カナダのピアニスト、グレン・グルードの演奏を拝見させて頂いた感想は、「好きな事だけやって生きている大賞」の優勝者に見えました。
あの独特の弾き方は、何者に媚びず、自分にも媚びず、ただひたすらに指の赴くままに、指の動きを最優先に、その他の指の運びを邪魔するもの全てを排除した姿に映ったのです。
自分の思いを指で表現する。
それだけです、他には何もありません。
氏の姿を見ていると、思いと指の間に妨げるものがほとんど存在せず、思いが指に到達した時には思いが減衰せず、超電導の様な伝え方が出来ているのでしょう。
だから氏の気持ち良さがダイレクトに指に伝わり、ピアノに伝わり、聴く人に伝わるのではないでしょか。
普通、自分がこうしたいと思っても色々なしがらみに囚われて思い通りに事が進む事は少ないですが、氏にはその様な事は一切関係のない様に見えました。
一般的に自らが、しがらみに迷い込んでいる事があります。
よく言われる固定観念などは、それに当たるのでしょう。
自分で自分の動きを抑え込み、動けない状況に身を置いて一生懸命に動こうとしてもがく時があります。
メディアでも、その一部分を切り取って一生懸命もがいている姿が人の感動を呼ぶ事がありますが、広い見方をすればもがかなくてもよい状況に身を置けばよいだけの事です。
もがかなくてもよい状況が出来れば苦労はないと言われそうです。
そうなんです。苦労の仕方が問題です。
私も含めて行動様式に一貫性がないと無駄な苦労が増えてしまいます。
人はその無駄な苦労に対処しながら、理想に向かっています。
無駄な苦労は、身体の中でも存在します。
「動かない様に動いている」それが現実だと武術を通して学びました。
ですから武術の稽古は、動くことよりも動かない事を止める作業が主になります。
若い人はそうでもありませんが、歳と共に身体の制御機能が過剰になり、どんどん動けなくなる傾向が強くなっていきます。
年々身体は動き難くなるのは、「歳のせい」ではなく自分で自分を抑え込む事が多くなるからだと思っています。
よく身体が動き難くなると、筋力が低下したからだと言われますが、私は違うと思います。
若い時は伸び伸びと動いていても、いつの間にか色々な概念や考え方や情報に翻弄し頭の中が情報で膨れ上がり、その刺激が身体に反映し身体が過剰に緊張する。
この緊張が、身体のあちらこちらに点在し、のさばります。
一般的な身体の操作は、こののさばった緊張を放置して動ける範囲で動こうとしています。
のさばった緊張は、動きの邪魔になり 動きには参加しません。
また、身体を動かすとは、筋肉を緊張させる事だと思い込みが強いと、どんどん身体が緊張して動き難くなり、またその動きにくい身体を筋肉の緊張で動かそうとすれば、より身体は動き難くなるでしょう。
まるで、ブレーキを掛けてアクセルを踏んでいる様です。
動くためにアクセルをより強く踏むのではなく、ブレーキを外す作業をすれば無駄な苦労は減ります。
グレングルード氏の姿を見ていると、人がなんと言おうが自分スタイルを貫き通す。
それは思いや信念などではなく、ただ指が動かし易いからだと思います。
きっと頭の中には、曲の事しかないのでしょう。
余計な事柄は一切なく、ただ曲への想いがなんの邪魔もなく超電導のように指に伝わる。
聴く方からすれば、電導にノイズがないのだから聴きやすいに決まっています。
そのノイズのない電導を素直に受け入れる素養も必要ですが。
キム兄さん、
グレングルードの姿勢が素晴らしいとした意図が伝わったでしょうか?
一般的にあの姿勢が素晴らしいと思う人は少ないでしょう。
こんなへそ曲がりな考え方をしている人間は、組織や世の中に受け入れてもらえるのでしょうか?