力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

究極に力を削ぎ落とした先に「柔」がある

戦いの技術として「柔」の文字を当てることに疑問を持っていました。

 

やわらかくしなやかで弱い、心がやさしくて穏やかを意味する言葉が、戦いを勝ち抜く技術としてどうしても納得できなかったのです。

 

しかし、ようやく柔術の稽古を通じて「柔」とする意図が見えてきました。

 

意味ではなく意図です。

 

その意図は、力の向こうに目指すものは無いということ。

 

そのことに気付かせる様に型稽古が組まれていることに気付き、稽古を続けて20年目にしてようやくスタート地点に立った思いです。

 

早かったのか遅かったのかは判りませんが、気付けてだけでも型稽古を続けた甲斐がありました。

 

常々稽古を通じて「型」はタイムカプセルの様だと考えるようになり、この型を意図することが理解できればきっと当時のまま、そのままの身体が表現できると感じるようになっていきました。

 

このタイムカプセルを紐解くキーワードが「力の使い方」なのです。

 

しかし、現代人の常識の範疇で生活する私にとって「型」というタイムカプセルを開けるためのキーワードが判ったところで、中を見ても全く意味不明な暗号のようなものが入っているだけでどうしようもありませんが。

 

普通の人はそれを見て理解できないとあきらめる、もしくは理解できるように考える、のどちらかでしょう。

 

そこにタイムカプセルが開かない一つの落とし穴があり、理解できないと諦めてしまえば当然タイムカプセルは開きません。

 

そして、もう一つの落とし穴が、自分なりに理解しようとする行為が本質を捻じ曲げてしまう恐れがあり、タイムカプセルが開いていないにも関わらず、開けたような気分になってしまう事、この場合もカプセルを開けたとは言えません。

 

暗号そのままを理解する事が難しいのです。

 

力を使わないと身体は動かないとする価値観がある限り、暗号は解けません。

 

ただこの自分の価値観に疑問を投げかけ続けると、自分の傲慢さが見えてくるのです。

 

それは、型稽古を行う上で自分なりの動き方をすれば必ず動けないように仕組まれている事に気付かされます。

 

いち・にい・さんの単純な三動作さえも普通の人が普通に動けば何となく動ける動作ですが、当然それでは術にはなりません。

 

普通の当たり前の身体の動きが、傲慢で自分勝手な動きである事を知り、その価値観のまま動き続けても先が無いことに気付かせる方便として型があるのです。

 

自分なりの身体の動かし方が、全く機能しないことを知らしめてもらえます。

 

そこで自分の価値観を崩壊させることが出来るのです。

 

自分の中の自分の価値観は、自分の中では大きな割合を占めていますが、400年以上先人が練りに練った「型」における価値観に比べれば「屁」みたいなものです。

 

そんなものに自分の価値観で考えても太刀打ちできるわけがありません。

 

だから屁みたいな価値観を壊す作業をしなければなりません。

 

そして自分の価値観で動いた身体の動きをどんどん削ぎ落とす、自分の動きを否定すると「型」に仕組まれた術のエッセンスが滲み出てくると思えてきました。

 

究極の自分を消す作業。

 

自分か消えてしまえば死んでしまいます。

 

型稽古は死をも疑似体験できる所まで設定されているようにも思えます。

 

自分の力、価値観を削ぎ落としていく作業は、やわらかくしなやかで弱く、心やさしく穏やかでなければ達成できないようにプログラムされているのでしょう。

 

このように考えると、柔は戦いの技術ではなく戦う必要が無い技術と捉えることができます。

 

柔術はジェントルマンのたしなみ

ジェントルマンといえば、イギリスの大地主ですが長期にわたり国の中枢を担って来た歴史があります。

 

そのイギリスが今大変な局面を迎えています。

 

その一つにイギリス紳士の思惑よりも強い力が英国の舵を切る可能性が高い様で、国の中枢で舵を握るイギリス紳士達は今後どのようにイギリスを導くのか世界中が注目しています。

