力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

古武術的に腰を低く落とすとスポーツの低い腰

先日の情熱大陸はスキージャンプの小林選手が番組内で腰を痛めて鍼やマッサージのケアをされている場面がありました。

上半身裸の場面で座られている姿を真横から映し出された映像を見たとき、腰が過剰に後弯していた事に驚いてしまいました。

腰は一般的に前弯しています。そして彼が立位の場面ではその前弯でした。

座り方によって誰でも後弯しますが、その場合胸部下部も後弯します。

しかし彼の座る姿は、胸部下部に後弯はなく腰部だけがポコッと後弯していたのです。

普段は生理的弯曲を維持していても、ひょんな拍子に不自然な状況に陥る事があるものだと思ったのです。

腰の骨、腰椎の弯曲は腸腰筋群の働きにより左右される度合いは高く、スキーのジャンプ競技はその腸腰筋の働きは非常に重要であり、意識的にトレーニングされている事でしょう。

滑出しから飛び出しの瞬間まで低い腰を維持する為に腸腰筋が目一杯働いていて、低い腰から蹴り出されれる事でよりパワーが生まれます。

スキージャンプに限らずスポーツ全般に腰を落とせと指導される事がある様ですが、この腸腰筋を働かせる方便なのでしょうか。

しかし、スキージャンプの姿勢にしてもその他スポーツで低い姿勢を見る事がありますが、腰を曲げて腰の位置が低いですが、腰が低く落ちている様には見えません。

古武術では、腰を低く落とす事が稽古の基本とされます。

腰が低い事よりも、腰が落ちている事の方が大切です。この違いを認識しないで腰が落ちていると勘違いしてしまうと腰を落としている様でも実は落ちていない事になります。腰をいくら低くしても落ちている事にはならないのです。

「落ちる」とは、恋に落ちるとか試験に落ちるとかいろいろなシュチエーションがありますが、今回は(支えを失い)重力に引かれ(まっすぐ)動く事に状況を絞って扱います。

腰を落とす場合、腰が重力に引かれまっすぐ地球に落ちなければなりません。

果たしてこの様な、単純な事ができているのでしょうか。

腰を下げる事と腰を落とす事。

普通はそれぐらいたいした違いはないとスルーしてしまう程些細な事ですが、技やまして術になり得るにはその様な些細な事柄の積み重ねが大切ではないでしょうか。

その部分をないがしろにし、目立ったところだけに重点を置いていると本質とるな事柄がスッポリと抜け落ちてしまうリスクが生じます。

その些細な違いを徹底的に突き詰めていくと動作の違いに気付いてきます。

一般的に腰を低くと言うと、脚の関節を曲げる事で姿勢を作りますが、その際非常に強い筋肉の収縮を伴います。スポーツ理論では、この収縮力を高め、そしてそれを解放した時の反発力で出力すると言う事ですが、この様な使い方は古武術的にあまり推奨されません。

それは、出遅れるからです。

武術にとって出遅れる事は致命傷です。(先に動くと不利になるのですが)

古武術の技術は、「剣」を基準として動きが組み立てられていて、強い力よりも剣が早く到達する方を優先させます。

なので強い力を出そうと反発力を溜め込んでいると動きが止まってしまい無駄な時間となってしまいます。これが居着きとされます。

出来れば動こうと思ったと同時に動きたいものですが、必ずタイムラグが生じます。古武術はこの時間を詰める稽古を行い、最終的には思いと動きが一致することを目的とし稽古しています。

そして、支えをなくして重力に引かれ真っ直ぐ動くことに関しても溜めを作らずいきなり動き出したいのです。

一般的なスポーツでの腰の落とし方は下肢の筋肉の緊張で腰を低くしますが、下肢の緊張があると動きが阻害され居着いてしまいます。

古武術的には下肢の筋群ではなく、腸腰筋群を使い腰を落としたいのです。

ましてその腸腰筋群を緊張させずに使いたい。

緊張させるだけで身体は居着き動きが遅れ、重力に対し抗い全く腰が落ちる状況になくなってしまいます。

筋肉を緊張させないで筋肉を使う難しさに直面します。

単純に力を抜くイコール脱力としてしまえば簡単ですが、それでは身体を活用する事ができません。

力を抜きつつも身体を自由時自在に操る術を身に付けたいものです。

 

