力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

柔術の稽古で柔(やわら)の意味を考える

柔とは①やわらかい。しなやかで弱い。②心がやさしい。おだやか。とあります。 

 

 しなやかで弱いのは困りますが、しなやかに順応でき柔らかい物腰で心やさしく穏やかな人になれればもう何も望みません。

 

柔(やわら)とはそのような人を創るための意味が含まれているのではないでしょうか。

 

その方法論として柔術といわれる技術が発展してきたと考えることができます。

 

ただ柔術は武術の一種で戦いを想定した技術に柔(やわら)は似つかわしくないような印象があります。

 

しなやかで弱いとされる柔がなぜ武術の名となったのでしょうか?

 

現代の柔といえば「柔道」となりますが、私のイメージでは、柔道にしなやかで柔らかい物腰で心やさしく穏やかではなく、質実剛健心身ともに強くたくましく強靭さを思い浮かべてしまいます。

 

いつの間にか、いつの時代か柔が柔でなくなっているような気がして、柔という言葉だけが残り、中身は全く別の何かに置き換わった競技として変化しているように思います。

 

柔を解釈するためには、いにしえの柔術を学ぶしかありません。

 

武術という戦いを想定された技術に、しなやかで弱いとか心がやさしいと意味する文字を当てる意味について実際に柔術を稽古している人間として考えて見ました。

 

最近の柔術は良くわかりませんが、私が稽古する柔術は昔ながらの稽古法として型稽古を最重視ししています。

 

型稽古は、受け手と捕り手にそれぞれの決められた手順があり、この手順どおり正しく行うことで身体が練られ、武術の”術”に導くための手段と理解しています。

 

この型稽古の稽古法の中に柔(やわら)の意味が潜んでいるはずです。

 

よく型稽古を実戦での雛型と捉えられている武術家がおられますが、実際に稽古している中で型どおりの状況が起こるとは余り思えません。

 

ですから、戦いのパターンを憶える作業ではなく、型通り身体が捌けるか、型が意味するように動くことが出来るか。その結果術にたどり着ける、そんな身体づくりの方法論として頭ではなく身体で理解するよう組み立てられた理論なのです。

 

この理論は、頭で理解するより身体で理解するために組み立てられているため、実際に身体を使って動作しない限り、見聞きしただけでは理解不能です。

 

 まして、身体を使って動作したところで意味不明な動きばかりで稽古の目的すらも良くわかりません。

 

その様なことを20年ほど繰り返していると、力の入れ方自体に違和感を感じ始めました。

 

現代の常識として身体を動かす、使うときには力を入れて動くことが当たり前です。

 

しかし、いにしえの型稽古法はどうも力を入れて行うと型通り動けないことがわかって来ました。

 

力を入れて身体を動かすと、とたんに相手の受け手にぶつかってしまい動きが止まってしまいます。

 

20年間そんなことに気付かず稽古をしていました。

 

しかし、逆にようやく力以外で身体を動かすとはどのようなことなのか理解できた時期でもあり、この力の使い方が明らかに柔(やわら)に繋がる術となるきっかけになるはずです。

 

現代での常識が覆される程の内容が柔術の中に含まれています。

 

と言ってもその昔であれば、常識であった事が今は非常識であることもしかりです。

 

例えば、昔は全ての作業が人力でしたので、出来るだけ疲れない様に身体に負担を掛けないように身体を動かしていたと推測しますが、現代は筋トレ等体に負荷を加えてその負荷に打ち克つような、積極的に負担を掛けることが常識です。

 

いつのまにか力の使い方が、力を入れないで動作を行う事から力を入れて動作を行う事に変化してきたように思い、逆転した元であるその最たる動作が柔の動きであり、その力の入れ具合が究極に力を感じさせない技術として武術に生かされたのではないかと推測します。

 

力を削ぎ落とした身体の動きは、しなやかで弱々しく優しい動きとして捉える事ができます。

 

柔の動きは力感を感じさせない動きとなるため、技を受ける側は柔の動きを認識する事が困難になり、反応する事がより難しくなる事は当然です。

 

技を掛けられていても気付かないままに技を掛けられている。そして知らぬ間に勝負がついてしまってしまいます。

 

力を削ぎ落とした動作の先に術がある。

 

柔術の稽古を通じてそれが柔の理だと確信しました。