ABBAファンの私は、QUEENのサウンドをあえて聴きいていなくても自然に脳裏に刻まれている世代です。
映画ボヘミアンラプソディーを観て全ての曲がフラッシュバックするのは、その時代の日本がQUEEN にドップリ浸かっていたのでしょうね。(妻曰く、スタンドから合唱が始まったシーンは日本やなと・・・発音が・・・・)
映画のラストシーンで涙する自分。
何故だか自分でも理解できませんでした。
何故涙したのか理由を探すのに、映画館を出て、トイレに行って、併設スーパーで妻が買い物をしている後をついて歩いていても理由がわからなかった。
親子の感情? 友人との隔壁? カミングアウト? エイズ?
ストーリーを思い返して自分なりに分析してみても分からなかったのですが、帰りの車の中でふとあの歌声が蘇った時気が付きました。
感動したのは、フレディーマーキュリーの歌声そのものだと気付いたのです。
劇中のフレディー演じるラミ・マレックは細かなところまでフレディーを再現していましたが、流石に歌声は本物であるQUEENのマスターテープを利用したとネットに書いてありました。
私はフレディーマーキュリーの歌声そのものに感動していたのでした。
それでも、Liveでもなく当時のマスターテープでそこまで心揺るがせられる事が出来るのかが不思議でなりません。
最近のデジタル技術が凄いのか、映画そのものの作りが素晴らしいのか。
結果的に私の心が揺らいだのは彼の響きが、デジタル技術を通じてアナログの私のココロを揺すった様に思います。
感動するにはLiveの情報量が絶対不可欠である事、それが持論でしたが今回覆されました。
ただし、ただのデジタル技術ではなく、やはりフレディーマーキュリーの歌声のなかに感動させる情報がデジタルデータに含まれているはずです。
私はその中でフレディーマーキュリーの歌声から懐の深さを感じ取りました。
懐が深いとは、一般的に心が広いとか包容力とか書かれていますが、そのような抽象的なことではなく身体的特徴としての許容範囲の広さだと理解しています。
(身体的許容範囲が広いから心の広さに繋がる事は、武道論でよくある精神論すり替えの様に思う。)
この身体的許容範囲の広さを創る方法として“武”の稽古が日本で発展した経緯があると理解し、現代西洋医学における身体運動学的関節可動域の拡大とは、似て非なるものなのです。
いくら関節可動域が広がっても、いくらリーチが有利でも懐の深い状態にはならないはずです。
懐(ふところ)とは、衣服の胸の辺りの内側の部分である。Wikipedia
懐が深いとは、その胸の辺りの内側の部分が身体の奥底に潜んでいる、そんなイメージになるのでしょうか?
格闘技にせよ楽器演奏にせよ腕を使う時は、身体のより多くの部分を作用させた方が有利に事が運ぶわけですが、腕を使っているだけでは、腕の長さが長いであるとか、腕の力が強いであるとかの評価が優位になり、目に見えた部分だけがクローズアップされます。
しかし、腕を使うだけでなく懐を使う事で目には見えないところで腕を操作すれば腕の可能性が格段に広がります。
その懐が深ければ深いほど、目には見えない未知の力がより発揮され、よりポテンシャルが秘められていることになります。
古武術では腕の操作を腕で行わず、懐で行う事が常套となります。(今だ発展途上中)
ですから動作がわかりずらいので、相手に対して有利になるのす。
ただ、解剖的に懐を示すところはなく、強いて挙げれば胸部、胸郭になるのですが、その部分は呼吸運動で多少上下し広がる程度の認識が現代の常識です。
しかし、いにしえの武人は現代の常識を覆す胸の操作を行い、信じられない動きを創り上げ、そしてそれが日本語に残されてきたのです。
実態がほぼ消滅して言葉だけが残る現状では、本当の意味がすり替わることも致し方ありません。
そんな言葉に、全く似つかわしくないフレディーマーキュリーが何故懐が深いのか?
それは、身体の奥底、胸の奥底を響かせて歌っているからです。
うわべではない深い深い、普通ではたどり着けない深い所で歌っていると、深い所で受け取る事ができるのではないでしょうか。