古武術的に足を引き上げる筋肉を使って走る

義父が免許の自主返納をした途端、義母が骨折し年末から入院となりバタバタしていた義父は初詣もまだだったので車で送迎ついでに神社に寄りました。

参拝後気を利かせて義父をあまり歩かせない様にと先に走って車を取りに行ったのです。

走っていて気づいたのですが、以前走ったのは何時だったのかとふと考えたのですが、思い出せないほど走った記憶がありません。

走れるのか少し心配になりましたが、たまたま緩い下り坂ということもありなぜかスムーズに走っている自分に驚いてしまいました。

この日は久しぶりに粉雪もちらちらと冬らしく身体が動きにくいほど重ね着をしてなおかつ、両手をズボンのポケットに突っ込み上半身はほぼ固まったままほとんど動いていないにもかかわらず、脚は氷の上を滑る様に滑らかに運ばれていくではありませんか。

走っていて何て気持ちいいんだろうと思っていると、息も上がる様子もないので一気に駐車場まで走りきってしまいました。(大した距離ではないですが)

走り終えた後も全く息が上がっていないので不思議な気持ちでした。

程よい下り坂で走りやすかったのですが、走っていてこれは楽だと思いその勾配に合わせてほとんど脚を引き上げず固めた上体をやや前方に傾けただけで滑り落ちる感覚になれたのです。

走っている最中に両腕をポケットに突っ込み突っぱって上半身を固め動かさず、脚をほとんど上げずに走る自分の走り方を客観的にイメージすると奇妙な走り方になっているに違いないと思ったのですが、走るという感じではなく、滑り落ちる感覚だったのです。

唯一動いている下肢の動き方は、最近意識して脚を引き上げる稽古が再現されていると感じられました。

一般的に脚を引き上げる場合は、大腿の前面にある大腿四頭筋を主に緊張させますので、頑張ると太ももの前がわが張って筋肉痛になります。運動していて筋肉が張る部分はその部分を多用している事になります。

古武術の体の使い方は、四肢の運動を極力制限する事で躯幹部(体幹)の動きを引き出します。

その様なことを意識しながら脚を引き上げると一般的な脚の引き上げはつま先で地面を蹴り上げている事に気づきます。

その様な脚の引き上げ方は、下腿の腓腹筋や前脛骨筋が緊張し張りますので、その部分を使えば脚の引き上げが強くなるという発想になり下腿がパンっと張っていると脚力が付いたように感じられます。

古武術の発想からするとその様な筋肉の張りは必要なく、稽古を積めば積むほど下腿はヒョロヒョロになります。

それは出来るだけその様な筋肉を使わずに動こうとするので筋肉が痩せてしまいます。

下肢以外の筋肉で下肢を引き上げる筋肉を使うとなると大腰筋や腸骨筋などの腸腰筋群の出番です。これらの筋群も下肢を曲げ込む作用があるのでこちらをメインに使います。

体幹レーニングが流行り出して大腰筋や腸骨筋の知名度がアップしましたが、これらの筋群をメインに使う事はなかなか難儀です。

それは現代人の体を使う特徴として使い慣れた四肢の筋群が先に働き出す脳からのプログラムが既に色濃くインプットされていて、腸腰筋群がメインに動くような指令に脳が慣れていないのでインナーマッスルを使う事が難しいのではないかと考えます。

古武術的に筋トレというと、筋肉に負荷をかけて鍛える事ではなく脳から筋肉への神経伝達プログラムの変更を行う事のように思います。

日常動作における動作プログラムでトレーニングしても筋力はアップしますが「質」は変わりません。

質を変えるには根本的に動作プログラムを組み替える必要があるはずです。

古武術における稽古は、この神経伝達プログラムの変更作業と言っても過言ではありません。稽古時間の大半をこの作業で終わってしまいます。

その様な稽古を積んで来た方々は、日常動作の質が変わり見た目が明かに普通ではありません。

目標は、1日も早くその様な片鱗が醸し出せる身体になりたいものです。

最近脚を引き上げる稽古でようやく筋肉痛のエリアが大腿前部から臀部の下部に変わってきました。このエリアは腸腰筋群の停止部に当たる為ようやく躯幹部(体幹)が働き出したかなという感じです。

