力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

胸が締め付けられる動悸の原因が古武術稽古だった

還暦を前に心臓がドキドキして胸が締め付けられる動悸を経験する。

初めての時は就寝時で、仰向けに寝たとたん心臓の拍動がドクンドクンと胸の真ん中で起こり胸が締め付けられた。そして心臓が締め付けられ縮んでしまった感覚になり、その余ったスペースに肺が引っ張られるような、気管が広げられたような感覚になった。普段の呼吸が出来なくなり、むせるようなせき込むような状態が続いたのである。

焦りました。

今まで血圧は正常もしくは低いぐらいで、心臓の持病もなく病気とは無縁だと思っていたのに、突然このような症状が現れると一気に不安感が溢れ出し、どうなるんだろうと怖くなったのです。

知人に言わせると「今まで何の問題もなかったのに60になったとたん色々出てくるよ」と脅されたことはあったが、この事かと思った。

その後、ちょくちょく起こるので動悸をググってみると年だから現れるというよりも、意外と20歳代や30歳代の若い世代の人たちが訴えている印象だった。

また、心臓の病気で起こるものだと思っていたが、そうではなかったので意外でした。

しかし、自分の意志とは関係なしに体がイレギュラーな動きをしコントロールが出来ない分、自分の体がどうなってしまうのか怖くなる気持ちがよくわかりました。

それが続くと心配や不安が募りメンタルにダメージが至る事も理解でき、動悸はメンタル疾患の症状において上位に現れる事も納得できます。

動悸とメンタルの関係の間には心配や不安という心境が介在し、動悸の症状のある人はメンタルに問題を抱えている場合が多いと言う事も身をもって理解する事が出来ました。

本当に自分の意思に反して体が反応を示すと、紛れもなく不安な気持ちになります。特に心臓なんかが変に主張しだした時には何よりも不安になるでしょう。

私も初めは焦り、不安や心配な気持ちになりなした。しかし、「なるほど、当然心臓がドキドキするよな」と納得出来る心当たりがあったのです。

今現在も心臓がドックンドックン脈打って、むせていますが、嬉しい気持ちでいっぱいなのです。

それは古武術稽古で腕の使い方を見直した事に端を発します。

何か手作業を行う場合、手は長く大きく使えた方が有効性が高まる事はどなたでも理解できるはずです。

ただ、腕の長さは生まれ持った長さがるので伸ばしようがありません。

なので、手先を伸ばす事は不可能ですが、反対の付け根を伸ばす事は可能です。

腕の付け根を伸ばすとは?

そもそも腕とはどこからどこまでを腕というのでしょうか?

指先から肩関節まで?指先から肩甲骨まで?指先から鎖骨まで?

いずれにしても長い距離を使えた方が有利になります。

指先から肩関節までを動かす事よりも指先から鎖骨や肩甲骨までを動かせた方が当然大きく動かす事が出来ます。

それ以上は腕の動きとは言えないのでしょうか?

もっと長く、もっと奥深く伸ばせないかと考えると、体の中心までは伸ばせるのではないか・・・

そんな思いで体の奥底から腕を動かそうと四苦八苦していると、いつの頃からか心臓の裏当りが筋肉痛の様な感覚を覚えるようになったのです。

今まで体の奥底まで動かそうとしても動いている実感がなかったのですが、最近起こる心臓の裏当りの筋肉痛の様な感じは、体の奥底が動いていると実感させ、嬉しくてついつい心臓の裏当りが筋肉痛になるように努めて腕の操作を続けていました。

その矢先動悸が起こり始め、初めは腕の操作と動悸は結びつきませんでしたが、実感としてはこの筋肉痛の様な感じは結構心臓を圧迫しているのではないかと、自己分析に至ったのです。

実際に心臓の裏には筋肉痛になるような筋肉はないのですが、明らかに心臓が締め付けられているので、鼓動が筋肉痛になるぐらい固くなっているところに伝わりやすくなったのかと推測したのです。

