力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

金本知憲さんの構えと侍の構えの共通点

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金本知憲さんの構えと侍の構えの共通点


写真は2007年1月の自動車の新聞広告です。

 

昨年まで阪神タイガースの監督を務めた金本知憲さんの現役時代の構えは、見ただけでいかにも打ちそうな構えだったと当時見ていました。

 

素人がそう見るのだから、対戦したピッチャーはもっと切実に見えていたのでしょう。

 

調子の良い金本さんがバッターボックスに入り構えただけで、ピッチャーはどこに投げても打たれそうな思いになったに違いありません。

 

対戦前から勝負ありです。

 

ピッチャーは金本さんの何をみてビビってしまうのか?

 

構えとなる形の精度が上がれば上がるほど、構えから繰り出される将来の可能性も高まるはずです。

 

その評価となる手がかりが美しさではないかと思います。

 

「構えの美しさ」これは一朝一夕には絶対できません。

 

物まねのプロが特徴を掴んで面白くまねることができても、本物と瓜二つの構えは似ているようだが、全く別物として捉える事になるでしょう。

 

表面的な形をまねても本質までまねられはしません。

 

それは、身体の細部に渡り細やかな命令を神経を通してスムーズに流す、これを行うためには回数を重ねることが第一条件で、細胞の隅々にまで自分の思いを行き渡らせると、何も思いのない細胞とは形や動きだけでなく、雰囲気までも違いが現れその雰囲気が構えに表れるのではないかと思います。

 

構えの美しさは、現在の科学的客観的な評価は難しいように思われ、抽象的な雰囲気や感じ方で評価せざるを得ないでしょう。

 

この雰囲気や感じ方は、それなりの素養がないと判りません。

 

野球の経験者が見る眼と野球を全く見ない眼では評価は別れ、また野球経験者の中でも深度の違いで見え方が違うはずです。

 

また、私のように野球からではなく別の観点から構えを見たときとでも評価は分かれるでしょうが、それなりに人の動きを見てきた経験から金本さんの構えは凄いと評されるでしょう。

 

美しさの対象は当然人によって違いますが、その範疇の人が高く評価した形や動きは美しい形であり、美しい動きであるといえます。

 

美しい形や動きはシンプルで判り易い、しかし誰もが出来るわけではない。

 

シンプルで判り易い形や動きは一見簡単そうに思え誰にでもできそうですが実は難しいのです。

 

それは、身体の構造上関節が260余りあり400近くの筋肉で身体を動かしているので単純な動きでも色々な関節や筋肉が関与してしまい、余計な動きが起こってしまう可能性が高くなります。

 

シンプルで限定的な動きを行うためには、多くの関節や筋肉を制御する必要が生じます。

 

実は身体を動かすことよりも動かないように制御することの方が大変な作業です。

 

一つの動きを行う為に何百もの動きを起こさない。

 

動きを意識するよりも、動かないように意識することは余りないのではないでしょうか。

 

無駄を削ぎ落とす作業とはまさしく一つの動きを行う為にその他の余計な動きを制御する作業に他なりません。

 

無駄を削ぎ落とすためには、動くことより動かないことをきちんと制御することが求められます。

 

身体が動かないように、動かないように制御して制御して残された一つの動きを導き出した時、本質が伴った美しい動きとなり、止まっていても将来の可能性までも表現できる形を作ることが出来るのでしょう。

 

その様な完成度の高い構えが出来上がれば、金本さんのように骨折してようが安打を打つことが出来るのです。

 

武術では、形が技を助けるといいますが野球でも同じことが言えそうです。

 

 

構えとは今まで経験し総決算した時の結果的な形・姿勢・現れ

いにしえの侍は、構えを見ただけで剣の実力が判ったと云われています。

 

対峙した相手の実力が自分より上なのか下なのか戦う前に読めるので、勝ち目のある戦いだけを戦って全戦全勝となる寸法。

 

この構えをどのように捉えるとそのように見る事ができるのでしょうか?

