古武術の体の使い方がマイケルジャクソンのダンスにあった
マイケルジャクソンは1980年代のスリラーで爆発的人気となったあたりから知る事となりましたが、音楽やダンスの世界に惹かれることもなく、当時から身体の使い方、動きには興味はあったもののダンスはダンス、スポーツはスポーツ、武道は武道とジャンルを超えて俯瞰的な見方をすることはありませんでした。
しかし2009年マイケルジャクソンが亡くなり公開されたTHIS IS ITを観て彼の素晴らしさにようやく気づいた思い出がありました。
音楽はともかく映像を観た印象は、「静」だった事。
人々を虜にし熱狂させたマイケルジャクソンの映像を観て静かな印象を持った自分が不思議で、その後なぜだか考えた事がありました。
力感を感じさせない彼の動きは普通の動きではない事にあります。
バックダンサーと共に同じダンスを踊る映像の中で、一人涼しく静かに踊る彼は熱く激しく踊る周りのダンサーとの対比がとても印象的でした。
力感を伴わない静かな動きは、武術の目指すところと同じです。
マイケルジャクソンと他のダンサーとの違うところは、身体の動きと身体を動かすために出力する力が一致している事にあります。
一般的な身体の動作はかなりアバウトに行われている様に思っています。
手を動かすにしても、脚を動かすにしても経験的に身につけた体性感覚を自動運転的に使う習慣があり、この動きをベースに動作しています。
この動きは歳と共に誤差が生じ、この誤差を修正するために余計な力を使うので力感が伴う様になります。
この力感は、エネルギーロスと捉えるとこの無駄なエネルギーが身体が動いている実感を生むことになります。
逆に言うと踊っている実感や躍動感は、必要以上にエネルギーを使っている事になります。
マイケルジャクソンの動きは、目的となる動きを意識下に落とし込み無駄な動きや無理な動きがないか考察し余計な動きを極限まで削除して再び無意識下に返す作業をひたすら行った様に感じます。
そして動きが静かに見えるのは、実感や躍動感を伴わないと言うこと。すなわち無駄なエネルギーを使っていない。そして動きに誤差が生じていないことで身体の動きと力の出力が一致していることになります。
まさしく古武術で目指す力を抜く身体とは、脱力することではなく身体の動きと力の出力が一致することにあります。
脱力してしまえば身体は動かすことができません。と言って力を入れ過ぎてしまい、入れ過ぎた力を力でセーブして制御する力を力で抑えつけながら行う動作は、力感が高まり「静」の対局となるアグレッシブで実感を伴い「熱」状態となります。
見た目は同じです。しかし、実質は「静」と「熱」と相対する印象を与えることになります。
運動のエネルギーが音や熱に変換される状況は往々にして過剰な場合がほとんどです。
運動が粛粛と行われている時ほど力感や実感が伴い難い状況と言えると思います。その動きは、ヒトに気付かれ難い性質の動きと言えます。
武術の目標となる動きは、相手に気付かれない様に動くことです。相手より力強い事や素早く動く事も必要かもしれませんが、相手が気付く前に動作を行う事。
ある意味正々堂々とフライングする感じでしょうか。それほど有利な事はありません。
マイケルジャクソンも動きのプロセスを消し去りどの様に動いたのかを気付かせていません。達人はプロセスを見せず結果だけをいきなり見せる身体の使い方や動きが出来るのか。。。