それが動悸の原因であれば、嬉しくてうれしくて仕方ありません。そうでなければ悲しいですが。・・・

ようやく無理やりにでもそこまで動かせるようになれたのかと思うと、感無量です。

普通の考え方であれば、動悸が気になるのであればそのような事を止めれば済むことなのですが、変わり者の私はより心臓の裏の筋肉痛を楽しみ、楽しんでいるうちに無理やりの動きが慣れてきて、無理やりではなく普通に心臓の裏を動かす事が出来れば、動悸などかわいいものです。

突然、動悸を起こす人は何かをきっかけに心臓周辺が緊張して心臓を圧迫しているのではないでしょうか。

その何かがメンタルなのかフィジカルなのかは自分で自分の体を観察してみると、気づくことがあるかもしれません。

動悸の因果関係が納得できれば、不安や心配はなくなるのではないでしょうか。

古武術稽古で体の使い方が活かされた瞬間

いよいよ還暦を迎え初老となるのですが、その親も健在で義理の父は米寿を祝った後体調を崩し入退院を繰り返しなんとか生活しています。

腎臓疾患を患っている義父は免疫力の低下するブレドニンを多量に服用しているため感染防止のためにも長期入院加療が望ましいのですが、昨今の医療機関の逼迫に伴い退院を余儀なくされ、先日も退院となりました。

車で妻と一緒に義父を病院に迎えに行き、実家に到着したときのことです。

車を実家正面の門扉の前に停車させ、妻はすぐに門扉を開いて玄関の鍵を開けに走り、私は車の後部に周り荷物を出そうと後部ハッチを両手で持ち上げていた瞬間でした。

義父は一人で道路から25㎝ほど一段上がったエントランスに上がったものの体をうまく支えきれず、「うわっ〜」と叫びながら真後ろに倒れてしまったのです。

2mほど横にいた私はその叫び声の右方に向いた時に義父はすでに15度ほどすでに後ろ倒れの状態でした。

ハッチを開けるために両手を持ち上げていた体勢で、すでに傾いている義父の体を両手で支えに行くには、距離的にも体勢的にも無理な状況でした。が。

咄嗟に右脚の力を抜き体を右に倒しながら、左脚を右方向に差し伸ばしたのです。

その時義父の体はほぼ90度倒れていたのですが、25㎝の段差があったためそこに私の左脚が滑り込み、間一髪義父は私の左脚の上に倒れ落ちたのです。

 

25㎝の高さから後ろ倒れにアスファルト道路に倒れたら命さえも危うかっただろうに大怪我を負わずに済んで安堵したことよりも、咄嗟の体捌きに我ながらに驚いた方が感慨深かった。

今考えてもよくあの瞬間にあの様な動きが出来たものだと今でも我ながら感心してしまいます。

今改めてその時の動きを思い出してみると、右脚の抜きが咄嗟に出来たことが間に合った勝因だとつくづく思うのです。

そして、義父との距離が一歩では届かないので、その距離を埋める動きが良く出来たものだと。

一般的に2m弱右方向に左脚を出そうとした場合、右脚に力を入れて軸足にし腰を回旋させて左脚を右方向に回し、それから右脚で地面を蹴り体を右方向へ押し出すという動作の順番になるのでしょう。

これだけの手順を踏んでいたら、いくら脂の乗った一流アスリートでも間に合わないと思います。

一般的アスリートなど現代人の初動は緊張から始まりますが、古武術的動作は弛緩から始まることが圧倒的な違いがあることに再認識しました。

一般的に初動の右脚を緊張させた時点で体は反力により左方向に押し出され、その力に抗って左脚の筋力をそれ以上に出力し、腰の回転を使って体を右方向に回す動作は筋力の高出力を必要とし、最後の右脚の蹴りの動作まで目的との距離は変わらず、また回転運動が主体となるので目的まで遠回りをしていることになるのでいくら早く動いても効率的だとは思えません。

一方古武術的な体の使い方は、右脚特に右股関節周辺が弛緩することで体がいきなり右方向に倒れだし、この時点で義父との距離がいきなり縮まり始めていたのです。それも回転運動ではなく直線的に近づくので最短距離で移動していることになります。