その筋群を使い走る事が出来たので楽に走れた様に思います。

腰を落とす

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腰を落とす


本日読売新聞編集手帳のキーワードは「尻」からの「幕尻」。奈良市出身の徳勝龍関を番付最下位の幕尻からの快進撃を讃えていました。

「尻」といえば、月に一度「師」に直接指導を受ける機会に発見がありました。

朝一番の準備体操的に手解きを受けた時です。

いつも通り、腰を落とす動作で師の動きを受けたところ案の定、腰が取られ見事に真下に落とされてしまいました。

特に急激に強く落とされたわけでもなく、逆にゆったりとフワッと浮き上がる様な感覚でしたが、腰がスッと落ち、尻が畳に着いた瞬間に“ズキッ”と痛みが走り脳天まで突き抜けた感じを受けたのです。

その後10分ほど余韻が残り、なんとなく右手で尻を押さえながら稽古をしていたところ、ふと尻ではなく肛門が痛い事に気づいたのです。

それが今回の発見です。

おわり・・・・ではなく、、、

腰が落ちた時に肛門が直接畳に直撃した事に気付いたのです。

だから痛みが身体の中を伝って脳天まで行き着いたのかと、合点がいきました。尻餅を打ったぐらいではそうはなりません。

問題は、尻を打つのと肛門を打つ違いです。

尻を打つ時は餅の様な立派な臀筋がある為それがクッションの役目を果たしてくれて衝撃を緩和してくれますが、直接肛門を打つと衝撃を緩和するものがありません。

だから痛い。

ということもありますが、真の問題は直接肛門を打つ事が不思議です。

肛門は尻の奥に隠され余り表立つ事はありません、普通肛門を打つ前に尻に当たるはずです。尻餅をつけば先ず尻の臀筋に当たり、間接的に肛門に衝撃が走るのなら誰しも納得がいきます。しかし、その時尻を打たず直接肛門にヒットしたのです。

一般の方であれば、そんな事はどちらでも良いと思われるでしょうが、私にとっては相当の衝撃的出来事(打った衝撃ではなくこの出来事がショック)だったのです。

例えば、今尻を打って下さいと言われれば尻餅を打つ事はできますが、肛門を打って下さいと言われてもなかなか出来るとは言えません。

それは肛門が躯幹(体幹)のほぼ真下にあり、尻に隠されているからです。

肛門を打つ為には、躯幹(体幹)を直下に落とし、尚且つ尻を割らなければ肛門には当たりません。

この動作を自分でやれと言われても出来ません。

先ず躯幹(体幹)を真下に落とす事が難儀です。

一般的には身体を下に落とす場合は、身体を支えている脚の力を緩める事で身体が下に下がります。この下げ方は、股関節など脚の関節部分で回転運動が起こり真下ではない方向(ほぼ後下方)へ曲線を描きながら(回り道をしながら)床方向に進み、最終的に肛門より後方の臀部で着地します。

そして腰を落とす為に脚を開いたとしても尻を割ることもなく肛門は臀部に守られたまま終わります。

腰を真下に落とすとは、躯幹(体幹)が先に動き始めてその動きの邪魔をしない様に股を割ると躯幹となる幹がいきなり直線で落ち始めます。

脚の関節を使っていないので回転運動がなく躯幹がいきなり真っ直ぐ畳に向かって落ち始めたと同時に股を広げる事で尻が開き一番下にある肛門が顔を出し、直線という最短距離で畳に当たるのです。

出来そうで出来ません。それは、一般的動作は手脚の動きを優先させ躯幹(体幹)の動きをないがしろにする傾向が強いからです。

ですから、躯幹(体幹)を動かす前に手脚が動いてしまい本来の躯幹(体幹)が真下に動く動きを阻害してしまいます。

近年体幹レーニングが流行り出して結構な時がすぎましたが、躯幹(体幹)を使うとはいにしえより連綿と続いた使い方とはまったく違う使い方と言って良いでしょう。

古武術ではテヲモッテセズ、アシヲモッテセズと戒められてきました。

そしてその躯幹(体幹)の動きが身の規矩(みのかね)の基準となり得るのです。

特に今回の腰を真下に落とす行為は、規矩準縄(きくじゅんじょう)の「縄」に当たります。縄とは、下げ振り縄の事で鉛直=重りをぶら下げた縄は必ず垂直を表します。

師の動きが素直に伝わり躯幹(体幹)を鉛直に落とす事を身をもって教わる事が出来大変ありがたい出来事だったのです。

言葉で「腰を落とす」と簡単に言いますが、現実に腰を真下に落とす事は非常に難易度の高い動作なのです。(似た様な事は誰でも出来ますが)

