が垣間見ることが出来ます。

肩に力が入るとき。肩の外側を覆う三角筋や背部の僧帽筋や肩甲骨周辺の筋等が過剰に緊張すると、上腕骨が上方に引き上げられ肩上部のスペースが狭くなります。

この肩の位置が力を途絶えさせる致命的な実体のある「実」の状態といえ、前回に書いたように力を伝えるラインは、「虚」の状態である時、実体はないが確かに存在する状況が生まれ、実体の実との差が明確になる程、虚のラインは力強い力の働きを表してくれます。

この力強い虚のラインは、何も力を入れない時が一番虚であり力が発揮されるポテンシャルを秘め、その形のまま肩の関節位置を変えないで腕を動かすことが出来ればベストです。

しかし、腕を使うとすると、肩関節が力の強い(外側・上方)筋肉に引っ張られて関節の位置が変わってしまいます。

一般的に腕を使う場合、ほぼ前方もしくは側方に動かすことが多いですが、その時に必ずといって良いほど肩の上(外側)にある三角筋等が先ず働いて腕を動かし始めますが、その瞬間に肩関節中の上腕骨頭は肩甲骨(肩)に対して引きあがってしまい位置関係が変わってしまいます。

関節の位置関係を変えずに腕を動かすとすれば、腕を下げる筋肉(広背筋)を同時に作用させ上腕骨頭を下方に引き下げることで関節位置をキープすることが出来るのです。

感覚的には、腕を上げる時肩関節が沈むぐらで丁度良いぐらいです。

普通にバンザイをすると必ず肩は上がりますが、武術的には肩は下がります。

このように躯幹(体幹)の力を発揮させ、ポテンシャルを引き出すためには、肩が上がらないように肩を操作しなければなりません。

・・・といろいろ書きましたが、子供がゲームをしていて、そのゲーム機を取り上げようとし、子供がその手を不意に払った時、手だけでなく身体ごと崩れそうになる事がありますが、このとき子供は無意識に肩周辺の筋肉を巧みに使い、関節位置変えずに「ひょいっ」っとこなしてびっくりすることがあります。

そんなたわいも無い動作が大人になるにつれ、出来なくなったりします。

ですので、武術の稽古は子供、女性、大人と別ける必要がありません。

子供のほうがよっぽど凄い動きをすることがあります。

大人になるにつれ、固定観念が固まり体の動きもパターン化され、多様に動かなくても動けるような動き方を自然に身に着けて動きの可能性を狭めて行き、自ら動かなくても良い身体に向っていきます。

10台後半の牛田君もいろいろな試練にぶち当たって大人へと向っているでしょうが、頑張ることで失う能力があるかもしれません、今ある能力を信じてその能力を伸ばして欲しいと願っています。

 

 

 

 

手先・指先の力を抜くとパフォーマンスは高まる

先ず、パフォーマンスの高い状態とはどのような状態を指すのか?

運動器系だけで云うとより多くの筋肉が働き、それによって関節が動かされ、複雑な動作を行っている状態といえます。

その前に脳からの命令が細やかに、細部にわたり適切に送り出されなければなりません。

その結果、体の動きは軽やかにスムーズに効率の良い動きが繰り出され、いわゆる「力の抜けた」動きを作り出し、軽々とした動きとしてみることが出来ます。

逆に、パフォーマンスの低い動きとは、個人個人の動き易い筋肉を組み合わせることで、それらしい動きを作ろうとし、見た目は良く似ていても、発動される筋肉の部位や数が圧倒的に少ないため、転送速度の遅い動画のようにカクカクとしたぎこちない動きとなります。

そのぎこちなさを補う為に筋肉を緊張させ(力を入れて)少ない筋肉の出力を高め動きを作るため、より動きがぎこちなくなり、力感が高まり、力が入った状態となります。

パフォーマンスを高めるためには、先ず動く量をこなし動きに慣れる事でスムーズな動きにつながるでしょう。

しかし、それだけでは個人個人の特性である動かし易い筋肉だけが動作を作り出し動作に参加しない筋肉はお荷物になる可能性があります。

慣れた動きをいくら繰り返しても「質」は高まりません。

質を高めるには、動けていない筋肉を使い動作に参加させる事。

そのためには、出来ないことを出来ないまま繰り返すことではないかと思います。

言い換えると出来ないことを出来るように工夫してはならないという事。

工夫して出来る動作は、我流に陥り易く本質が抜け落ちる恐れがあります。

出来ない動きをひたすら繰り返していると、同じ動きでも動きの違いに気付く瞬間が訪れます。

そして、その瞬間に気付いた時「これや!」と感動してしまいます。

 

しかし、後日実際にその動きを検証してもしっくり来ないことは多々あり、仮説が崩れる瞬間ではありますが、それを繰り返し行い実証していかなければなりません。

 

その中でも最近一つ気付いたことがありました。

 