同時に左脚が右脚に直線的に寄っていきます。古武術的にはこの体の使い方を体が閉じる、体が開くと表現しますが、この時体が右に倒れている時に左脚は体の中心に向かって閉じる動きを行っていました。そしてそのまま左脚が閉じ続けると右脚に当たってしまうので、右脚を骨盤ごと後ろに逃がしてやると、左脚は直線的に目的に到達します。

私の師は常々古武術の型は実践の雛形ではないと事あるごとに仰っています。

まさしくこの瞬間は実践の最中ですが、このような時はこのような対処の仕方をしましょうと習っても距離や体勢などのシュチュエーションは様々で機能するとは思えません。

そんな事よりも効率的に機能する体を作る事が古武術における型稽古の本意ではないかと改めて考え直す機会となりました。

音楽で例えると古武術クラシック音楽だと考えていて、作曲者の意図を忠実に表現する事は古武術における型を忠実に表現する事と同じと取られていたのです。

しかし、今回の出来事はその場その時の状況に応じたジャズセッションと同じではないかと。

古武術は、クラシックの要素を崩さずジャズセッションをするような感じでしょうか。

 

 

 

キムヨンジャさんの発声は身体のキレが素晴らしい


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82歳の母親が見ているTVの調子が悪くなったので約20年ぶりにTVを新調したのですが、1インチ1万円の時代からすると安くなり、また性能のUPに驚いてしまいました。

特にネット系の癒合は凄いですね。

早速ユーチューブの音声検索を母に教えるために、趣味のカラオケでよく歌う人を音声で入力する練習をしてみました。

何人か上がる中の一人に、キムヨンジャさんのTV動画に目が留まったのです。

思わず二度見してしまいました。

私は歌唱力の事はよくわかりませんが、体幹部の動きが素晴らしい。そして、身体の動きで発声されている様子が大変わかりやすく、音を消してもいい声が出ていると映像を見ただけでわかるくらいです。

特に身体のキレが凄いんです。

胸部の瞬発力を使って発声を飛ばすしぐさは、思わずぞくぞくしてしまいました。

根本的に一般人とは全く違う発声方法だと思われます。

 

古武術稽古においても一般的な動作ではない動きが求められ、胸部の働きは大変重要な要素ですが、なかなか思うように動いてくれない日々が続きます。

古武術の術歌に歌われるように「テヲモッテセズ、アシヲモッテセズ」は、手足を使わず体幹部を使えとする教えだと理解していますが、そうすると手も足も出せなくなってしまいます。

ですから胸部の働きにより動作を完遂しなければなりません。

今風に言えば、体幹部の大きな筋肉を鍛えて力を発揮する体幹レーニングの様ですが、胸部は全く正反対の力の使い方になります。

現代運動学やスポーツ医学などは、体幹部を鍛える事=筋トレが一般化し、筋肉を締めることで動作を行いますが、古武術での筋肉の使い方は、筋肉の緊張を緩めた時に動作できる様に神経と筋肉の疎通を組み替え作業を行います。

 