真下を作る事自体が技になり、それを作る為には普通に力を使っていては出来ません。

力を抜く事で動きが成立するのです。

楽器演奏と武術操法の共通点は体で覚えること

 正月になんとなくTVを観ているとピアノ経験のない漁師さんが7年かけてラ・カンパネラをフジ子・ヘミングさんの前で演奏する企画を偶然目にしました。

妻いわく、ラ・カンパネラは複雑で跳躍が多くテクニック的に難曲らしいのですが、その漁師さんは身体で指の位置を覚え込み、音楽性はともかく見事に弾き切られました。

それを観て楽譜の読めない自分もピアノを弾いてみたくなったのです。

ピアニストだけでなく弦楽器奏者や楽器演奏家の素晴らしいところは、身体が音の位置を覚えていることです。

意識せずともその音が出せる。寝ぼけていても酔っ払っていても会話しながらでも。

それは意識ではなく無意識で出来てしまう。

ヒトの神経回路はふた通りあり、意識で動く回路と無意識で動く回路。

自転車に乗れる様になるためには、まずバランスを意識してコントロールしなければなりませんが、感覚をつかめてしまうとバランスを意識せずとも自転車に乗れてしまいます。

楽器演奏も同じく神経の回路を変換して意識せずともその音を出すことができるのでしょうが、高度になればなるほどより複雑で繊細な作業が無意識的に見えない動きの中で行われているのでしょう。

簡単に言えば身体が覚える。

この身体に憶えさせ方が非常に重要だと思われます。

それを我流で覚えてしまうとそれが動きの癖になり、同じ動作の様でもそれぞれの動きによるものになれば、同じ様でも違う動きになってしまいます。

音楽の世界で身体に覚えさせ方があるのかどうかは知りませんが、身体に動きを覚えさせる理論が武術にはあります。

我流の様な癖のある身体で動きを覚えせる作業は一貫性に乏しく動きにムラができて曖昧になり、再現性が乏しく正確性が低くなります。

生き死にを前提とした武術動作は、再現性が乏しい確率の低い動きを行えば命がいくつあってもキリがありません。偶然一度できても次ぎ出来なければ命がありません。

ですから生きる確率を最大限に高めるための動きを身体に染み込ませる稽古を行います。さすがに現代に於いてその様なシリアスな場面はありえませんが。

武術とは、戦いの方法ではなく生き残るための確率を最大限高める理論だと理解しています。この理論に則った動きが「型」であり、曖昧な動きは極力排除し、理論通りに動く稽古を行います。

ただ、理論となる動きは難解でほとんど意味不明です。(生き残る秘訣がそんな簡単に理解できるはずがありません)

しかし、何十年か続けているとぼんやりと、「この動きはこういう意味なのかな」とうっすらと感じ取れることが出来てきます。

そんな中、動きが理論化されつつあると動きの基準が気になりだします。

基準が曖昧だとそこから繰り出される動きは全ていい加減になってしまいます。

その基準を先人は「身の規矩(みのかね)の大事」として後世に残されたと考えます。

動きの基準となる自分の身体がきちんと解っていなければ、どんなに頑張って動いても非効率極まりないヨ、と言われている様です。

それは、自分の体のサイズがどうのこうのというのではなく、身体の中の規矩準縄(きくじゅんじょう)を明確に認識する事だと思います。

ただ身体の中に動きの基準をイメージで設定しても意味がありません。

身の規矩は、正確な動きが作り出された結果出来上がるモノであり、また正確な基準により作り出された結果出来上がる動きの身体認識だと考えました。

ですから基準だけを作り出そうとしても無理があり、動きと動きの基準の相乗効果により作り上げられる様に思われます。

楽譜も読めない、音楽性ゼロ、まして歌えば音痴な私でも身の規矩を明確にすれば、鍵盤を正確にコントロールできる可能性が秘められている様に感じられたのでピアノを弾いてみようかな、、、と思ってみました。

でも、そんな時間があれば武術の稽古をするべきです。

 

 

 

 

常識を覆すマイケルジャクソンの凄いダンス

マイケルジャクソンのダンスが凄いところは、物理現象に挑戦しているところで、ムーンウォーク、ゼログラビティ、スピンターンなどの代表作は、物理的な力を感じさせない動きを強調させる事により普通ではない状況を作り上げ人々を脅かせたと思います。