 

見方によると民意が高まるより、ジェントルマンの威力が低下している様にも捉える事も出来ます。

 

日本でジェントルマンといえば・・・

 

私は日本の歴史を牽引する中心的存在であり続けた武士のイメージがあり、武士のイメージを現代風にすると、礼儀と教養を持ち合わせた軍事や政治に精通した紳士になります。

 

そんな武士の威力が低下し新しい時代に突入した日本の歴史にも似た、英国紳士の立場が感じられます。

 

日本の中枢を長期にわたって担って来た武士の素養を身につけつために柔術は必修でした。

 

武士は、柔術や剣術の武術を通して素養を高めて、国を導く処まで能力を発揮したと推測すると、柔術を含む武術の中にただ戦いの方法だけでは無く国を導く程の素養を身に付けられる程の中身があったのではないかと思います。

 

当然学問も必要ですが、学問優先であれば武士でなくても良かったわけで、武士が国を担うということは、やはり武術の方が優先順位は高いはずです。

 

この武術の中に学問以上に国を導く処まで素養を高める内容が詰まっている筈です。

 

その一つとして柔術が含まれています。

 

柔(やわら)の術(すべ)の意味するところ意図するところは何なのか?

 

その答えが独自の稽古法である「型稽古」の中にあるはずです。

 

型稽古は受け手と捕り手の二方が、決められた手順どおり攻防を行います。

 

この手順を行うことで術を収得することが出来るということですが、実際に行ってみてもどのあたりが術として生かされているのか理解しがたく、また実戦に使うには不自然な動きがある印象です。

 

現実にいにしえから受け継がれた多くの流派が在ったにもかかわらず、現存する流派は少数になりました。

 

それは流派の型の意味するところを解読できず、形骸化しいつの間にか意味を見出せづ継承されること無く消滅したと推測されます。

 

一つの手掛かりとして柔(やわら)の意味するところをきちんと押さえることが出来るか否か。

 

柔とは、やわらかく、しなやかで弱く、心がやさしく穏やかである。

 

これらの意味することが理解できなければ、柔と型の本質を読み解くことはできないはずです。

 

なぜ、やわらかく、しなやかで弱く、心がやさしく穏やかなことが武士の素養を高める肥やしに成り得るのか。

 

そして、なぜそれらが術(すべ)にまで昇華するすることが出来るのか。

 

それは実際に型の理論を体験しなければわからないことなのでしょうが、体験しても理解できずこの世から多くの型が消滅してしまいました。

 

それだけ武士が行ってきた柔術は意味不明であり理解不能な領域に到達していたと思われ、理解できる人は到底少数になるはずです。

 

その様な難解な術をたしなむ武士が普通にそこらへんに歩いている世界は考えただけでも驚きを隠せません。

 

逆にその様な意味不明、理解不能な代物が現代に残っていること事体が奇跡に近いとも取れます。

 

いずれにしても、歴史の中で培われた柔術は先人の知恵と知識が凝縮した理論であることは間違いありません。

 

その凝縮された理論はある意味タイムカプセルのごとく型として残されてきました。

 

このタイムカプセルを解読する作業はきっと国を導くほどの難解さを踏まえているのではないかと思います。

 

 

 

 

 

 

柔術の稽古で柔(やわら)の意味を考える

柔とは①やわらかい。しなやかで弱い。②心がやさしい。おだやか。とあります。 

 

 しなやかで弱いのは困りますが、しなやかに順応でき柔らかい物腰で心やさしく穏やかな人になれればもう何も望みません。

 

柔(やわら)とはそのような人を創るための意味が含まれているのではないでしょうか。

 

その方法論として柔術といわれる技術が発展してきたと考えることができます。

 

ただ柔術は武術の一種で戦いを想定した技術に柔(やわら)は似つかわしくないような印象があります。

 

しなやかで弱いとされる柔がなぜ武術の名となったのでしょうか?

