力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

ブラック企業ならぬブラック身体

ある方の職場のお話を聞いて、思わずブラックじゃないですか?と言ってしまった。

その方も否定せず、内部でも自分の部署を言うと、少し間が開いて「・・・ご、ご、ご苦労様・・です・・」とだけ返ってくるそうです。

つい最近も部署の方が長期休養に入られたそうで、その方の仕事が丸ごと抱え込むことになったそうです。

ただでさえ一杯一杯の状態なのに、その上人の仕事を引き受けるには物理的に無理があるのは解っていてもこなさなければならない事が現実のようです。

組織を維持する為に人がばたばたと倒れていく。

その方が、野戦病院のようだといったことが印象的でした。

職場という組織のように、身体も一つの組織で構成されています。

この身体の組織も一杯一杯になればブラック化することもありえるのではないでしょうか。

例えば、身体の運動機能だけを取り上げてみると。

身体は筋肉で動かされるので、筋肉が健全に動いていれば身体は不自由なく動作することが出来ます。

しかし、一見スムーズに動いているように見えても、本当に身体が機能しているかどうかはわかりません。

身体を動かすための筋肉は約400程あり、260程の関節を動かしているそうですが、一流のパフォーマーでもすべての機能を使い切っているとは思えません。

しかし、より多くの筋肉や関節が機能していることでしょう。

一般的に見た場合、やはり子供の頃は身体も柔らかく運動が機能し易い状態でポテンシャルも高いですが、やがて年齢と共に身体も硬くなり運動機能も低下してきます。

単純に子供の頃はよく動くが、大人になると動きが鈍くなります。

まして便利な世の中に暮らす現代人は身体を動かさない(楽をする)ように工夫しますのでどんどん運動機能が低下するように思います。

そんな時、400の筋肉のうちどれ程の筋肉が機能しているのでしょうか。

病気や怪我でなくても身体を動かさなければ、筋肉は鈍ってしまい収縮する機能が衰えてしまいます。

気がつけば半数程度の筋肉しか機能していないということもありえるのではないでしょうか。

200の筋肉で260の関節を動かすようになれば、今後の年金制度のように破綻してもおかしくはありません。

潰れることはないにしても、機能不全となり思うように動作できなくなることは想像できます。

病気や怪我もなく見た目にも問題がないように見えても、中身が半分しか機能していなければ身体が動かしにくいはずです。

ただ、鈍った筋肉は病気でも怪我でもないので顕在化しにくく、自分自身でも存在を認識することは余りありません。

なぜなら鈍った筋肉は、自己主張しないし存在を隠そうとします。

例えば職場だったら仕事をした振りをしたり、綱引きだったら綱を引いてる振りをするのに近いように思います。ですから一目見ても解らないのです。

その様な筋肉が一杯ある身体は大変です。

精密検査をしても異常がなく、ケガをした憶えもないにもかかわらず身体が痛んだり、思うように動かない。

そんな状態に陥る場合がある時は、身体を動かすための筋肉が鈍ってしまい機能が低下した情況に陥っているかもしれません。

 動いている振りをしている筋肉が多い身体は、疲れやすいでしょうね。

ブラック企業のように体裁はしっかりしているものの蓋を開けてみたら疲弊が蔓延している状態と変わりありません。

外から見たイメージでは中身はわからないものです。

知らぬ間に自分の身体自身がブラック化している事もありえるかもしれません。

外向きだけでなく、たまには内に向けてお伺いを立てることも必要だと思います。

 

 

 

 

マリンバのマレットやピアノの鍵盤ををまっすぐ真下に落とす事は結構大変

先日マリンバを最近始められて、近々発表会がある方の話を聞いて感じた事があった。

発表会前なので、先生に大きい音を出すために「マレット(スティック)を真っ直ぐ落としなさい。」と指導されたそうです。

ただ、もっと力イッパイとおまけ付きだったそうですが。(汗)

