力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

武術的影響力を与える伝え方

ビジネスにおいてトップのビジョンが明確であることが重要です。

しかし、このビジョンがトップの中では明確にあってもそれが正確に周知されなければ意味を成しません。

明確なビジョンを持つ以上にその伝え方が難しい様です。

自分の熱い思いを語り周りを巻き込んでいく、しかし想いが上手く伝わらず、単純に思いをストレートに表現しても相手に伝わらないことが往々にしてあります。

武術的動作においても同じように自分の思い通りに動いたとしてもその動きが相手に伝わらず、相手が意図した動きにならない場面は多々あります。

それを力ずくで動かしても、こちらの真意が伝わったとはいえません。

力で相手を動かすのではなく、いかに力以外の身体の動きを総動員し相手の反応を引き出すかが武術的身体動作法の特徴だと考えます。

視点が相手にはなく自分にあるところが特徴であり、自然体といわれるところです。

一般的に言われている「自然体」が武術の稽古を行う上でギャップを感じることがあり、相手に影響を及ぼすためには相手を知ることから始まりそうですが、武術の場合は相手は二の次で、先ず自らの動きが明確であることから始まります。

自然体とは、ただ何もせず立っているのではなく明確な動きの一部分である。

しかし、そこでつまずきます。

自らの動きを明確にする事が出来ない事を知ります。

武術の型稽古は、受け手と捕り手に役割を決め型の手順を進めていきますが、ただ手順だけでは、捕り手の動きによって受け手が崩される状態にはなりません。

受け手が崩れて初めて技になり、捕り手の動きが受け手に伝わったことになるのですが、そう簡単には受け手は崩れてはくれません。

受け手が崩れないとつい力を強くして筋力で相手を動かそうとしてしまいますが、力ずくで相手を動かしても、そこには技の要素はありません。

力の出力ではなく、捕り手の動きが明確に受け手に伝わる伝え方を受けての反応で探りながら動作の修正を行っていきます。

その様な作業を延々続ける中で、自分の意図した動きと違う動きが相手に伝わっていることわかってきます。

その一つに物理的な外力が自分の身体に加わり、意図する動きと物理的外力が合成された動きが相手に伝わっていることです。

ですから、自分が思うように動いた結果相手には違う動きが伝わってしまっています。

そこで、自分の思い描く動きに物理的外力が影響されるであろう動きに作りかえる必要があります。

増してそこで力を入れると容赦なく物理的反力が生じ余計厄介なことになってしまいます。

自らの動きを明確にし相手に伝えるためには、自分の思いをストレートに表現しても相手には伝わらない。

それは伝わるまでに意図しない外力が加わることを意識しなければなりません。

目的となる動きを素直に表現しても相手には目的と異なる動きが伝わってしまいます。

自分が表現しようとする動きと自分を取り巻く色々な要素を一旦すべて取り込んで、自分の中で再編成した動きを導き出す必要があるようです。

 

武術的「相手の力を利用する」ビジネスとの共通点

ビジネスの世界で「相手の力を利用する」というとなにやらネガティブな印象を持ちそうです。

人の褌で相撲を取るようなイメージが先行するのではないでしょうか。

人が開拓した市場を自分の手柄にしたり、会社を乗っ取ったり、要領よく立ち回る姿が頭に浮かびます。

その様なTVドラマがあったとすると、初めは上手く事が進み濡れ手で粟だが最後には失敗に終わるのがパターンです。

武術的に「相手の力を利用する」をビジネスの世界に例えると全く逆の世界が見えてきます。

以前にも書いた様に相手の力を利用するとは、相手の力を引き出す事であると。

相手となるビジネスパートナーの力を引き出し、その力のお陰で自らが成功する、今流行りのウインウインの関係を構築する事が技の術理に含まれているのではないかと考えてしまいます。