 

現代の柔といえば「柔道」となりますが、私のイメージでは、柔道にしなやかで柔らかい物腰で心やさしく穏やかではなく、質実剛健心身ともに強くたくましく強靭さを思い浮かべてしまいます。

 

いつの間にか、いつの時代か柔が柔でなくなっているような気がして、柔という言葉だけが残り、中身は全く別の何かに置き換わった競技として変化しているように思います。

 

柔を解釈するためには、いにしえの柔術を学ぶしかありません。

 

武術という戦いを想定された技術に、しなやかで弱いとか心がやさしいと意味する文字を当てる意味について実際に柔術を稽古している人間として考えて見ました。

 

最近の柔術は良くわかりませんが、私が稽古する柔術は昔ながらの稽古法として型稽古を最重視ししています。

 

型稽古は、受け手と捕り手にそれぞれの決められた手順があり、この手順どおり正しく行うことで身体が練られ、武術の”術”に導くための手段と理解しています。

 

この型稽古の稽古法の中に柔(やわら)の意味が潜んでいるはずです。

 

よく型稽古を実戦での雛型と捉えられている武術家がおられますが、実際に稽古している中で型どおりの状況が起こるとは余り思えません。

 

ですから、戦いのパターンを憶える作業ではなく、型通り身体が捌けるか、型が意味するように動くことが出来るか。その結果術にたどり着ける、そんな身体づくりの方法論として頭ではなく身体で理解するよう組み立てられた理論なのです。

 

この理論は、頭で理解するより身体で理解するために組み立てられているため、実際に身体を使って動作しない限り、見聞きしただけでは理解不能です。

 

 まして、身体を使って動作したところで意味不明な動きばかりで稽古の目的すらも良くわかりません。

 

その様なことを20年ほど繰り返していると、力の入れ方自体に違和感を感じ始めました。

 

現代の常識として身体を動かす、使うときには力を入れて動くことが当たり前です。

 

しかし、いにしえの型稽古法はどうも力を入れて行うと型通り動けないことがわかって来ました。

 

力を入れて身体を動かすと、とたんに相手の受け手にぶつかってしまい動きが止まってしまいます。

 

20年間そんなことに気付かず稽古をしていました。

 

しかし、逆にようやく力以外で身体を動かすとはどのようなことなのか理解できた時期でもあり、この力の使い方が明らかに柔(やわら)に繋がる術となるきっかけになるはずです。

 

現代での常識が覆される程の内容が柔術の中に含まれています。

 

と言ってもその昔であれば、常識であった事が今は非常識であることもしかりです。

 

例えば、昔は全ての作業が人力でしたので、出来るだけ疲れない様に身体に負担を掛けないように身体を動かしていたと推測しますが、現代は筋トレ等体に負荷を加えてその負荷に打ち克つような、積極的に負担を掛けることが常識です。

 

いつのまにか力の使い方が、力を入れないで動作を行う事から力を入れて動作を行う事に変化してきたように思い、逆転した元であるその最たる動作が柔の動きであり、その力の入れ具合が究極に力を感じさせない技術として武術に生かされたのではないかと推測します。

 

力を削ぎ落とした身体の動きは、しなやかで弱々しく優しい動きとして捉える事ができます。

 

柔の動きは力感を感じさせない動きとなるため、技を受ける側は柔の動きを認識する事が困難になり、反応する事がより難しくなる事は当然です。

 

技を掛けられていても気付かないままに技を掛けられている。そして知らぬ間に勝負がついてしまってしまいます。

 

力を削ぎ落とした動作の先に術がある。

 

柔術の稽古を通じてそれが柔の理だと確信しました。

 

金本知憲さんの構えと侍の構えの共通点

f:id:araki4970:20190306091025j:plain

金本知憲さんの構えと侍の構えの共通点


写真は2007年1月の自動車の新聞広告です。

 

昨年まで阪神タイガースの監督を務めた金本知憲さんの現役時代の構えは、見ただけでいかにも打ちそうな構えだったと当時見ていました。

 

素人がそう見るのだから、対戦したピッチャーはもっと切実に見えていたのでしょう。

 

調子の良い金本さんがバッターボックスに入り構えただけで、ピッチャーはどこに投げても打たれそうな思いになったに違いありません。

 

対戦前から勝負ありです。

 

ピッチャーは金本さんの何をみてビビってしまうのか?