手先、指先に力を入れて人に触れたり、物を持つと躯幹(体幹)の動きが妨げられることに気付いたのです。

躯幹部(体幹部)を動かすことがパフォーマンスを高める大きな課題であることはどの世界でも今では共通となりました。

しかし、躯幹部(体幹部)はなかなか動いてはくれません。

武術では、「テヲモッテセズ、アシヲモッテセズ」と古来より歌われておりました。

手でも脚でもないところで動作できなければならないことを古の武人は後世に忠告したと理解しています。しかし、現代人にとって手足を動かさずにどうやって体を動かすのか考えも及びません。

それがクリアできた時、少しは技と云える動きとなっているのでしょう。

今まで師から、相手や剣に触れるときは極力軽くと、赤ちゃんに触れる時のようにと散々忠告を頂いていました。

これは、相手に干渉しないように、剣の動きを最大限引き出す事と理解していましたが、その他に手先・指先に力が入ると自分自身の感覚が鈍くなり、本来の動きの邪魔になってしまうことに気付きました。

柔術の稽古において躯幹部の動きで相手を崩そうとしてもなかなか自分の躯幹がどのように動いているのか、また動いていないのかが手先・指先に力が入ると解らなくなっていたのです。

手先・指先に力を入れてしまうと体性感覚が鈍くなり、自分の身体の状況が解らなくなり適当に、闇雲に動こうとしてしまいます。

その結果、自分の動き易い動きで対応するため「質」の高上にはつながりません。

自分の体の中で、特に躯幹部(体幹部)の感覚が明確になる事で身体本体の操作が出来る様にならなければならないのです。

これは、野球やゴルフでも同じことが言えるのではないでしょうか。

バットやクラブを強く握ればよく飛ぶというものではないでしょう。

極力軽く握ることでバットやクラブの存在を感じ取り易くなり、また繊細な操作が可能となります。

力でボールを飛ばすのではなく、躯幹部のコントロールを厳密に行うことで道具をコントロールし、道具の能力を最大限発揮させる。その様な飛ばし方があるのではないでしょうか。

そのためには、極力手先・指先の力を抜くことで躯幹部の動きが明確になり、躯幹部の動きで動作できればパフォーマンスは高まると思われます。

 

 

 

 

 

力が抜けると有利になる古武術

力で身体を動かすことが当たり前の現代の思考は、力が強ければ有利になることがエスカレートし、身体を動かす為には力を使う、力を入れる事しかありえない思考回路が出来上がっています。

しかし、西洋文明が入り込む以前の日本では、現代(西洋文化)では考えられない身体活用の文化があったようです。

例えば飛脚の走り方は、現代の走り方である地面を後方に蹴りその反動で前に出る方法ではなく、体自体を前方に倒し転倒する前に脚を出す。体が倒れる方向に脚を出し続け倒れ続けることで前に進む方法では、力が加わる方向が全く逆であるように、出来るだけ力を消費しないように工夫されていると思います。

