力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

力一杯頑張る体操教室と頑張らない体操教室

オリンピック金メダリスト内村航平選手がプロ転向の発表をされました。

体操といえば、オリンピック競技のような華やかで力強い技が魅力です。

体操教室も、内村二世を目指した少年少女が力一杯頑張っている大手スポーツクラブや、最近は女性だけの舶来健康体操教室も盛況のようです。

年齢層は広範囲にわたり、目的もパフォーマンスの向上や健康増進などありますが、共通していることは、筋肉を鍛えて筋力を高め力強い身体を目指しているところです。

皆さん頑張っているようですが、頑張ると必要以上に力が出てしまいます。

必要以上に力が出ると、それを制御する作業もまた必要になります。

自動車に例えるとエンジンの排気量を増やしてより早く走れるように改造し、余裕の走りを目指している感じがします。しかし反面それらを維持する為に車体の強度やブレーキの強度を高めたりエアバックやリミッターなどいろいろ付け加えなければなりません。

力が強くなればなるほど、それを制御する為に力を使わなければならない体系には、余計な贅肉が付いているようにも感じられます。

 

力の抜けた体操教室の目的は、パフォーマンスの向上や健康増進の一翼を担う事ができれば幸いですが、体力や筋力の出力を高めるのではなく、身体の協調性、体性感覚、重心や物理エネルギーなどを総動員して筋力エネルギーに頼らないで身体を動かす方法を模索しようと思います。

(一流選手も活用していると思いますが違う使い方で、筋肉であれば、筋力のテンションは一定であるにもかかわらず、筋肉の長さが変わるような筋肉の使い方を試みます。)

自動車に例えると、ガソリンエンジンに頼らず、状況や環境に応じて補助エンジンにソーラーや風力、電気、水素にバイオなどその時々の用途によって使い分けて、効率の良い走りを目指し、究極に効率が良くなれば何のエネルギーで動いているのかわからないぐらいにまで、精度を高めたいです。

そうなれば、エンジンの出力を高めなくとも十分満足のいく走りが実現されるでしょう。

精度の高い動きは、必ず無駄が最小限に削減されています。

頑張って力を出すのではなく、走る目的に合わせて最小限のスペックで対応したいのです。

少々無駄があっても、それ以上に強い力があれば何とかなるではなく、力はそこそこでも、無駄や無理のない動きを目指すことで超伝導体のようなパフォーマンスができると思います。

そんな体操教室があっても面白いのではないでしょうか。

それもblogの中に。

 

 

 

タイトルを変えてみました

小学生のころからスポーツや運動時に身体の力む感じが気になり、ずっと気持ち悪かった思いがありました。

普通に身体は動いていても身体の奥は動いていない感覚です。

後にメンタルの問題かと考えましたが深く掘り下げることもなく、身体の奥で力む感じを悶々と感じながらいろいろ模索した結果、古武術に辿り着きました。

古武術の稽古を通じて気付いたことは、自分の身体が思い通りに動けていると思っていただけで無理や無駄のある動きを非効率なままに我流で動いていた事、実際は思いとは裏腹に決められた動きになるとまったく動けないのです。

古武術の稽古は、100%「型稽古」を行い、決められた動作を取と受で示し合い、一連の攻防を執り行います。

短い型だと二動作程ですが、全く型になりません。

たかだか二動作でも、型通り動くことが出来ないので受を崩すことが出来ないのです。

似たような動きは出来ても、相手となる受が崩れなければ型通りとはいえません。

型のエッセンスは、戦国時代から実践で培われた生き残るための身体操作にあり、一見単純そうな動きでも複雑な意味を持ちます。

この動きの意味を紐解く作業が、稽古のほとんどの時間に費やされます。

そこでの気付きが、少年期から悶々とした感覚を薄皮を剥がすように変化をもたらして来ました。

その中で共通することは、「力は絶対に入れてはいけない事」です。

力を入れないで動くことが型稽古の絶対条件なのです。

一見ありえないようですが、うまくいった動きは力感が残りません。

きちんと動けた時は、力を入れて動いた実感が湧かないと思います。

そんな体の操作を自分の気付いた範囲で綴りたいと考えました。

力の抜けた自然体になるために

深夜駅から自宅までの帰り道に近道をしようとして、小さな土手越しに駐車場の敷地にジャンプしたら、飛んだ瞬間草むらに隠れていた縁石に脚が引っかかり無謀なダイブになった事があり、土手は駐車場の方が一段低くなっていて、結構な距離を飛んだようでしたが着地の際うまく柔道の受け身のように転がる事ができたので事なきを得ました。