ムーンウォークは、床からの反力があたかも無くなった様に振る舞い、床を滑る様に進むのではなくあえて後退している様に見せています。あの様な手法はマイケルジャクソンが行う以前から存在していたようですが、ムーンウォークと名付けて物理現象を意識的に消そうとした彼の動きがオリジナルとなり、そしてあの動きが彼の代名詞ともなったのではないでしょうか。

ゼログラビティは、まさしく無重力を表現しようとしたらあの形にたどり着いたのでしょう。トリックはあるものの物理的な常識を覆した形に世間は驚かされたものです。

身体の重さの中心となる重心は、必ず身体を支える両足の支持面の中に収まっていなければ必ず倒れてしまいます。物理的な事が分からなくともあれだけ倒れてしまうと立っていられない事は経験的に誰でも思えます。

誰でもが知っている常識を覆す動きは、衝撃的で印象に深く刻まれるでしょう。

マイケルジャクソンのスピンターンは、遠心力への挑戦のように見えます。

一般的に身体を回転させると力が外向きに働きますが、彼の回転運動には遠心力が感じられません。

先日TVでバレリーナの番組コマーシャルで回転場面が映し出され、一流のバレリーナでも力が外側に向かって見えましたが、彼の回転運動に関して全く外側への力は感じ取れませんでした。自分なりにマイケルジャクソンとこの一流バレリーナの違いは何かと考えたところ回転軸のありようの違いに気がついたのです。

一流バレリーナの回転軸の胸部レベルでやや歪みを感じ取る事ができ、その部分の回転軸が膨らみをを帯び回転する事で回転軸自体が外方に広がってしまいその結果、力が外側に広がるように見えたのではないかと推測したのです。それに引き換えマイケルジャクソンの回転軸は上から下まで歪む事なく真っ直ぐ身体の中心を貫き、そして歪みの無い軸が回転すれば工業用シャフトが回るように遠心力を感じる事なく、回っている感じも無く見えてしまいます。

回っているのに回っていない感じがする。この意外性が人々の印象に残る要因だと考えます。

マイケルジャクソンの頭の中は、人に感動を与えるためにはどうしたらいいか考えて考え抜いたと想像できます。(人に物事を伝えるためにはそこまでしなければならないのか)

その考えの中に意外性や常識を覆す、普通ではありえない事象を常に考えそしてそれを表現するためにはどの様にすれば実現できるのかを考え、考え抜いたのでしょう。そして実現させるにはどの様に表現できるかをストイックに行動してきたと思います。

古武術を稽古する中で彼の発想は大変参考になりました。

普通の動きを普通に行っていている間はどのように頑張っても技や術は生まれません。普通の動きをいくら速くしてもいくら力一杯強くしても普通の動きには変わりないから。

普通の動きが普通ではなくなる動きとは、動きの「質」が変わらなければならないのです。この質が変わるためには、普通の動きではなく意外な動き、常識を覆す動きがどこまで出来るかに掛かってきます。

 マイケルジャクソンの物まねは出来ますが、質を伴う真似はできません。

それは、身体の使い方、動かし方が違うから物まねは出来ても真似ることが出来ないことになります。

ヒトの身体は、およそ400近い筋肉があり260余りの関節を動かし動作を行っていると考えると動きの組み合わせは無限大に広がります。

技や術の質を高めるためには、アクロバット的な動きが出来ることではなく誰でもが出来る範囲の動きを正確に緻密に最高の動きの組み合わせを紡ぎ出す作業が必要です。

無限大に広がる動きの組み合わせを理想の動きに近づけるために、多くの動き方の中から不必要な動きを削除して、削除して、削除して・・・・どんどん削除した先に理想の動きに近づくはずです。

巷のメディアや書籍で「直ぐ出来る何々・・」「理想を直ぐつかむ方法・・」などはありえません。

技や術は作り出すもの創造するものではなく、余計なもの不必要な動きいらない物事を排除した先に埋もれている物事を掘り出す作業に感じます。

そのような作業は一朝一夕には行きません。

書籍を出版するとすれば題名は、「なかなか出来ない理想の動き・死ぬ直前に満足できる動きが出来上がるかも」

そんな本は誰も見向きはしません。自己満足の世界です。

それでも満足は出来ないのでしょう。なぜなら技術は無限だから。

だからマイケルジャクソンも死ぬ直前まで技を練り上げていたのでしょう。