 

構えとなる形の精度が上がれば上がるほど、構えから繰り出される将来の可能性も高まるはずです。

 

その評価となる手がかりが美しさではないかと思います。

 

「構えの美しさ」これは一朝一夕には絶対できません。

 

物まねのプロが特徴を掴んで面白くまねることができても、本物と瓜二つの構えは似ているようだが、全く別物として捉える事になるでしょう。

 

表面的な形をまねても本質までまねられはしません。

 

それは、身体の細部に渡り細やかな命令を神経を通してスムーズに流す、これを行うためには回数を重ねることが第一条件で、細胞の隅々にまで自分の思いを行き渡らせると、何も思いのない細胞とは形や動きだけでなく、雰囲気までも違いが現れその雰囲気が構えに表れるのではないかと思います。

 

構えの美しさは、現在の科学的客観的な評価は難しいように思われ、抽象的な雰囲気や感じ方で評価せざるを得ないでしょう。

 

この雰囲気や感じ方は、それなりの素養がないと判りません。

 

野球の経験者が見る眼と野球を全く見ない眼では評価は別れ、また野球経験者の中でも深度の違いで見え方が違うはずです。

 

また、私のように野球からではなく別の観点から構えを見たときとでも評価は分かれるでしょうが、それなりに人の動きを見てきた経験から金本さんの構えは凄いと評されるでしょう。

 

美しさの対象は当然人によって違いますが、その範疇の人が高く評価した形や動きは美しい形であり、美しい動きであるといえます。

 

美しい形や動きはシンプルで判り易い、しかし誰もが出来るわけではない。

 

シンプルで判り易い形や動きは一見簡単そうに思え誰にでもできそうですが実は難しいのです。

 

それは、身体の構造上関節が260余りあり400近くの筋肉で身体を動かしているので単純な動きでも色々な関節や筋肉が関与してしまい、余計な動きが起こってしまう可能性が高くなります。

 

シンプルで限定的な動きを行うためには、多くの関節や筋肉を制御する必要が生じます。

 

実は身体を動かすことよりも動かないように制御することの方が大変な作業です。

 

一つの動きを行う為に何百もの動きを起こさない。

 

動きを意識するよりも、動かないように意識することは余りないのではないでしょうか。

 

無駄を削ぎ落とす作業とはまさしく一つの動きを行う為にその他の余計な動きを制御する作業に他なりません。

 

無駄を削ぎ落とすためには、動くことより動かないことをきちんと制御することが求められます。

 

身体が動かないように、動かないように制御して制御して残された一つの動きを導き出した時、本質が伴った美しい動きとなり、止まっていても将来の可能性までも表現できる形を作ることが出来るのでしょう。

 

その様な完成度の高い構えが出来上がれば、金本さんのように骨折してようが安打を打つことが出来るのです。

 

武術では、形が技を助けるといいますが野球でも同じことが言えそうです。

 

 

構えとは今まで経験し総決算した時の結果的な形・姿勢・現れ

いにしえの侍は、構えを見ただけで剣の実力が判ったと云われています。

 

対峙した相手の実力が自分より上なのか下なのか戦う前に読めるので、勝ち目のある戦いだけを戦って全戦全勝となる寸法。

 

この構えをどのように捉えるとそのように見る事ができるのでしょうか?