今でも思い出すと、あの時の滞空時間は映画の一本でも見れそうなぐらいの時間があったかの感覚で、その間色々な思いがぐるぐると駆け巡ってました。

身の危険な状況下では身体は強張り、衝撃から身を守って深部へのダメージを減らしてくれます。

でも、出来れば衝撃が加わらない方がありがたいです。

その為には、身体が強張らない方が状況に適応し易く、衝撃を柔らかく衝撃を吸収する事が出来ます。

身体を強張らさないで転倒する事ができれば、身体を積極的にコントロールできていることになると思います。

反射的に力が入るし、考えただけでも力が入ってしまいますが、その神経回路から書き換える作業ができれば、力の抜けた自然体となる事ができるのかな、っと駐車場でダイブして飛んでいる時は気がつきませんでした。

今気づいたのでそのような稽古をアスファルトの駐車場ではなく、柔らかい畳の上でしてみよう。

 

 

 

 

 

 

力の抜けた、ただ身体の重みを乗せているだけの立ち方

体重をアプリで管理し始めて4年近くになります。

体重を増やさない戒めにもなり、また一定の傾向が見えてきました。

夏季体重と冬季体重がくっきり現れていて、おおよその変動は±2㎏ですが、下は夏場で上は冬場で推移しています。

たまに生活のリズムが変わると体重はドカンと上がったりすることがあります。

その時は体が重たく感じたり、胸が揺れるのが解ります。

ちなみに今日の私の体重は68㎏です。

よく思うのですが、10㎏のお米の袋約七つ分に相当するわけで、七つも一度に持つこと出来ないよな~って。

常々こんなに重いものをよく動かしていると感心します。

二階に上がる時に階段を18段上がりますが、今のところ頑張らずとも上がることができます、でも68㎏を二階まで上げていると考えたら、二階に上がるって凄いって思ってしまいます。