 

構えとは動く為の準備した形と考えると構えの精度の出来により将来の動きが予想する事が出来ます。

 

構えがシッカリとすればするほどそれからの動きの正確性が高まり、目的達成度がより向上すると思われます。

 

そんな目で大相撲の取り組みをTVで観ていると、立ち会いの瞬間に真横から見た両者の背中の丸みもしくはラインでどちらが有利かなんとなくわかる時があります。

 

取り組みの前段階で有利不利があるのであれば、取り組みを稽古する以上に構えの精度を高める稽古も重要であるはずです。

 

ではどの様にすれば精度の高い構えを作る事ができるのか?

 

しかし構えが大事だと思って構えてみてもどうなるものでもありません。

 

構えは動作の一部として捉える必要があると思われます。

 

ですから、止まってポーズをいくら作っても意味がないのです。

 

構えは動作をした結果に出来上がった形と捉えると、それまで行ってきた動作の過程が構えを作る材料になり、それら材料で結果的な構えが作られます。

 

多くの動作や経験を繰り返し行う事で動きが修正され最適な形として収斂されて行くのでしょう。

 

その過程がとても重要であり、結果的な形に囚われない方が良さそうです。

 

構えの重要さを訴えておきながら、構えに囚われるなと書いてしまうと意味不明となりますが、構えが重要ではなく構えを作る過程が大切なのではないでしょうか。

 

この過程の中で何回も何回も繰り返し失敗があるはずです。

 

失敗すれば成功するまで、納得のいくまで動作を繰り返しますが、同じ事を行なっていても失敗は失敗なので、成功するために動きを変化させなければ繰り返す意味がありません。

 

そこで成功への方向性を探りながら、ああでもない、こうでもないと微調整を繰り返す必要があります。

 

この微調整を繰り返す作業が多ければ多いほど正確性は高まり、効率の良い動作に近ずくはずです。

 

そのためには、同じ動作を繰り返し行う必要があります。

 

先ほど、同じ事を行なっていても失敗は失敗と書きましたが、同じ動作をしているつもりでも身体の動く条件はその都度変わってしまい毎回毎回微妙に違っています。

 

大雑把に捉えると同じ様に見える動作でも色々な筋肉や関節が関与し、それらを神経がコントロールするわけですが、動作がダイナミックになればなるほどそれらを制御する事は身体にとって大変複雑な作業となり、その複雑な作業を数回でマスターしそして、何時でも同じ事が再生出来るとは到底思えません。

 

其処にあるコップを口に運ぶ動作でも、コップの握り具合や手首や肘などの各関節の動く条件は何回やっても同じ条件で動く事はほぼありません、毎回毎回微妙に動作は違っています。

 

しかし、コップを持って口に運べば目的は達成されるので、結果的に同じ動作をしている認識になりがちです。

 

同じ動作の中で同じ条件で常に再生出来る様に同じ動作を繰り返し行わなければなりません。しかし、効率の悪い動き(慣れた動き)を繰り返しても意味がないのです。

 

このように同じ動きを繰り返すのですが、その中でも動きは変わり同じとはいえなくなるが良くない動きを繰り返してもダメなものはダメなのです。

 

この同じ動きの中で、進化が見られる動きといくら繰り返しても進化が見られないダメな動きがあることを認識しなければなりません。

 

構えは進化が見られる動きを繰り返すことにより、少しずつ少しずつの積み重ねにより創られていくように思われます。

 

そんな作業を何年も繰り返し行ってきた人であれば、相手の構えを見てどの段階にいるのか、自分の経験と照らし合わせれば一瞬で相手の実力がどの程度のものなのか判るはずです。

 

今まで自分が経験してきた段階と照らし合わせれば一目瞭然です。

 

自分が経験したこともないような構えであれば、実力は自分以上であるし、その構えが自分が数年前に悩んでいた構えであれば、その当時の自分の実力であることは明白です。

 

