力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

人とぶつかり合わない技術

イタリア音楽留学された知り合いの印象に残った話がありました。

留学先で日本人の彼女は自己主張が弱く、他国からの留学生にアピールに負け、大事なところを幾度となく持っていかれたそうです。この話はたまたま彼女が個人的に内気と言うよりも日本人の一般的感覚ですが、どうも他国では通用しないウィークポイントのようです。

その点他国からの留学生は、一瞬の時間にも自己を主張する習慣があるらしく、口を開けば自己肯定の話ばっかりでウンザリしていたそうです。

今の世の中、自己主張の強い者が勝ち、弱い者は存在すら認められない、そんな風潮がグローバルスタンダードになり、世界の常識となっているようです。

ですから、日本人の彼女は分が悪いと言える。

のでしょうか?

他国の留学生の様にもっともっと自己主張を習慣づけるべきなのでしょうか?

それぞれが自己主張し、主張の強い方が認められる。そんなグローバルスタンダードに追随しなければ今後日本人は世界から取り残されるのでしょうか?

そこで主張が負けないように頑張って相手以上の主張を行い、主張をぶつかり合わせ相手をねじ伏せた方が勝ちとなるパワーバランスは、力が強いほうが有利となるスポーツの世界と同じようです。

「頑張って相手に勝つ」この形は現代の常識です。

「人とぶつかり合い強いほうが勝つ」同じ意味合いになると思います。

 

今時、古流と言われる武術を稽古していると上記のように自己主張が良しとする考え方では、武術の習得には馴染まない様に思うのです。

侍のたしなみとされる武術は、我を出せば顕在化しそこが狙われる、右手で剣を抜けばそれを咎められ切り落とされる世界なのです。

頑張るの語源である我を張る様な動きを行えば、相手に見透かされ動きを止められてしまう、あるいは行った動きに対して裏を取られるなど不利になることばかりなので、武術では相手に干渉しないように動きを相手に伝えない動きが求められます。

稽古では、相手にぶつからない動きを心がけます。

例えばぶつかるとは、廊下の角で出会いがしらにぶつかる場合があります。

このとき、お互いに外力が加わり一瞬動きが止まってしまい、そして状況に応じて身構えます。人は外力(ぶつかり合う力)に対して身体を護る動作を行います。ですから人は力が加わった時点で身を守る為に身体を固め外力に対して抵抗します。

相手に対して何かしようとか、技をかけようとか思ったり行った時点で相手はこちらの力を拒絶し自らの身体を護る仕草も同じです。

抵抗されたり拒絶されても、それ以上の力でねじ伏せると言う発想は武術にはなく、抵抗されない様に、拒絶されない様にする為にはどの様な力が必要なのかを考えます。

そこにぶつかり合わない力の伝え方が養われます。

相手を取る際も強く握り取れば、相手も相応の力で対応します。

そこで力の均衡をお互いが自然に取り合い、膠着が起こり結果的にぶつかり合う状況に陥りこの状況を打破する為に一般的には力を強めてこの均衡を崩します。

しかし、武術的には力が均衡しぶつかり合った場合(初めからぶつからない様に心がけるのですが)力を強めて均衡を崩すのではなく、力を抜く事でお互いの力関係を崩し自らが有利な態勢づくりを行います。

ぶつかり合うとは、お互いの力関係が拮抗しているから状況が膠着するわけですから、この力関係を崩せばぶつかり合う事はありません。

ただ、力関係を力を抜く事で均衡を崩す場合ほとんど上手くいきません。

 それは、力を抜くと自らの身体が崩れるため自滅してしまいます。

均衡が取れた状態から自らが崩れてしまえば当然相手が有利になるわけで、力を抜くことで自らが有利となる状況を作り出すことが難しいのです。

日本人は文明開化以前までその様な事を考え試みてきたと思うと、「頑張って相手に勝つ」などは近年での発想であり、日本人にとって馴染みの薄い違和感のある行いではないかと思ってしまいます。

もしかしてイタリア留学をした彼女は侍の末裔だとすれば 、ぶつかり合わない様に稽古をして来た動きや考え方がDNAの中に残っているかも、そうであればグローバルスタンダードに馴染みにくいこともわかるような気がします。