私はマリンバを触った事はありませんが、大きい音や音を響かすためには、鍵盤に対して真っ直ぐマレットを当てる事は素人でも理解できました。

それは鍵盤に対して直角に当てる事が一番自然な感じがするからです。

ただ、真っ直ぐ落とす事は、以外と難渋な作業である事はあまり知られていません。

棒を真っ直ぐ振り落とす事など誰にでもできる、たわいもない事だと思われるでしょうが、これが結構大変です。

なぜなら、棒を振り落とす前に腕を落とさなければなりませんが、腕は肩関節に接続し回転運動を行います。

肘も上腕に接続し前腕の曲げ伸ばしの回転運動と内外回転を行い、手首も主に上下の回転運動を行う関節です。

上肢の運動は、回転運動が主になるので、単純に直線的な運動がやりにくい構造なのです。

何気なく真っ直ぐ振っているつもりでも、厳密には直線運動に近い回転運動を行っている事になるのです。

まして、初心者など演奏や動作の慣れていない動きを行うときには、肩に力が入ると支点が固定され、より明確な回転運動が起こり鍵盤を擦ってしまう結果となるのでしょう。

このとき、マレットが真下に掛かる縦方向の力とは程遠い横方向への力が強くなるので、鍵盤に対する力は弱められるはずです。

このような運動構造でいくら力をイッパイ入れても、鍵盤に対する力は増えず力が横に逃げるばっかりで、鍵盤に対して力が増える事なないのではないでしょう。

この運動構造はピアノの演奏でも云えるのではないでしょうか。

自分では、鍵盤を真下に落としているつもりでも、構造上回転運動が起こり鍵盤を擦ってしまう結果となっている事がありそうです。

では、真っ直ぐマレットを落とすにはどうすれば良いのでしょう。

一番理想的な操作は、マレットを手から離す事です。

ピアノであれば指を切り離す事。。。。

必ず真下に落ちます。

しかし、現実的ではありませんので、マレットを手から離すように、またピアノの鍵盤に指を切り離したように落とす(押さえるではありません)事ができれば、自然法則に近い動きが出来ている事になるのではないでしょうか。

素直に動作すれば地球の重力に従い絶対真下に落ちるのですが、それでも、云うようにはいきません。

押さえなくては音が出ないとか、強い力=大きい音などの概念が頭の中にはびこっていると、無意識に力で操作してしまいます。

これらのような力が、回転運動のきっかけとなり、理屈では真っ直ぐ落とさなければいけないと解っていても、現実の動きは力で押さえつけてしまう動きとなる事があるでしょう。

 

自然法則により近い動きを行うためには、腕や道具が自然の摂理から反しないように邪魔の無いように身体を捌かなくてはなりません。

このとき、力の存在や力の実感は生まれないはずです。

 

 

 

 

 

 

 

 

肘の使い方

振り出しに戻ってから二ヶ月が過ぎた。

やはりよほど意識しないと肘がゆるい感じがして、完全に伸びているとは言えない状態が現れる。

稽古の過程は大阪から東京へ向かう道中静岡あたりで引き返し、またようやく京都に入ろうかとうい感じだろうか。

普通なら心が折れて諦めてしまいそうだが、このような振り出しに戻るシュチエーションはしょっちゅうなので、10年間が遡ってもいつもの感覚でいられるのは良いことなのか悪いことなのか。。。

しかし、今回の振り出しに戻る事で肘の有り難さが身をもって感じ取る事が出来た。

肘の存在は大変有り難いという事。

例えば、肘の関節がなければ生活は大変不便な事になり、動作は一変するでしょう。

今、目の前にあるビールグラスを取る事はできても、肘が曲がらなければ口に運ぶ事はできません。

何気なく肘を使ってはいますが、肘が機能する事で人は大変便利に動作する事が出来るのです。

ただ、この便利な事が災いとなると今回学びました。

人類は、不便を強いられた環境から改善を模索し便利な世の中を築き上げてきた歴史があります。

ですから、不便と感じると便利になるように工夫するDNAが働いてしまいます。

それで人類が進化し文明を発展させていたと言えるわけですが、今回肘を使う事(曲げる)で動作が楽にできるようになっていたのです。

便利を享受した今の世の中で失われた物事が有るように、肘を便利に利用し動作させる事で、その他の身体の機能が活性化しなくても動作できてしまう錯覚に陥いるデメリットが生まれる事が自覚できたのです。

自動車が出来て便利な世の中になった反面、歩かない習慣により足腰が弱るデメリットが生まれるように、肘を器用に使う事で体幹の動きがおろそかになった事が挙げられます。

特に上半身の体幹部を操作しなくとも、肩や肘の関節が動く事でパフォーマンスは達成されますが、体幹部は動作しません。

今はやりの体幹トレーニングを行っても、その前に手足の末端にある便利な関節が先に働いてしまうと体幹トレーニングの意味がありません。

身体は動き易いところから動く特性があります、ですから動きにくい体幹部より手足の方が先に動いてしまうのです。

今回気づいた事は、便利で使い易い物事を横において、あえて動きにくい扱いにくい物事にこだわる事でより深い所の身体を動かすことの大切さに気づく事が出来た。

基本動作を行うにあたり、肘を曲げると楽に行う事がで来るのです。

しかし、楽に行うことで本来動いて欲しい部分が動かなくてもでできてしまうトリックに陥ってしまっていた。

肘を曲げてはならないのは、本来働かなくてはならない所が働けるための方便だったのだ。

「稽古(いにしえを考える)」つくづく昔の人は偉大だと思います。

 