キムヨンジャさんの胸部を見ていても、筋肉を緊張させて締めている様には見えません。

十分に緊張が緩和された状態から胸部が地震の断層ずれのようにいきなり動き出す。

この緩和状態から動き出しが非常に速い。この速さがキレの元だと思われます。

まず、立位で歌う態勢になるだけで一般的には、身体に力が入り胸部が圧迫されてしまいます。

しかし、キムヨンジャさんの立ち方は、身体のいかなる影響も受けずに胸部をフリーな状態に保持されているように見えます。

一般的には、ヒトは物理的空間で立位を維持するために、必ず抗重力筋なるものが自動的に働き、自動的に緊張し身体を保持します。

ですから、重力に押しつぶされずに地球に張り付かなくて済んでいます。

地球に立つって結構な力を使っているのですが、ほとんど実感がありません。

普通は、この力が胸部を締め付ける結果となり、胸部の働きを制限しますが、彼女にはこの胸部への締め付けがない様です。

ですから、胸部が他の部分から独立しているので締め付けられることもなくフリーな状態で維持できているので、胸部の緩和状態を保持する事が出来ているのでしょう。

その究極に緩和された状態からいきなりチョットだけ筋肉がスライドすると、単位時間内のエネルギーの出力は相当なものになるのではないでしょうか。

長い時間をかけて徐々に大きな力を出力するのではなく、極短い時間でいきなり筋緊張のピークをチョットだけが、キレの本質だと考えます。

しかし、筋肉を緊張させているといきなり緊張をピークに持っていくことは難しいのです。なぜなら、筋肉が緩和しているところからスタートが重要で、筋肉が緊張していれば、一旦力を抜いてから緊張を始めるという2行程の作業が必要になり、1行程でいきなりという状態ではないからです。

そしてその1行程において筋肉を緊張させ締めるのではなく、移動させる感じ。

この感覚がつかみにくいのですが、自分では位置エネルギーが下がると同時に動くと抵抗感がない感じで動けるときがあり、そんな時に短い時間で筋肉がスーッと動く感じがあります。

筋肉が緩和した環境、極めて短い時間少しだけで、筋肉を締めずに身体を動かすこと。

現代運動学にはない発想でしょうか。

 

コロナワクチンで気づいた緊張型頭痛の原因と治し方

先日2回目のコロナワクチンを済ませました。

2回目後は副反応が強く出る事を聞いていたので一応休みの前日になるよう予約が取れたのですが、自分は若い人の様な反応は出ないだろうと高を括っていました。

午後4時に予約接種しその後仕事に戻りましたがその日は何の反応もなく、やはり自分は大丈夫だったかと安堵の気持ちと残念な気持ちが入り乱れたまま朝を迎えたのです。

その日は、午前中父の初盆でご住職に読経と説法を頂きお帰り頂いた後、早めの食事をとる頃から何やら身体が思うように動きにくい感覚が出てきました。

その時午前11時30分ごろなのでワクチン接種してから約18時間後。

どんどん身体全身の倦怠感が増し、身体が重たく感じるようになり、また周期的に「ズキーン」と頭に痛みが走ります。

休みの前日の予約でよかったと思いながら、ベッドで横になり安静にしていると段々体温が上がっていく感じがしたので計ってみると38度に。

最近発熱する事がなかったので、結構こたえた感じです。

風邪は年に1回はひいていて、若い頃は薬に頼らず熱でウィルスをやっつけるんだと頑張っていましたが、最近は発熱する前に風邪薬を服用する事で予後が早く済む事が分かったので発熱する事がなくなりました。

久しぶりに発熱し臥せりながら、身体はどうやって体温を上げているのかなどを考えていました。

体温を上げるためには、悪寒を感じ身体を震わせるという事は知識として知っていますが、38度程度ではそこまで震える事はありません。

しかし、体温を上げるためには筋肉を使う事が一番効率が良いはずです。

そこで身体は、震える(動く)までもせず、動かないけど筋肉を緊張させて筋肉を発熱させているのではないか。

例えば、空気椅子の状態だと筋肉は動いていないけど緊張はしているので体温は上がります。(筋肉への負荷の条件は違いますが)

体温を上げるためには筋肉は相当緊張しているはずです。

だから、風邪をひくと全身がヘトヘトになるのだと。

ただ、自分の意識の中では筋肉がそこまで緊張しているなどとは思っていません。

身体を動かすにじーっとした中で体温を2度上げようと思えば、筋肉を相当緊張させなければ達成できないだろうが、そのようなことを行っている自覚がない。

体温を2度上げるためにそこまで筋肉を緊張させているとは普通思いもらないでしょう。

その緊張度合いを自覚できたら、自分の身体はなんて頑張っているんだと自分の身体に対して畏敬の念を抱かずにはいられません。

それを何時間も続ければ、身体全身がヘトヘトになってもおかしくはありません。

ただ問題は身体がヘトヘトになるまで筋肉を緊張させて頑張っているのに、頑張っているプロセスは気付かず、頑張った結果のヘトヘト感だけしか感覚に残らないことが殆どです。