武術の場合、相手の力を引き出すために先ず自分の制御を最大限行うことが求められます。

そして、最大限制御された動きは同調し一つの動きに集約され、動きがどんどんシンプルになり最終的には動きが消えてしまいます。

動きは消えますが作用は残るため相手は消えた動きによる作用に翻弄され自らが崩れ動くことになり、結果的に作用を受ける相手自らが崩れ動く事となります。

この術理は現代ビジネスに通ずる様に思います。

今も昔も人の能力を引き上げ、引き出す事は大変な事で、本屋に行けばマネジメント関係の書籍だけでも相当な幅を利かせています。

詳しくは存じ上げませんが、ホンダの本田宗一郎さんやソニー井深大さんはきっとビジネスパートナーの力を引き出す技術に秀でていたと思われます。

それは相手を動かす能力ではなく、自らが動く能力が高かったということ。

自らが動く能力とは、いろいろ動き回ることではなく、想い、ビジョン、方向性などが首尾一貫し、軸がブレず明確な動きが含まれます。

一貫し明確な動きは、ゆるぎないコンセプトを作り上げ誰にでもわかり易く伝わったに違いありません。

社長はそんな凄い構想があるのか、一丁その構想に乗ってみるか。

おやじの夢を是非実現させてやりたい。

トップダウンで情報が伝達されるのではなく、感化された周囲の人々が自主的にトップの思いやビジョンを汲み取り勝手に自ら行動に移すと、結果的にボトムアップの状態が出来上がるはずです。

ブレのないコンセプトはボトムアップの構造を持ちながら、トップダウンの命令系統が機能する理想的な形式です。

ブレのない軸(武術では正中線)を持つ人の動きが周りの人を巻き込ませることが出来るのは、軸が安定すればするほど軸の周りを回り易くなることは物理的に証明されています。

軸は出来るだけ動かない。すれば回りが動き易くなる。

逆に軸がぶれると回り難くなることは当然起こります。

回りが必然的に動いている様は自発的に動いている様に見えるし、動いている本人も自発的に動いていると勘違いしているが、それは軸がきちんと安定しているからであり、軸がきちんと安定していれば、勝手にその軸の周りに回りだすことは自然の成り行きです。

ビジネスでの成功者は、どっかり構えているのではなく、軸としての機能を果たすことにより回りが動き易い環境を創りだし、そしていつの間にかその軸の周りを人が動かされている状態こそ、相手の力を引き出していると言えるのではないでしょうか。

 

 

 