基本動作振り出しに戻る

どんな分野でも基本動作というものがあります。

自分の分野での基本動作を日課にして繰り返す。

長年やっていれば、押さえるべきポイント注意するべき動きなど理解できているはずなのに、理解している事と実際の動きがあっていない事があります。

先日、基本動作を行っていると、「肘が曲がっている」と経験年数の長い方から指摘を受けました。

その場面で肘が曲がってはいけないことは、基本中の基本であり頭には強くしみこんでいるにもかかわらず、実際の肘は伸びきれていなかったのです。

自分の中では肘を伸ばしているつもりになっていたのでした。

その時も普通に見れば肘は伸びているように見えるのですが、経験年数の長い方から見れば伸び切れていないと見えたのでしょう。

改めて肘の動きを見てみると、肘は伸びてはいるのだが脇をより締めると腕が「グニュ」っと伸びる感覚があった。

肘を伸ばすとは、ここまでして始めて肘を伸ばした事になるのかと改めて反省し、このように見えないところを指摘してもらえるところが「道場」の良さだと感じました。

自分だけで繰り返し繰り返し稽古していると、徐々に動作がスムーズになっていく実感が感じられますが、この作業に落とし穴があったのです。

稽古や練習は繰り返し繰り返し動きの反覆を行うことで、動きを身体に浸み込ませる作業を行います。

この反覆動作を細かく行えば厳密な動きが可能となり、またいろいろな動きを組み合わせれば複雑な動きも可能となります。

ただし、反覆動作を繰り返すうちに自分の動き易い動きや形を自分で作ってしまうことがあります。

一般的にはこれが当たり前で、解りにくいものを解り易くしたり、やり難いことをやり易くしたりすることは日常普通に行う行為です。

例えば、数学の図形の問題で補助線を引くと理解し易かったり、体操で動きにくい動きを工夫して動き易くすることは普通です。

このように補助を使ったり、自分なりに工夫する事は目的達成の近道と考え易いのですが、そうでない場合もあるように思います。

出来なかったことが出来る様になる時に、自分なりに動き易い動きを自分なりに探し当てその動きを繰り返しにより強化する作業は、我流の動きと云えるのではないでしょうか。

基本動作を行うにしても、我流で行えば基本ではなく自分なりに動き易い動作になるので基本動作とはいえないと思います。

その場面では肘を伸ばすことが「ミソ」となるがやり難い、やり難ければやり易いように動きを変えてしまう。

反覆動作の中にこの様な作業が含まれてしまうと、動作はスムーズになり動き易くなる、そうすると自分が上達したように感じてしまう場合があるのではないでしょうか。

何十年繰り返してきた行いが崩壊する瞬間です。

改めて肘を意識して基本どおりに動いてみると動きにくく、今までにない筋肉のこわばりが現れたり動きがぎこちなくなりました。

基本を基本どおり行うことが難しいとは、この様な事なのかとようやく解った気がした。

 

 

 

柔道が「相手を崩す」であれば、柔術は「相手が崩れる 」の違いがある

古武術の中に柔術が含まれます。

柔術は日本古来の体術であり、柔術の体捌きで武器得物を操ることで各種武術が応用されいろいろな武術の基本になって来たと思われ、また現代柔道ももともと柔術から発展してきた経緯があります。

しかし、現代柔道と柔術では決定的な違いがあります。それは力の使い方であり、長い歴史の中で変化してきたと推測されます。

柔道も柔術も相手に対して技を掛ける前に必ず相手を崩さなければ技にはなりません。

技になる前のこの崩し方の違いが決定的に違います。

柔道の場合は、組み合った状態の力からより力を強める、力を入れる事で相手がその力に耐え切れずに体勢を崩してしまう状況を作り技を掛けます。

ですから、相手を崩す為に強力な力が出れば有利になるので、筋肉を鍛え筋力UPを目指します。

柔術の場合は、できるだけ相手に干渉しないように組みます。そして組んでいる状態よりさらに力を抜く事で相手を崩します。

人は力に影響される前に力の存在を感じ取る事ができ、この感じ取った情報を元に対応を行います。

相手に干渉しないという事は、相手に力を掛けない、加えないという事であり、これは相手がこちらの力を頼りにこちらの情報を読み取ろうとさせない為です。

力を手がかりにこちらの情報を与えてしまうとその情報に対して相手は対応する事ができてしまいますので自分が有利になるためには、相手にこちらの情報を与えない様にする事が重要なのです。

そして干渉のないように体を捌く事で相手を崩すのですが、この体の捌きが力が抜けた状態といえますが、ただ力を入れるに対して力を抜くというような単純な感じでは無い様に思えます。

「捌く」とは、バラバラにする事やゴタゴタした物事きちんと処理する事とすれば、身体のそれぞれのパーツが整然と並び替わる様子を伺い知ることが出来ます。

並び替えのポイントとして一気に同時に並び替えてしまう事なのです。

身体のパーツをそれぞれ別々の動きとして並び替えていると動きが相手にも認識できるので、相手を崩すどころか動きを止められてしまいますが、身体のパーツがそれぞれの動く距離や時間は、ばらばらだが一気にそれぞれが始まって同時に終われば、身体のどのパーツがどのように動いたのか、相手が混乱してしまう様な動き方をすれば、特別強い力でなくとも身体のパーツを相手に止められずに動かすことが可能です。

そして、動きを止められないままに相手が力に対して対処出来きず自らが崩れた形となります。

これらのような柔道と柔術の力の使い方の違いあるように思います。