力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

型にはまる事が出来れば達人

戦国の時代から武術の稽古はもっぱら型稽古を行い、乱取りなどは近年になってから始まったと聴き、先人ほど型の重要性を感じ取っていた様に思われます。

なぜ、型の重要性が薄れてきたのでしょうか? 

一つには型の紐解き方が異常に難解であることが上げられます。            

代々家伝として受け継がれてきた「型」は家の宝であり財産そのものでした。

家を守るに当たりその財産を次ぎの代に正確に伝える事が重要な責務となます。

また、他流派や外部に型の内容が盗まれない様にする事も重要です。そのために型の紐解き方に工夫がなされています。

簡単に盗まれない様にする為には、今風に言えばパスワードを入れないと解錠しないシステムが備わり、それも単純なファイルではなく圧縮ファイルの様な一見意味不明な状態で解凍しなければ、解読できない内容となっていたと考えられます。

トレジャーハンターの宝の地図と一緒で読み解く事が容易ではないのです。

このように型を紐解くには、宝の地図を解読するほどの難題が隠されており、それを解読して初めて型に近づくことが許されているようです。

大概の場合、独自の発想で解読しようとすれば、ことごとく型にははまらずギャップが生じます。

人の特性として、わからないことがあれば独自に発想を飛ばして理解しようと勤めますが、武術においては、この法則が成り立ちません。

型を理解するには、独自の発想を削除する作業が必要であり、型は独自の発想や個性などのアイデンティティとは真逆の性質があると思っています。

一般的にわからないことがあれば、わかるように自分の頭の中で発想を飛ばしいろいろな可能性を見出そうとします。

しかしそれをしてしまうと独自の解釈と型とがどんどん距離が開いてしまい、型が要求する形には近づく事が出来ません。わからないことをわからないまま稽古を繰り返していると自分の意識ではなく自分の身体が気付いてくれる事があります。型を練るとは、この様に頭で理解しようとするのではなく、身体が納得するまで身体を繊細に捌き色々な動きを試行錯誤を繰り返す作業であり、繰り返して無駄な動きを省き動きが消えてなくなるぐらい、そして力の存在が無くなるまで繰り返す作業だと思います。

また型にはまるとは、型の意図を読み取り再現出来て初めて言える事であり、型にはまる事ができればそこで達人の域に達している事になります。

しかし過去においてそんなに多くの達人が量産されたとは思えません。

武術は、武士の嗜みとして多くの侍が稽古を積んできた歴史があった訳ですが、現代のオリンピック強化選手の様にその世界にどっぷりと浸かった生活を延々と続けていても達人の域には一握りしか至る事ができない狭き世界です。

それ程型にはまる事が難儀で大変で有る事は歴史が物語っているはずです。

先ず型にはまる前に正確に型を紐解かなければなりませんが、その時点で間違ったパスワードを入れてしまいがちです。

型は入力したパスワードに対してそれなりの出力がなされる為に間違ったパスワードを入れたとしても自分が満足すればそれなりの答えが出てきてしまうので、出来た気になってしまいます。

そこが宝の地図と一緒で読み解けないか、もしくは間違った解釈をするかどちらかです。

間違わない様に紐解くためには、家伝を継ぐ者に直伝で教えを請う事がパスワードを解く最高の近道です。

しかし、パスワードを解くヒントを頂いても上手くファイルを解凍する事が出来ず、必ずバグが発生し本来のファイルを開ききる事が出来ません。一番の問題は、自分の身体が自分が思う程思う様には動いてはくれない現実を直視せざるを得ない場面が容赦なく自分に降りかかります。

その受け止め方次第で、宝の地図の描かれている宝が変わってくるのですが、自分という存在がある以上型にはまる事は無理なように思い、どれだけ自分という個性を削り、捨て去り、無くした先に型が要求する答えがあるように思います。

常々、型は過去専用タイムマシンだと感心しており、型にはまる事が出来ればタイムマシンに乗り往年の侍の世界を体感する事ができるということになります。

何百年もの間一生を懸けた達人達が練って練って練り込んだ型は、そう簡単に型通りにはまる事はできません。

 

 