そして、頑張っているのは自分ではなく自分の身体だから実感が薄いのです。

言い加えると、自分という意識は意識的に運動神経を意図的に使うことが出来実感を伴いますが、自分の身体は、意識せずとも無意識的に自律神経が勝手に作動しているので自覚が薄いと考えます。

特に風邪などの対処は自分の身体が自動的に行う為、自分の身体に起こっている事を自分の事として捉えにくい。

緊張型頭痛などはいい例で自分が緊張しているとは実感なく、結果的な頭痛だけに意識が焦点を当ててしまいがちです。

頭が痛ければ頭痛薬を飲めば良いのですが、なぜ自分の身体が緊張しているのかを知れば対処の方法も変わってくるのではないでしょうか。

自分ではなく、自分の身体が緊張している実感が高まれば高まるほど緊張の原因が現れて来そうに思います。

ただ、自分の身体に実感を持つ事を普段からしていないとわからない感覚です。

では、どうすれば自分の身体に実感を持つ事ができるのか。

それは自分の身体に難しい事をさせる事でしょうか。

 

 

ヴァイオリニスト崔 文洙さんの右手が奇妙で気持ち悪い

崔 文洙さん右手が奇妙で気持ち悪いなどと申して誠に申し訳ありませんが、古流武術を稽古する者にとって気持ち悪いは褒め言葉です。

なぜなら、気持ち悪い原因が普通の動き方ではないから気持ちが悪いのです。

普通の動きは、誰でもが行う当たり前の動きと言えるので、当たり前の動き方は万人が納得する動き方であり、経験済みの動きや予想のつく動きと言えます。それらの動きはその動きから将来どの様に動きが発展していくのかが想像がついてしまいます。(経験的に)

将来の予想がつく動きほどつまらないものはありません。

普通ではない予想のつかない動きこそ、動きを受ける相手にとって驚きの大きいものになるのではないでしょうか?

そんな驚きを隠せないほどの動きは、普通ではなく特殊であり馴染みがないので気持ち悪く感じてしまいます。

 

今だ コロナが収まる兆しが見えぬこの時期にクラシックコンサートに出かける事に躊躇しましたが、妻のお気に入りピアニストが三重県の津にやって来ると言う事で1年半の沈黙を破りドライブを兼ねて県外に出ました。

私もピアニストの背中に興味があるので、座席は最前列の左側下手がお決まりとなります。さすがに音が頭の上を超えていく様子がよくわかりますが、音よりも動きに興味ある私はベストポジションです。

この日も音が頭の上を越えていくことを感じながら、ピアニストの背中を楽しんでいました。

・・・がしかし、予想もしないところが気になりだしました。

ピアニストのすぐ後ろにおられる、コンサートマスターの崔 文洙氏です。

コロナ以前年間を通して2~3回は、大阪フェスティバルホール、シンフォニーホールにて大阪フィルの演奏会を聴きに行く機会があり、崔 文洙氏がコンサートマスターを務める演奏会は幾度かありましたが、今回初めて真下の席から氏を眺めることとなったのです。

真下の席からは、巨体が大きく揺り動く右半身しか見えませんが、演奏に合わせて上下する右手の動きの中に時折脇の下から見え隠れする弓を持つ指先がなんとも奇妙に感じ始め、その手先ばかりに意識が行くようになってしまいました。

何が奇妙なのかがわからないから、気持ち悪いのです。

周りのヴァイオリニストの手先を見ても奇妙な感じはしませんでした。

芸術や武術の「術」の字に込められる意味として、人知を超えた不思議な技が「術」の本質を示していると思っています。

この人知を超えた不思議な技の一つが氏の右手先に表現されていると。

人知を超えているので理解することはできません。しかし、感じ取ることはできるのです。

そこが「術」になしえるところなのでしょう。

術を表現する者にとって凡人が理解できる事をしていても術にはならない。そして術者が行っていることは普通のことではないので普通の人には理解できないのです。

この理解出来ない事こそ魅力の本質だと思います。

演奏後の挨拶時、そんなことを思いながら氏に対して拍手をしていたら、氏は私の気持ちに気づいたようにアンコールでは、私に向かって演奏してくださいました。

そんな気遣いも魅力の一つですね。