武術的「相手の力を利用する」介護との共通点

武術における相手の力を利用するとは、相手の力を引き出す事であると前回お伝えしました。

この方法は、介護現場においてもきっと使われていると思っていたら、TVでアイコンタクトの話がありました。

普段は介護を拒否する事がある認知症のお年寄りが、介護の達人にかかるとニコニコ素直に対応する事例を科学的分析と称して色々細かなデータを紹介していました。

視線の合わせ方で相手の態度が変わり(認知症の方でも)、相手の力を引き出した状況を作り出す事が出来るのです。

武術においても介護においても、相手が自発的に動く状況に持ち込む事は共通しています。

そして今回紹介していた「相手の目を見る」事です。

人と話をする時は、相手の目を見て話しましょうと教わった事があります。

それは、相手の話を聞き入れている態度を示しています。

しっかりと相手の目を見て話す事は話の内容だけではなく、話以外の情報を視覚や聴覚から得る事で相手をより受け入れようとする態度と取る事ができます。

そして、話の意味を理解して、その人の話と視覚などの五感から得た態度を総合的に判断してその人が思う意図を探ります。

特に目の周辺の動きは情報が溢れています。

ちなみに、新聞の一面にノーベル賞受賞者を囲むフォーラムの記事があり本庄佑さんと山中伸弥さんの写真が掲載されていましたが、お二人とも知性が溢れています。

きっとフォーラムに出席していても話はチンプンカンプンで理解できないでしょうが、五感から知性を感じ取る事ができます。

特に目や眉間周辺の雰囲気から彼らの頭脳を表している様に思えます。

この目や眉間の周辺は思いや考えが表に現れ、なんとも言えない雰囲気が現れる部位だと思われます。

このスポットに意識を集中する事で、相手の意識や無意識、心の奥底にある思いなどとリンクし易くなるのではないかと考えます。

武術において、相手と対峙する時お互いが相手を取り合います。

相手を取るとは、相手の状態を察知し出方を伺い自らが有利となる様に仕向ける態度とも言うのでしょうか、お互いの関係性を示します。

相手の状態を察知する時、色々な感覚を駆使して相手を捉え、目に見える情報ではなく五感で感じ取る情報を優先します。

その感じ取った情報を頭の中でイメージ化した時に目に見えていなかった物が頭の中で見えて来ます。

それが正中線と云われる身体に通る線の様な抽象的なラインが浮かび上がって来るのです。

そしてお互いがその抽象的な線を取り合い、自らの線を相手の線に割り入る事で相手を崩し、隙を作ります。

この正中線の攻防が武術における相手を取ると言う行為と理解しています。

目に見える情報ではなく、目には見えないが確かにある情報を汲み取り、自らの身体を操作し相手の隙に割り込む事で相手を制御します。

その行為が相手の力を引き出す原動力となるのでしょう。

介護においても、相手の目を見た時に目からの情報を得るのではなく、目線を合わせる事で自分の線と相手の線を一致させることが出来るはずです。

一致すれば、その線のどこからどもまでが自分の線なのか相手の線なのかわからなくなるでしょう。

そしてその線は、逆に共有の線となりお互いが相手を理解し合える一心同体の状態に陥る事になるはずです。

この状態は、痴呆であれ違う生き物であれ生物同士なら成り立つ様に思います。

相手の力を利用するとは相手の反応を引き出す事

相手の反応を引き出すための条件は、相手が生物である事。

無機物に対しては当然反応はありません。

当たり前の様に捉えられるかもしれませんが、皆さん無意識に使い分けていると察します。

人に対してこんな事をすれば相手はどうなるか、どう思うか、その加減を調整しながら力の出力を決定しているはずです。

しかし意外と使い分けている人は近年少なくなって来ている様に思われます。

逆に言うと生物も無機物も同じ扱いで、使い分けていない人が増えて来ている様に思うのです。

勝手に推測するに、人間関係が希薄になるにつれてスキンシップは当然少なくなり、肌感覚からの情報を読み取る機会が減る事で反応を嗅ぎ取る感覚が鈍くなって来ている。

また、デジタル社会になりリアルな感覚を使う機会も減り、バーチャルな世界に入り浸ると物理的感覚さえも麻痺して来ているようにも思われます。

以前Podcastを聴いていて感心する話がありました。

セックスが終わり相手が身体を起こす際、自分の胸部の上で肘を立てて起きようとしたらしく、身の危険を感じたと言う話を聴いて、人の胸の上で肘を突いて体重をかけたら相手はどうなるか、そんな事も分からなくなって来ているのかと。

極端な話かもしれませんが、人に対して影響力を加える際は自然に相手への加減や気持ちを読む習慣がありますが、近年そのような習慣が希薄になって来ているのではないでしょうか。

物に対する力の使い方とヒトに対する力の使い方は違うはずです。

物への影響力は物理的な範疇での出来事から外れる事はありません、しかしヒトへの影響力は物理法則では説明しきれない出来事が起こる可能性があります。

自分の胸の上で肘を立てられたら、物理的な力を支える前にその状況から逃避する動きを起こす事は自然な反応ですが、物理的な反応とは言えません。

人は自らに影響する力に対して、必ず反応するために物理法則では説明しきれない結果が生じる事になるはずです。

ですから、物理法則に則っただけの結果が出ず、その人なりの反応が絶対に現れるはずです。

相手の反応を引き出すためには、相手の気持ちになって「こう動いてくれたら自分はその様に動いても良いかも」と思える動きを相手に押し付けるのではなく、自らが表現する事で相手が自然にその様な状況を受け入れて貰えるシュチュエーションを作り出す事。