腰が高いと動作が不利になる意味

武術において腰を低く構える事は必須であり常套ですが、意外とこの基本の形が守られていない事がよくあります。

それは腰を低く落とす重要性が理解出来ていない、そして腰を低く落とした方が動作において有利である事が実感されていない場合は、ないがしろにされやすい様です。

長年稽古をしていても、兄弟子から「〇〇さん(私)、なんだか腰が高いような感じがする。」と指摘を受けました。

自分は腰を落としているつもりになっていただけでした。

まだまだ、型どおりの形には程遠い、我流の形です。

頭では腰を低く落とさなければ、腰を入れてとか考えているうちは型にはまっていない状況であり、それさえも忘れて勝手な動きを自分なりに行っているようでは「術」でもなんでもない、ただ運動しているだけです。

師はそのことを「創作武術」と茶化します。

「術」としてのエッセンスが型の中にあるわけですから、型から外れて創作してもたいしたものは生まれません。

そして型を行う以前の問題として、構えが重要になります。

動作を行うスタートの地点で間違った、あるは非効率な状況で動き出してその後正確な効率の良い動作が出来るとは思えません。

「始めよければすべてよし」のように、出足となる形すなわち「構え」ができていなければその後の動きが良くなる可能性はほとんどありません。

その構えの腰つきが高いのです。

一つ言い訳ができるとすれば、兄弟子の言葉が以前であれば「腰が高い」と一喝されたものですが今回は「なんとなく腰が高く見える」との表現でした。

その辺りを自分なりに分析してみると、腰の位置はそれなりに低い様だが、何かに問題があると捉えられたと感じたのです。その何かを改善しなければなりません。

例えはその場で腰を床スレスレまで下げたとしても、見え方は変わらなかったと思われます。それは、腰の高さの問題では無く腰の在り様に問題があった訳で高さを変えても問題の解決にはなりません。

腰が高い在り様とは、床に対して腰が高いのでは無く、肚(はら)に対して高い事に気付いたのです。ですから腰をいくら床に近付けても腰が低いとは言えません。

肚と腰は表裏一体の関係ですが、これらの高さが一致する事が重要です。どの様な腰の位置でも肚に対して一寸でも腰が上がれば腰が高い状態になってしまいます。

腰が上がれば、重心が前方に移動します。重心が前方に移動すれば、脚の前方の筋肉で身体を支えようと筋肉が緊張してしまいます。そしてこの緊張が動きの邪魔になってしまいます。

(一般的には腰を後方へ引く、あるいは身体全体を後傾させ、前に移動した重心を中央に維持させる補正動作を反射的及び自然に行うため重心移動に気付かない)

そんな些細な緊張など大した影響がない様に思われがちですが、明らかに相手に伝わり、影響を受けた相手もその緊張に対して緊張を起こします。

一般的日常動作においては、微細過ぎて無視してしまいがちですが、生物間では感じ取る能力を充分持ち合わしています。しかし、弱い力ほど無視しがちで、無視しても悪影響はほとんどありません。でも、感じ取る能力はないのではなく有り、ただ無視しているだけなのです。

構えを作るとは、この緊張も削除する必要があります。余計な緊張は動きの邪魔にもなりますし、相手や周辺の人に緊張反応を起こさせてしまいます。結果的にこれらの緊張は動作においては不利な条件となってしまいます。

不利な条件となる余計な緊張を起こさせないためには、踏ん張らない位置で立つ事、そのためにも肚と腰の高さを一致させ重心を身体の中心に維持する必要があります。そして、動作を行なっていても身体と重心がずれない様にしなければなりません。

しかし、その状態で腰を落としても、大概腰が肚よりも上がってしまいます。

それは、以前腰を入れるの記事に書いた様に腰を割る事が出来ていない場合、股関節が屈曲してしまい前屈みの状態となってしまいます。

 

nara344970.hatenablog.com

 

腰を低く落とすと重心が低く安定するにもかかわらず、動き易いと言う相対する条件が同時に得る事が出来るのです。

だから、腰を低くそして落とすのです。

その形がきちんと出来た時、「なるほど!これは動き易いわい」と実感されるのでしょう。

その形が出来て初めて型の動作が始める事ができるのですが、そこに至るプロセスはまだまだ前途多難であり、腰を低くするだけでも難儀、それを落とす事もまた難儀。まあ、行きつ戻りつする事が術を練る作業と捉えれば納得できるかなあ〜