何回も何回も同じ動作を繰り返していると、細かなディテールまで読み取ることが出来ます。そして、それだけ繰り返していると見えたその形を自分も経験し悩み、もがいた思い出までも思い出されるように思います。

 

 

 

バイオリン演奏は構えも含めて演奏になる

 

先日バイオリン奏者の方とお話しする機会があり、その中でバイオリンの持ち方が二通りあることを始めて知りました。

 

一つは、肩とあごでバイオリンをはさんで支える持ち方。

 

もう一つは、左手で支える持ち方。

 

それぞれ力の入れ具合の割合の問題だと思うのですが、演奏者はそれぞれ自分のコントロールし易いポジションと力加減で楽器を支えているようです。

 

いずれの支え方が正しいとは云い難く、曲調によって、体調によって変化するのでしょう。

 

このように音楽を表現する前に楽器を持つまたは支えなければ、音を奏でることは出来ません。

 

そこですでに音楽を奏でる作業と楽器を支える作業の二つの作業を行っていることになります。

 

演奏を行う上でどのように演奏するか、は奏者ならば常に考え試行錯誤を繰り返し練習していると思われますが、意外とどのように楽器を支えるか、もしくはもっと広い見方をすると地球に対して身体と楽器がどのような関係にあるかはあまりにも当たり前すぎて考える事がないかもしれません。

 

楽器演奏をする上で、楽器を持って立ったり座ることはあまりにも当たり前だから。

 

一つ云えることは、自分の持っている能力や体力には限りがあること。

 

ある人は「人間の能力は限りがなく無限にある」と仰る人もおられます。

 

潜在能力など発揮すればそうなるでしょうが、よほどの条件が揃わない限りそのような状況にはなりにくいと思われます。

 

今ある自分の能力や体力を最大限演奏に費やす事が出来きれば最高のパフォーマンスとなるに違いありません。

 

そのためにも演奏を行う以外の事は極力行わないことではないでしょうか。

 

すべての能力や体力を演奏するためだけに力を使うことが出来れば、パフォーマンスはおのずと高まります。

 

しかし、現実には立ったり、座ったり身体を支えなければなりませんし、楽器も支えなければなりません。

 

そのために力は必ず必要ですが、最高のパフォーマンスを行うためにも、演奏以外の力は使わないことが重要です。

 

それは、力を使わずに立ったり座ったり、楽器を支えたりということになります。

 

そこで重要な概念が「構え」です。

 

ただ楽器を持って立つ場合と、楽器を持って構える場合は全く別次元のポテンシャルが発揮されると思われます。

 

武術では「形が技を助ける」と云われています。

 

ですから、技を習得するためにはまず形を作ることが求められるのです。

 

その形を作るために繰り返し、繰り返し動作を行い身体を形にはめ込む作業を行い、身体が形にはまってくるとそれなりの構えとなります。

 

ここで重要なことは、動作を行い形に身体をはめていく作業であって、静止したポーズをいくら取っても構えにはなりません。

 

構えとは、静止していますが動作の一部分で動きの一部と捉えて良いと思います。

 

そのように捉えるとただ立つだけ、ただ座るだけ、ただ楽器を持つだけではなく、演奏を行う動きと同調もしくは協調した動きが必要となります。

 

その協調された体の動きに費やされる体力・筋力は最小限で演奏と協調する事が理想でしょう。

 

そして、演奏と構えを別々で捉えては協調にはなりません。

 

演奏の中で構えを創ることが求められます。

 

この演奏と構えのパワーバランスこそが最高のパフォーマンスを導くと考えます。

 

演奏に対する細やかな神経を研ぎ澄ませながら行う作業を同時に構えにも同じぐらいの神経を費やすことで、身体全体がバイオリンの延長にある楽器の一部となるような身体になった時、バイオリンを構えるといえるのではないでしょうか。

 

 

 

究極の危機回避行動は「後の先」

いにしえの侍は、よっぽどのことがない限り夜道を歩く事はなかったと師にお聞きした事がありました。

 