 

構えとは動く為の準備した形と考えると構えの精度の出来により将来の動きが予想する事が出来ます。

 

構えがシッカリとすればするほどそれからの動きの正確性が高まり、目的達成度がより向上すると思われます。

 

そんな目で大相撲の取り組みをTVで観ていると、立ち会いの瞬間に真横から見た両者の背中の丸みもしくはラインでどちらが有利かなんとなくわかる時があります。

 

取り組みの前段階で有利不利があるのであれば、取り組みを稽古する以上に構えの精度を高める稽古も重要であるはずです。

 

ではどの様にすれば精度の高い構えを作る事ができるのか?

 

しかし構えが大事だと思って構えてみてもどうなるものでもありません。

 

構えは動作の一部として捉える必要があると思われます。

 

ですから、止まってポーズをいくら作っても意味がないのです。

 

構えは動作をした結果に出来上がった形と捉えると、それまで行ってきた動作の過程が構えを作る材料になり、それら材料で結果的な構えが作られます。

 

多くの動作や経験を繰り返し行う事で動きが修正され最適な形として収斂されて行くのでしょう。

 

その過程がとても重要であり、結果的な形に囚われない方が良さそうです。

 

構えの重要さを訴えておきながら、構えに囚われるなと書いてしまうと意味不明となりますが、構えが重要ではなく構えを作る過程が大切なのではないでしょうか。

 

この過程の中で何回も何回も繰り返し失敗があるはずです。

 

失敗すれば成功するまで、納得のいくまで動作を繰り返しますが、同じ事を行なっていても失敗は失敗なので、成功するために動きを変化させなければ繰り返す意味がありません。

 

そこで成功への方向性を探りながら、ああでもない、こうでもないと微調整を繰り返す必要があります。

 

この微調整を繰り返す作業が多ければ多いほど正確性は高まり、効率の良い動作に近ずくはずです。

 

そのためには、同じ動作を繰り返し行う必要があります。

 

先ほど、同じ事を行なっていても失敗は失敗と書きましたが、同じ動作をしているつもりでも身体の動く条件はその都度変わってしまい毎回毎回微妙に違っています。

 

大雑把に捉えると同じ様に見える動作でも色々な筋肉や関節が関与し、それらを神経がコントロールするわけですが、動作がダイナミックになればなるほどそれらを制御する事は身体にとって大変複雑な作業となり、その複雑な作業を数回でマスターしそして、何時でも同じ事が再生出来るとは到底思えません。

 

其処にあるコップを口に運ぶ動作でも、コップの握り具合や手首や肘などの各関節の動く条件は何回やっても同じ条件で動く事はほぼありません、毎回毎回微妙に動作は違っています。

 

しかし、コップを持って口に運べば目的は達成されるので、結果的に同じ動作をしている認識になりがちです。

 

同じ動作の中で同じ条件で常に再生出来る様に同じ動作を繰り返し行わなければなりません。しかし、効率の悪い動き(慣れた動き)を繰り返しても意味がないのです。

 

このように同じ動きを繰り返すのですが、その中でも動きは変わり同じとはいえなくなるが良くない動きを繰り返してもダメなものはダメなのです。

 

この同じ動きの中で、進化が見られる動きといくら繰り返しても進化が見られないダメな動きがあることを認識しなければなりません。

 

構えは進化が見られる動きを繰り返すことにより、少しずつ少しずつの積み重ねにより創られていくように思われます。

 

そんな作業を何年も繰り返し行ってきた人であれば、相手の構えを見てどの段階にいるのか、自分の経験と照らし合わせれば一瞬で相手の実力がどの程度のものなのか判るはずです。

 

今まで自分が経験してきた段階と照らし合わせれば一目瞭然です。

 

自分が経験したこともないような構えであれば、実力は自分以上であるし、その構えが自分が数年前に悩んでいた構えであれば、その当時の自分の実力であることは明白です。

 

何回も何回も同じ動作を繰り返していると、細かなディテールまで読み取ることが出来ます。そして、それだけ繰り返していると見えたその形を自分も経験し悩み、もがいた思い出までも思い出されるように思います。