妻は月曜日決まって二の腕が痛くなります。日曜日にピアノの練習をしたからと本人は言いますが、そんなにしているようには見えませんが。。。
いつか妻にこんな風にピアノを弾いていると分かり易くデフォルメして真似たところ、全く聞き入れませんでした。本人は全く心当たりがないからでしょうね。
肘を外側に張って弾いていたのです。
実際の肘の位置は外側に張ることなくストンと落ちていて、力んでいる様ではないのですが、鍵盤を叩く指の位置と肘の位置が合っていないので、上腕外側で肘を上に引き上げて指と肘の間隔をキープしてる様に見えたのです。
ピアノの演奏に関係なくそんなことを30分もすれば、誰でも腕が張ってきます。
武術の稽古でもその位置関係が実感できるまで結構な時間がかかります。
決まった手順で決まった動きを繰り返す型稽古を続けていると、見た目は同じでも働き(機能)の有無が現れます。
その現れは、相手の反応に現れます。
自分は型通り動いているつもりでいても、相手には違う状況で伝わることがよくあります。それは、本来動くべき動きとその動きを行うために補助する動きが混在することが多々あります。
型稽古を行うとは、本来動くべき動き方ができれば良いのです。
型は本来の動きが出来れば、相手は崩れる様にプログラムされているのです。
自分は型通り動いているつもりでも、相手が崩れる反応を示さないのは型以外の余計な動きが含まれるため、相手には本来の動きが伝わらないのでプログラムが実行されません。
型稽古の大本は、型が要求する動きを忠実に再現することなのですが、それができません。
出来ないから、できる様に自分なりに工夫をしてできる様に努力します。
しかし、その努力の仕方が問題です。
その努力が、本来の動き以外の補助的な動きが加わるため、余計に型が要求する動きではなくなってしまうのです。
その判定を相手の反応で評価します。
稽古は、補助的な動きを排除し本来の動きに近づける作業を行います。
言い換えますと、動きを削除する事で本来の動きに近づける。
極限まで削除された動きは、動かなくとも働き(機能)が現れてきます。
そんな形、位置関係、構え、はすでに技に術になる様にセッティングする事が稽古の目的です。
機能を高めるためにどんどん動きを加えていく現代の運動学とは全く発想が違います。
本来の形、構えが出来ていれば動かなくても機能する。それが昔の発想です。
。。。。でも、指を動かさなければピアノは鳴ってくれませんよね。
そこは、ピアノの技術でしょう。
でもその前に、ピアノを弾く以前にピアノを弾く構えなるものがあるのではないでしょうか。
武術でも構えが技を助けると言われてきました。そしてその構えが出来た時、力の存在がなくなるのです。
妻の場合でしたら、指と肘の形が出来れば二の腕は痛めることもなくピアノを奏でる事ができるのでしょう。100年後ぐらいに。