侍といえば太刀を腰に差し、強い立場と絶対の術を持ち合わせ向かうところ敵なしのイメージで、刺客を討つ場面が想像されます。

 

いつ何時も変幻自在に対応し、夜道であろうが霧の中であろうが怖いもの無しではないのか?と。

 

だから夜道ぐらいは別に問題ないのではと思ってもおかしくはないのですが、それさえも控える侍の慎重の上にもより慎重に生活する様が伺えるようでした。

 

最大のリスクヘッジは最大の準備をして何もしない事の如く、不要不急の事柄は当然として出来るだけリスクを回避し、余計な事はしない事。

 

そこまで徹底して身を守る事が究極の危機回避であり、不測の事態に出くわす確率は断然減ります。

 

根底にある哲学は、「先を読む」ではないかと思います。

 

先を読むにあたって情報収取は必須であり、周りの状況を常に分析して不測の事態に備え、その上であえて回避行動を取る。

 

正確な将来への読みが重要である事は、現代ビジネスマンとて同じ事です。

 

侍の将来への読みの特徴は、遠い未来を予測するのではなく、直近の未来を直近の動きを見て計算し直近の未来予測を行なうと思われます。

 

遠い未来は情報分析が曖昧で複雑になり予測確率は低くなりますが、直近の未来は情報は限定的で単純なので予想し易いのではないでしょうか。

 

限定的にこの直近の未来に対してフォーカスする事で予測確率を高めてそれを将来へ繋げて予測を行なっていると考えます。

 

なぜそのように考えるかと申しますと、一対一で敵と対峙し自らが有利になる為には相手の出方を読む事です。

 

ただし、相手の出方を読んでから自らが動けば当然相手に先を越され自らが不利となりますが、相手の出方が始まろうとするその起こりを読む事で動くであろう出方の予測が出来、そしてその予測を元に動けば、先に動き出した相手より有利に動く事ができるはずです。

 

これが「後の先」と言われる事ではないかと想像します。

 

後の先とは、今その時の状況に対応した動作ではなく、直近の未来に対して対応した動作であり、相手の出方の前に対処している事になります。

 

 ここで大切なのは、動く前の動きの起こりを読むこと。

 

今風に言えば、予備動作になるのでしょうか。

 

予備動作は、動作を行う前の準備動作とも云え、身体が動き出す前に体勢を作る行為です。

 

例えば強いパンチを繰り出すためには、身体の中に十分な溜めを作り、一気に力を放出する時の”溜め”であったり、バットスウィングなどの身体を捻る時の身体のうねりであったりを指します。

 

ですから「後の先」の動きは、相手が動く前の予備動作に溜めが見えれば、パンチを出された時の対処になる動きを相手の身体が発動される前に行うことになります。

 

パンチが出される方向や強さが予測できれば、前もって返し技などの体勢を整えて対処することが出来るわけです。

 

実際の場面では、パンチを出したほうが不利になるような見え方になり、たまたまパンチの出し方がまずかったように見えますが、これはパンチを受けるほうが先に有利になる態勢を整えていたからに過ぎません。

 

パンチが出てきたから対処するのではなく、パンチが出せない対処を前もって作っておけば、後から動いても結果的に有利な体勢には違いありません。

 

その上に、いにしえの侍は相手の思念を読むことで、動こうとする起こり(予備動作)以前の状態で相手を制御できたように思われます。

 

そうなってくると、時代劇にあるようにチャンチャンバラバラなことはなく、相手が太刀を抜く前に動きを制していた、もしくは相手が太刀を抜く必要のない状況まで先を取っていたかもしれません。

 

戦わずして戦いを制するとは、こんな感じなのでしょうか?

