古(いにしえ)を稽(かんがえる)事と繰り返し習う事の違いは、視点の違いではないでしょうか。
練習は、一人称で自分なりに考え、自分なりに動き、自分なりに工夫しそれらを繰り返すことで達成されます。
自分次第で結果が出るので、孤独とはいえ自分勝手に行える気ままな行為とも言え、自由な動きは制限がなく自分勝手な動きでも、作業などの目的が達成されればそれで問題はありません。
稽古は自分が行うのですが、視点が違います。
二人称とも言えますが、先人と同じように考え、動かなければならず、そこには自分の工夫が入る余地はありません。
自分の工夫が入った時点で形骸化し、いにしえの動きとは異なるものとなります。
自分が主体的に動くのですが、自由気ままに動いてはならないのです。
決められた動きに則って動くことは、自分の意思に反して動かなければならないこともあります。
ある意味稽古は、自分が思ってもいないような動きを行わなければならないことが多々有るのではないでしょうか。
自分でも思ってもいないことがすぐに出来るものでしょうか、それは無理です。
自分の思いを表現することもままならないのに、思ってもないことを表現するなんて到底無理な話です。
まして、今まで行ったことのないような動作を始めて行うときは、自由に動けるとは言い難く、自分勝手な動きは自由に動けても、決められた動きになると、とたんに動くことが出来ません。
決められた動きが難しいのは、自分勝手な動きではなく、自由に動かないように動かなければならないので、大変不自由になるからです。
稽古は、あくまでも先人の動きを真似ることであって、自分が動作しているのに自分を出してはいけないことです。
自分が主体でありながら自分を出してはならないから稽古は練習より難しいのです。
なぜなら、動きの意味を考えなければなりません、自分勝手な動きであれば自分だけが
理解していれば良いのですが、先人がなぜこのような動きを行ったのか考えた結果を表現することで先人の意図が再生されます。
そこには自分が入り込む余地がないぐらい、先人の意図で満載にしなければなりません。
稽古は自分の動作でありながら、自分ではない動きを表さなければなりません。
それができた時に技だけが残るのでしょう。