力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

相手の力を利用する

武術や合気道で相手の力を利用すると言う表現を聞く事があります。

 

言葉のイメージから、自らは力を使わず相手の力をそのまま技に活かす方法の様に捉える事ができますが、向かってくる相手の力をそのまま返し技で返すという意味ではなく、相手の力を利用するとは、相手の力を引き出し、引き出された相手は自らの力で崩れ倒れる状況を作り出す事だと思います。

 

相手の力を引き出すとは、相手の動きをこちらがコントロールする事であり、制御された相手は自らの姿勢保持が出来ず、自らが崩れそして倒れてしまう結果になる事。

 

相手は、自分が制御されていると気付いていないので、なぜ自らが崩れるのか不思議でなりません。

 

一般的に言われている相手の力を利用するとは、相手の動きをすでに制御出来ていなければなりません。

 

ですので、制御出来ていない動きはいくら頑張っても、返し技は通用しませんし、否しても否しきれず追い詰められます。

 

いかにして相手を制御するか。

 

相手の力を利用するためには、相手を制御しなければ話になりません。

 

そこに武術の術たる難しさが潜んでいます。

 

術とは、人知を超えた技と言われる所以です。

 

古武術の中には、主に柔術、剣術、居合術が含まれ、スタイルはそれぞれありますがいずれも相手を制御する術理が含まれている事は共通します。

 

ただしこれらのスタイルの違いだけではなく、難易度にも違いがあります。

 

柔術は、相手と素手接触しているので直接接触点から相手の情報を読み取る事ができます。

 

剣術は、得物(太刀、小太刀、十手等)を通じて間接的に相手と接触する為情報の読み取りが柔術に比べ限定され、増して距離を置いての攻防はより情報は限定されます。

 

居合術に至っては、相手は仮想敵となり、相手の情報はありません。

 

それぞれの状況で、相手を制御する方法を学びとる事が求められます。

 

柔術では相手の存在が実感としてあり、剣術は距離が離れているので実感は乏しく、居合術に至っては実感どころか相手がいません。

 

相手の状況は変わりますが、共通する事は自らは存在している事。

 

相手を制御するためには、相手を操作するのではなく自らを操作するしかありません。

相手もこちらの動向で出方を伺うわけですから、自らの動きで相手の動きも変わるはずです。

 

相手の力を引き出すために、自らの動きを制御する。

 

この制御の仕方で術になるか、カロリーを消費するだけの動きにしかならないか、同じような動きでも雲泥の差となります。

 

術となる自らの動きを制御する。

 

徹底的に制御し、無駄を省いていくと動きが消えます。

 

動きが消えたから作用も消えてなくなるかといえばそうではなく、操作感が消えて作用だけが残る、それが術となるのでしょう。

 

そしてそこには力が存在していません。

 

力が存在しないとは、力を使わないという意味ではなく、力を感じさせない力の使い方であり、力を感じなければ存在感も無くなります。

 

そんな見えない、感じ取れない力の存在により相手は翻弄され、なすがままに制御されて相手が自らの力で自らが崩れる結果となる事が、あたかも相手の力を利用して技を掛けている様に見えるのでしょう。