古武術的危機回避能力

古武術稽古仲間から、知人が地下鉄サリン事件の車両に乗り合わせていた時に雰囲気の違う人が乗り込んで来たので車両を降りた後、事件が発生した話を聞いた事があり、まさしく危機回避能力が発揮された事例だと思いました。

 

この人は武術経験者ではなかったそうで、特別なトレーニングを積んだ経験もなかったそうです。

 

たまたまといえば、本当にたまたまなのでしょうが、能力が発揮される時ほどさり気なく、あっさりとこなしてしまう感があります。

 

危機回避能力と聴けば、特別な能力が備わっていたり、特別なトレーニングや修行によって獲得されるイメージがあるかもしれませんが、私はそう思えないのです。

 

ですから映画に出て来る様な、特別な能力を要したヒーローによるワクワクドキドキのストーリーが展開される感じではなく、偶然の如く過ぎ去り、話にもならない行為が結果的に功を奏する事になると思うのです。

 

ではなぜ、この人が危機回避能力を発揮させらる事ができたのか?

 

それは、その人が毎日、その時間、その車輌に乗っていたからだと私は考えます。

 

ほとんどの電車通勤の人はそうだと思いますが、特に朝の通勤時間などはその車輌に乗り合わせている人全てが毎日毎日その時間、その車輌に乗っているわけで、顔ぶれはほぼ同じとなるはずです。

 

何十年も繰り返し乗っていれば、逆にいつもあそこに座っている人が最近座っていない事にも気付いて、退職したのかな?とか左遷されたのかな?とか、いつも難しそうな本を読んでいる人がマンガ本を読んでいて、そんな本も読むんだ!と感心してみたり。

 

いつのまにか、その車輌の些細な日常が自然に手に取るように感じられる様になるのではないでしょうか。

 

まして、日本の中枢となるオフィス街のど真ん中に向かう列車となれば、それなりの人ばかりだと想像します。

 

そんな中、ひょこっと雨も降っていないのに傘を持った似つかわしくない人が入って来たら。

 

“あれっ”て思ったのでしょう。

 

ただし、あれっと思った人は他にもいたかもしれませんが、その思いの深さは感性なのか、よくわかりませんが、ふと身体が反応したのでしょう。

 

この日常と違う事が感じ取れる感性は、日常が重要となるわけで、日常がよく見えているから非日常とのギャップが見えるはずです。

 

その時の危機回避能力が素晴らしいのではなく、日常の観察力が高いからこそその違いを感じ取る事ができたわけで、それまでのプロセスがあったからこそ、できたことではないでしょうか。

 

さて、この話は古武術とは関係ありませんが、古武術の稽古は型稽古を行います。

 

(武術といってもいろいろあり、たまたま私の稽古する古武術はいにしえの侍が持つ身体を目指す武術で、この型稽古を重要視しています)

 

型稽古とは、受け手と取り手が決まった手順で攻防をシュミレーションする様なイメージで、また型稽古に入る前にも基本動作があり、柔術でしたら受け身、剣術でしたら素振り等の基本稽古があります。

 

基本稽古を含め型稽古の目的は、動作を型にはめる事にあります。

 

動作を型にはめるとは、きちんと同じ動作が同じ様に、いつでも出来るようにする事だと私なりに理解しています。

 

そのために繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し、決められた手順をきちんと丁寧に、繰り返す作業が求められます。

 

そのように繰り返し動作を行なっていると、さっき行なった動作と違う事に気づきます。

 

同じように行なったと思っていた動作が、今行なった動作と先ほど行なった動作が微妙にズレていたり、真っ直ぐ腰を落としたつもりが曲線を描いていたりします。

 

特に型稽古は受け取り相手を付けて動作を行うため、自分が出来ていると思っても、受け手がズレに気づけば動作はストップしてしまい型稽古にならなくなってしまいます。

 

そして一連の動作を修正して型へと導いていきます。

 

この稽古の眼目は、同じ動作を繰り返し、繰り返し行う事で動作の歪みを排除する事だと考え、歪みのない動作こそ武術の“術”となるゆえんです。

 

いにしえの侍は、そんな術を持ち合わせていたと思います。

 

そのような術を手に入れるためには、術を目指すのではなく、日頃の繰り返しが大切なのではないでしょうか。