相手の意志よりも成り行き、シュチュエーションがあまりにも自然であるため、相手はこちらの意図という事を忘れるぐらい自然な成り行きの如く、身体を動かしてしまう。

相手の反応を引き出す動きとはそんなお膳立てが隠されているように思います。

相手の力を利用するためには、相手が動き出す前に色々なお膳立てを自分なりに組み立て、その組み立て通り相手が動く様に自分の動きや体勢を構築しなければ、相手はこちらの動きに納得して動こうとはしないでしょう。

それだけ相手を動かすためには、自分自らが厳密に動く事で相手の動きを導く動きを引き出す様に思います。

介護の世界でも、相手の力を利用する事は可能です。

利用者が介護者の意図を汲む様な動きをした時、介護者の意図が利用者に伝わったという事になるのでしょう。

それは利用者が気を利かせたのではなく、介護者の意図が利用者をその様に振舞わせたという事になります。

ベテラン介護師は相手の反応を引き出すテクニックをお持ちになっているはずです。

相手の力を利用する

武術や合気道で相手の力を利用すると言う表現を聞く事があります。

 

言葉のイメージから、自らは力を使わず相手の力をそのまま技に活かす方法の様に捉える事ができますが、向かってくる相手の力をそのまま返し技で返すという意味ではなく、相手の力を利用するとは、相手の力を引き出し、引き出された相手は自らの力で崩れ倒れる状況を作り出す事だと思います。

 

相手の力を引き出すとは、相手の動きをこちらがコントロールする事であり、制御された相手は自らの姿勢保持が出来ず、自らが崩れそして倒れてしまう結果になる事。

 

相手は、自分が制御されていると気付いていないので、なぜ自らが崩れるのか不思議でなりません。

 

一般的に言われている相手の力を利用するとは、相手の動きをすでに制御出来ていなければなりません。

 

ですので、制御出来ていない動きはいくら頑張っても、返し技は通用しませんし、否しても否しきれず追い詰められます。

 

いかにして相手を制御するか。

 

相手の力を利用するためには、相手を制御しなければ話になりません。

 

そこに武術の術たる難しさが潜んでいます。

 

術とは、人知を超えた技と言われる所以です。

 

古武術の中には、主に柔術、剣術、居合術が含まれ、スタイルはそれぞれありますがいずれも相手を制御する術理が含まれている事は共通します。

 

ただしこれらのスタイルの違いだけではなく、難易度にも違いがあります。

 

柔術は、相手と素手接触しているので直接接触点から相手の情報を読み取る事ができます。

 

剣術は、得物(太刀、小太刀、十手等)を通じて間接的に相手と接触する為情報の読み取りが柔術に比べ限定され、増して距離を置いての攻防はより情報は限定されます。

 

居合術に至っては、相手は仮想敵となり、相手の情報はありません。

 

それぞれの状況で、相手を制御する方法を学びとる事が求められます。

 

柔術では相手の存在が実感としてあり、剣術は距離が離れているので実感は乏しく、居合術に至っては実感どころか相手がいません。

 

相手の状況は変わりますが、共通する事は自らは存在している事。

 

相手を制御するためには、相手を操作するのではなく自らを操作するしかありません。

相手もこちらの動向で出方を伺うわけですから、自らの動きで相手の動きも変わるはずです。

 

相手の力を引き出すために、自らの動きを制御する。

 

この制御の仕方で術になるか、カロリーを消費するだけの動きにしかならないか、同じような動きでも雲泥の差となります。

 

術となる自らの動きを制御する。

 

徹底的に制御し、無駄を省いていくと動きが消えます。

 

動きが消えたから作用も消えてなくなるかといえばそうではなく、操作感が消えて作用だけが残る、それが術となるのでしょう。

 

そしてそこには力が存在していません。

 

力が存在しないとは、力を使わないという意味ではなく、力を感じさせない力の使い方であり、力を感じなければ存在感も無くなります。

 

そんな見えない、感じ取れない力の存在により相手は翻弄され、なすがままに制御されて相手が自らの力で自らが崩れる結果となる事が、あたかも相手の力を利用して技を掛けている様に見えるのでしょう。