日本人は身体活用においての工夫がとても秀でている民族であり、文明開化以前の生活は、工夫を凝らした身体でほぼ人力で行っていました。

そこで効率よく身体を使い作業を行えるように身体の使い方を工夫し、無駄を省き、極力エネルギーロスの無いよう少ないエネルギーで多くの仕事をこなしてきました。

逆に西洋では、体をたくみに使うことより身体以外の道具を発展させることで生活を向上させてきた経緯があるのではないでしょうか。

これらのように日本文化には、身体の使い方から日本独特の発想があり、日本的な身体活動を行うには日本的身体動作がおのずと発達するはずです。

その文化の中で生まれた武術は、現代の身体活動とは違う感覚で動作を行っていたと推測できます。

例えば日本刀を扱うにしても、1キロ半程の重さを有する刃物を刃筋をたてて切る行為は現代的な力の感覚では扱いきれません。

一般的に重みを感じると人は同等の力を入れて支える、または扱おうとしますので重みがあればあるほど、握る力なり、振る力なりが入ってしまいます。

しかし、その力が刃筋を狂わせてしまう外力となってしまうのです。

日本刀は重さを計るように扱うものなのです。

力を入れて握ったり、持ってしまっては重さが解らなくなってしまいます。

極力力を使わず、刃物が刃物本来の仕事が出来るように導くことが刃物の扱い方です。

力を入れて切ろうとすれば、より切れなくなり、刃物の重さを感じながら進む方向に邪魔をしないように運ぶと切れた実感も無く、結果的に切れるものなのです。

日本刀を基準とした古武術は、人に対しても触れると切れる感覚で向き合ってきた歴史があります。

強い力で抑え込んでも相手が刃物で切りつけてくれば強い力は無意味となってしまいます。

それでも刃物で切られないように逃げれば良いのですが、力がたくさん入っている部分は動きにくく動作が遅れてしまいます。

これが居着く状態です。

ですからお互い刃物から攻められぬ様細心の注意を払い相手に向わねばなりません。

そして、相手に触れても自分の存在を相手に知らせてはならないのです。

どのような世界でも、情報は一番の武器となり、相手にこちらの情報を与えぬことが情報戦を有利に進める方法です。

そのためには、相手に触れても力を加えないことなのです。

相手は、力の加わる方向、量、速度などを頼りに相手の出方を計算します。

この力を減らし、情報量を少なくすることで自身の出方を見せずに戦うことが出来るのです。

問題は、力を使って体を動かすことが当たり前の現代人にとって、力を使わず身体を動かす術(すべ)を体得することが困難な時代になったことは避けられません。

そして現代の常識に真っ向から立ち向かう勇気が必要になるかもしれません。

ピアニスト牛田智大さんのファンになったオジサン

ピアノが趣味の妻に付き合い、ラフマニノフピアノ協奏曲第2番大友直人指揮牛田智大ピアノ大阪フィルの演奏を聴きに大阪シンフォニーホールへ赴きました。

私の場合、オケのチューニングでその日の満足度が決定される傾向があり、この日もすべての楽器が鳴り出した時点で涙がうるっと出てきたので、自分の中では演奏が始まる前にテンションはマックスに高まっていました。

しかし、牛田智大さんの演奏は聞いたことがなく、まったく白紙の状態です。

さっと会場が静まり大友さんが牛田さんを見つめる中、ピアノの一音が鳴ったと同時に自分の身体に響きが伝わった感じがしたのです。

年に何回か演奏会に出かけ感動した演奏は幾度もありますが、身体が響くことは余り経験したことはありませんでした。しかし、この日の牛田さんのピアノに自分の身体が反響していることが腰の辺りで感じ取る事ができたのです。

これは武術で云われる「腰を取れれる」感覚とまったく同じ感覚なので大変驚いてしまいました。

特に柔術では相手を崩す為にお互い腰を取り合います。

といっても直接手で腰を触りにいくのではありません。

いろいろな技の形はありますが、共通することは相手の腰(体の中心)に対して自分の身体の中心を分け入れる事により、相手の中心である腰がその場に居る事が出来ない状況を作ると、結果的に相手の中心がかすかにずれて、身体がその位置では維持する事が出来なくなり崩れるのです。

ですから、相手を崩すのではなく相手が崩れるのです。

そのためには、身体の中心を相手より厳密に捉えることが重要になります。

もう一つ大事なことが、それを行うにあたり絶対力を使わないことです。

”絶対”なのです。

これが難しいのですが、力を使う、もしくは力を入れてしまうと必ず相手が力を察知しその力に対して防御もしくは対処しますので相手は崩れません。

といって筋力を使わなければ身体は動きません。

表現がしにくいのですが、力を出さないように筋肉を動かすとでも云うのでしょうか。

筋肉が動いていても動いていない感覚とでも云うのでしょうか。

例えば、時速100kmで走っている車を歩道から見ていると動いていることがわかりますが、時速100kmで走っている車に同じ速度で併走すれば動いていることがわかりにくくなる感じでしょうか。

その様な感じで身体のそれぞれのパーツを同時に動かすと相手はどの様に動いているかが認識できなくなります。

これらのような条件で腰を取られると自らが崩れてしまいそして、腰が抜けたようになり、その時の感覚として見事に気持ちよいのです。

逆に力が入った動きで崩そうとすると、自らも力を入れて対応するため身体と身体がぶつかり合い力がみなぎった膠着状態となりますが、力の存在しない動きには力を入れて対応できないため自分の身体が自分の身体を支えることを止めてしまうほど力が抜けてしまいます。

 

牛田さんは武術とは無縁だと思いますが、身体の動きや使い方が共通していると思われ、その上高度な身体操作が行われている様に見えました。

たまたま最前列の左側に座ったので、彼を真後ろから背中を見ていたのですが、指と腰がリンクして動いてるように見て取れたのです。

そこで腰と指の繋がりが実体する線を作り出すのではなく、その線が出来るであろうスペースにわだかまりを作らないことだと気付かされました。

 現代的発想であれば、腰から指に繋がるラインを作りなさいと云われると、そのラインを繋げると云う実体を創造してしまいますが、いにしえの発想では繋がる線(ライン)となる所(スペース)が虚となり、なくなることで実となる身体との差が生じ、実体としては無いが確かに存在する有が生じると捉えているのではないかと考えたのです。

彼の後姿を見ていて、彼の身体の中心が中空のように真ん中が抜けてスカスカしているように見え、だからその中空の中で音が増幅されこちらの身体に伝わり反響したのかと想像していました。

また、力みの無い身体は当然細かく動くことが出来るので、動きがしなやかで柔らかくなり、彼の指先が鍵盤に吸い付くよう、また張り付くように見えたのです。

これは、石で鍵盤を叩くのとゴムで叩くのと違いのように柔らかければ柔らかいほど接地時間が長くなるので結果的に鍵盤をしっかり叩いていることになるのではないでしょうか。

音楽も武術も人(相手)に影響を及ぼす作業であることは共通であり、身体操作も共通しているに違いないと確信しました。

牛田智大さん、素晴らしい演奏を有難うございました。

宜しくお願いいたします。