普通はそんなこと考えませんよね、でも立っているだけでも自分の重みを常に支えているわけで、身体は頑張ってくれています。

その体重の支え方ですが、いろいろな立ち方で支えています。

例えば、体育の時の休めの姿勢で立つとします。

右休めの時は、左脚に体重を乗せて右脚を休めます。左休めはその逆です。

左脚で体を支える右休めの姿勢は、左右均等に立つ姿勢とは重心の位置が変わり左側によります。

重心の位置が中心から1㎝でも2㎝でも変われば、68㎏の支え方も変わらなくてはなりません。

右休めなら、左の腰やお尻の外側の筋肉を緊張させながら、上半身を左に移動させる事で重心の位置が変わり、身体の支え方が変わります。

このとき左半身の筋肉は真っ直ぐ立っている時よりも過剰に緊張しなければなりません。

真っ直ぐ立っていれば、これらの緊張は必要ないのに少し身体が偏るだけで、余計な力が入ってしまいます。

そのような状態が習慣化すれば、筋肉が硬くなり痛みなどの症状が現れるかもしれませんし、パフォーマンスの低下につながるでしょう。

その様に考えると、身体の重さの支え方次第で力の使い方が変わるのですから、楽に立とうとすれば真っ直ぐ立つことが理想です。

しかし、その真っ直ぐが結構難しく、力ずくで真っ直ぐにしようとすると余計力が必要になります。

発想を変えて、真っ直ぐ立つというよりも、身体を真っ直ぐ乗せると発想しても面白いかもしれません。

支えるのではなく乗せる感覚は、力が入った身体では感じにくくまた、すぐに崩れられる状態でなければなりません。

この崩れられる状態が厄介です。なぜならこの状態は不安で怖いからです。

ヒトは経験的に転倒したり尻餅をついたりしたことを憶えていて、怪我や痛みを覚えるなど身体にダメージが及ぶことが理解できています。

まして年配者になると、転倒しないように目一杯力を入れて身体を支えようとします。

この行為は、転倒しないかもしれませんが動きにくくもなります。

動いにくくなれば、転倒の可能性も高くなるのではないでしょうか。

力を入れずに真っ直ぐ立てるようになるために、積極的に崩れる稽古が最適です。

しかしこの行為も厄介で、心底崩れられません。

心底身体を崩すには、立ち眩みの時のように一気に力が抜けた状態にならなければなりません。

たまにTVドラマで役者さんが気絶して、誰かが横で支えるシーンをみると違和感を感じます。

本来ならいきなり何十kgの身体が崩れると、なかなか支えることができず隣の人まで崩れてしまいます。

なぜなら、支えようとする時に崩れてくる力の方向に対して支えますので、一気に崩れられるとその方向が多数になり、どの方向に支えれば良いかが判らなくなり混乱したままお互いが崩れてしまいます。

しかし、身体のどこかに力が入っていたり、順番に力を抜いていったりして崩れた場合は、その動きが感じ取れますので、その動きに対して支えることが出来ます。

隣の人が支えられると云うことは、本当に崩れたとはいえません。

このように、一気に力を抜くことは結構難しいです。

意識的に崩れると、身体の力を順番に抜いて行く場合と、力を抜くのではなく力を緩めてコントロールする場合があり、一気に力が抜けると行為とは違います。

このように一気に力を抜くコントロールができれば、力の抜けた、ただ身体の重みを乗せているだけの立ち方ができるのではないでしょうか。

 

 

 

立って、歌を歌う。座って、ピアノを弾く。

最近iPad 2の動きが鈍くなってきました。

買った時はサクサク気持ちよく動いてくれたのに、反応の遅れでイラッと来ることが多くなり、いよいよ限界が近づいている感じです。

PCの動きは、基本ソフトとアプリで構成されていて二段構えの構造です。

普通に使っている時はアプリを動かしていて、基本ソフトの動きはあまり気にすることはありませんが、裏方で絶えず動いてくれています。

身体の動きに例えると、意識的に何かをしようとする動きがアプリの役割で、無意識的な生命維持活動や身体を支える動きは基本ソフトというところでしょうか。

何かをしようとする動きは、意識的に行うのでコントロールすることが可能ですが、生命維持機能は意識的にコントロールすることは無理があります。

では、無意識に身体を支える機能はどうでしょう。

意識しなくても立って作業するすることもできるし、座ることも健常であればあまりにも当たり前に行うことができます。

しかし、身体にとっては高度な作業を自動的に行った結果であって、意識に上がってこないため気にならないだけで、意識的にコントロールすることはあまりありません。

立って、歌を歌う。

座って、ピアノを弾く。

など、歌いながら立っているし、ピアノを弾きながら座っています。

歌を歌う練習やピアノを弾く稽古は意識的に行いますが、立ったり座る練習はあまりすることはありません。

気になっていても、あまりにも当たり前すぎるし、どのように練習すれば良いかもわからないので、適当になります。

しかし、PCと同じく大切な動きを担っていることには違いありません、そこを疎かにすると、砂上の楼閣になりかねません。

行う作業に意識を持つことと同時に自分の身体に意識を持つことが大切だと思います。

自分の身体の動きを自動制御にするのではなく、積極的に意識を介入してはどうでしょう。

身体の一つ一つの動きを意識化していくと莫大な情報量となりますが、普段意識しないと情報として認識できないので、何をどうすればかがわからないのです。

まずは、情報収集から始めると今まで気にならなかったことに「あれっ」って引っかかるようになります。

そのように意識に上がってこなければ、どうしようもありません。

身体のすべての情報を意識化することは不可能ですが、ほんの数パーセントでも介入しコントロールできれば、見違えるような動きとなるでしょう。

その点PCはそのような訳にはいきません、OSをバージョンアップするごとにスペックが追いつかず、いずれ買い替えしか方法はありません。

しかし身体を支えるOSは、スペックが追いつかないということはありません。

逆に空きスペースが十分あり、まだあまり使われていないと云えます。

どんどん使っていきましょう。