古武術の眼に映っている虚構の世界と眼に映らない術の世界
日本刀を扱うにあたり斬るための「斬り手」といわれる手の形があります。手首を親指側にやや反らせた形と表現するとイメージしやすいかもしれません。写真や動画で手の形を現せば一目瞭然でどの様な形であるか直ぐ理解出来ます。
しかし、その形が解ったからと言ってなかなか斬る形とはなりません。
表面的な形を似せても機能する形にはならないのです。見た目は同じ様な手の形でも斬ると言う機能を求めた時歴然と違いが現れます。
結果的に斬れるか斬れないか二つに一つ〇かXかです。斬れた時はその形が正解であり、斬れない時は形になっていないことになりますが、偶然斬れる形になるかも知れません。しかし、侍がたまたま斬れる形で満足していたら命が幾つあってもたりません。
この斬る機能を備えた斬るための形は写真や動画で見たり、実際に術者の手を目の当たりにし真似たところでその形にはならないのです。
その形と言っても特殊な形ではなく、誰でもできる範囲の形なのですが、それが出来ません。
ですから武術は見様見真似では進歩が無いことになります。
その形が自分のものとなるまで練らなければならないのです。
武術の術とは、人が身につける「特別」の技とありますから、「普通」では身に付けられません。見ただけではダメなのです、普通から特別にステージが変わらなくてはなりません。
増して見えたものが術とは言えないのです。
手品でタネが見えてしまっては技にならない様に、見えない、判らないからから術と呼べるわけで見えているものは術の抜け殻みたいなものです。
術は見えないから術であって、見えている現象は術の虚像を見ているに過ぎません。
見えているものに対して追求している間は、「普通」のレベルで、見えないものに眼を向けることで初めて「特別」の世界に脚を踏み入れることが出来るのです。
しかし、見えないものは見えません。どうしようもありません。お手上げです。
「特別」な世界はこのお手上げ状態から出発し、虚像や抜け殻を頼りに見えないものを作り出す作業を行います。
間違ってはいけないことは、この虚像や抜け殻を術だと勘違いすることです。
見えないと見えるものに頼りたくなるのは心情としてよくわかるのですが、見えないものを見えないものとして作り上げなければなりません。
それも機能を兼ね備えなければ意味がないのです。
そして、機能を備えた見えないものが「術」となるのです。
そこには「働き」しかありません。
お手上げ状態から、何もないただ「働き」だけが存在する状態までの距離は途方もなく長く、生きている間にはほぼ行き着くことは出来ないでしょう。
そんなこと、今頃気付いても遅くさいわけで、勘の良い人はとっとと辞める筈です。
辞めそびれたからには、とことん行くところまで行くしかありません。
手の形一つとっても「働き」が伴う形になるまで練らなければなりません。
冒頭に書いた「斬り手」は、剣を持つ右手は当然ですが、それ以上に重要なのが鞘を引く左手の斬り手となります。
「普通」に考えれば、斬るのは右手であって左手は鞘を引いただけで、左手は斬る作業に直接関与していないから余り関係がないように思われがちです。
しかし、「特別」の世界では直接関与する右手よりも、左手の「働き」如何で斬る身体の形が作られ、この左手斬り手の「働き」が右手に持つ剣の機能を導き出す形となるのです。
「普通」は右手の力を高めますが、所詮右手の限られた範囲での能力に過ぎません。
剣の機能を最大限引き出すためには、身体を最大限活用し身体の持つ「働き」を余すところなく剣に伝える事により剣は機能するのです。
身体を最大限活用する時、例えば右手で抜き付けた形であれば、右手から遠くの左半身がポイントとなり、より遠くの左手の作用が「働き」を創り上げるキーポイントとなるのです。
この様な身体の「働き」が一気に剣に乗り移った時「術」と言われる「働き」が表現されます。
右手に目が奪われがちですがそこは虚構の部分で、目には見えない左半身の「働き」が斬るという事実を創り上げます。
目に見えていない部分が「術」の世界なのです。