力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

ブラームスピアノソナタ1番で手首が痛む

知人の娘さんがコンクールに向けブラームスピアノソナタ1番を練習されていて、手首の小指側が痛むそうです。

曲は出足からいきなり激しく、オクターブが連続する動きに手首にストレスが生じ悲鳴をあげているようです。

本人から話を聞くと、鍵盤に対して指を並行に置くように指導されているようで、オクターブで指を目一杯広げ鍵盤に並行に置こうとすれば、体に近い位置になると当然手首が小指側に折らなければならず、大変窮屈な形になります。

その窮屈な状況が続くと手首の関節を締め付けてしまい痛みが発生するのでしょう。

妻に話すと、自分も小さい頃そのように教わったと言っていました。

でも、そのような指導は日本独特らしくヨーロッパでは指を並行に置くような指導はなく自然な位置だと聞いたことがあるそうです。

どちらが正しいのかは私にはわかりませんが、窮屈にならず痛まないように弾ければ良いのでしょうが。

ただ、弾きやすいように形を崩して弾いてしまうと響かなくなるでしょうね。

武術において術を創るためには、絶対に形を崩さないことなのです。逆にいうとその形(構え)が技や術になるということです。

ピアノにおいても同じで、そのタッチの仕方(形・構え)で響くのだと思います。

武術でもピアノでもその形(構え)が正しいのか、崩れているのかの判断が非常に難しいところでしょう。

武術の場合は、柔術や剣術は受け手が居ますのでその受け手の反応を手がかりに技術の修練を行います。

取り手と受け手が対峙してお互い相手より有利な状況を目指しながら、取り手はより厳しく構えを取り、そして受け手に割入ることで受け手が崩れる状況を作る事で技や術を練り上げていきます。

そのように相手が崩れた時自分の形(構え)が有利に働いたと言う事になります。

しかし、剣術の精髄と言われる居合術に関しては、相手が居ませんので自分で術を練り上げなければなりません。

ところで居合術というのは日本刀を鞘から抜き出す術をいうのですが、始めてから10年ほどはどこが難しいのか、何が難しいのかがわかりませんでした。

どうして剣術の精髄なのか鞘から刀を抜き出すことは、子供でも誰でも引っこ抜くことができるのに。

それからようやく鞘から刀を抜き出す難しさがわかって来ても居合術になるには時間が足りなさ過ぎるということもわかってしまったのです。

難しさの一つに評価してくれる対象が無いのです。

評価が曖昧だと出来たつもりになってしまいますよね。

ピアノも同じで評価が大変難しいと思います。

どのようにタッチしても音は鳴りますから。どのように刀を引っこ抜いても鞘から刀は出てきますから。

しかし、それでも上を目指して完成度を高めていきたいものです。

そのためには身体を巧みに動かし効率の良い理にかなった動きを見つけ出さなければいけません。

この巧みに身体を使う事が、芸術の術であり武術の術たる共通するところでしょう。

そこが居合術で刀を抜く事と一般人が刀を抜く事の違いに、そして一流ピアニストと一般ピアニストの違いであるように。

武術の稽古はほとんどが型稽古ですが、どの型も窮屈な動きが要求され、実践でそんな動きはありえないような動きも多々含まれます。

実践でありえない動きをなぜわざわざ稽古するのか?

その一つに、窮屈な動きであれば動きにくくなるので、動きやすくするためには窮屈では無い状態を作ろうとし、身体の位置関係を工夫して動きやすい位置や場所を探ろうとします。

一般的にはこのように動き易くするために形を崩して動きやすい形を作ろうとします。

目的を達成するために少々融通を効かせても良いではないか。そんな意見と同じですが術になるためには、融通を効かせた時点で型が崩れているのでそれは型から外れたものになり、術にはならなくなります。

型通り動く事が術になるわけですから、型を崩した時点で型ではなくなります。

型を崩さず、なおかつ窮屈にならずそして効率の良い動きを行う。

そんな時は当然無理がないので痛む必要もなくなります。

なんだか相反する事を行うようですが、そんな身体の使い方かできた時術になるのでしょう。

同じように鍵盤を叩いているようでも、響く弾き方とそうでない弾き方はそんなところに違いがあるのではないでしょうか。