柔軟性ではなく手首を柔らかく使う方法

武術における手首の使いは極意に直結する重要な部位であり、特に剣術において得物等の道具を持つためには手首の使い方如何で優劣が決まってしまいます。

また居合における日本刀の扱いも同じく、日本刀を持つ手の内が柔らかくなければなりません。

道具のポテンシャルを最大限活かすためには、道具に直結する手首の使い方や握り方が重要であり、道具の動きや働きの邪魔をしない身体の捌きを行う必要があります。特に日本刀の斬るポテンシャルは、他の刃物に比べて断然高い能力を持ち合わせています。

この高い能力を最大限に発揮させるためには、日本刀自身が本来動くべき動きを日本刀自らが動く。これが太刀筋といわれるものだと理解しています。

自分が太刀を扱っているなど傲慢な考えをした途端に太刀筋は消えてしまいます。

太刀自身が素直に動いて頂く動きに自分が邪魔をしないように、自分が目立たぬ様にする事が太刀に対しての敬意です。

これは精神論ではなく技術論です。

道具の能力を信用しなければ、自分がしゃしゃり出て力でなんとかしようとしてしまいます。そこで道具本来の能力を殺してしまってます。

ただ単に道具の能力を信用しろと言われても心底信用していない自分がいるのは、敬意が足りていない事と道具の性能を持ちあぐねている現れでもあるのでしょう。

もっと道具の事を知らなければなりません。そのために道具に意識が行きそうですが、道具をいくら見つめても道具から答えが導き出される事は無いと思われます。

心底信用出来ていないのは、扱う側の扱い方に明確なそして確信に満ちた動きでない事に道具が表現してくれています。

その扱い方が変わらなければ、道具への信用も深まりません。

道具を知るとはこの扱い方そのもので、道具は扱って初めて能力が発揮されます。道具の能力を発揮させるには扱う能力を高めるしかありません。

便利な道具が溢れる世の中では、受け入れ難い考え方と思われるでしょう。道具の性能を高めるより、道具の扱いを高める事で道具の性能を引き出す考え方もあるのではないでしょうか。

その中で手首や握り具合は道具との接点になるポイントとなります。

道具の性能を最大限引き出すためには、出来るだけ道具に干渉しないように柔らかく接したいものです。

そのためには、手首が柔らかいのではなく手首を柔軟に使うことが求められます。

手首をストレッチして関節が柔らかくなっても、動作をしたとたんに動きがぎこちなく思うように動作できない場面に直面します。

それこそが自分の力で動作の邪魔をしている力となってしまっています。

その様に道具を扱う力が道具の持つポテンシャルを押さえ込んでしまい、能力を引き出せずに終わってしまいます。

そこで力が入りすぎるから脱力しても意味がありません。

力を入れなければ体は動きませんから。

柔らかく柔軟に動作する一つのポイントとして、動きの濃淡を無くすように動くこと。

いくら手首の力を抜いても手首以外の体の部分との力の差があれば力が目立ってしまいます。

どのような場面においても道具を扱うに当たり手首だけを動かすのではなく、身体のいろいろな部分の動きと手首の動きに力の差が生じないように使いたいものです。

逆に言うと身体全体の動きの中に手首の動きを隠してしまう身体の使い方とでも言うのでしょうか。

動きの濃淡を均一にするには、身体は身体、手首は手首と別々に動かしては一向に差は縮まりません。

身体全体の動きと手首の動きを一気に命令を下し、同時並列的に操作をする必要があります。そしてそれぞれの動きを一つの動きとしてまとめ上げた時、角が取れ何にもぶつかること無く自然に動いている様に見える動きが表現でき、その動きはなんとも言えぬ柔らかくまろやかな動きとして見て取る事ができることでしょう。

 

体の力みを抜くために武術入門

小学生の頃から体が固かった事にコンプレクスを持ち、その頃から身体の動きに興味を持ち始め、色々試して最終的に古武術にたどり着いたのです。

武術に興味を持たれる方の動機は「強くなりたい」が一般的に多数を占めるはずです。

体が固いというコンプレックスの解消に武術を選択する人は、珍しいと自分でも思います。

ですから、強くなりたい、勝負に勝ちたい、などの希望は全くなく、世間一般でいうヘタレですので、周囲の人にもあまり武術を行なっているとアナウンスもしていません。

私が稽古する武術と世間一般がイメージする武術・武道とかなりの開きがある様なのでいちいち説明するのも面倒なこともあります。

子供の頃から体が固かったのは、柔軟性が乏しいという感覚よりも力みの感覚が強かったため、この力みを取り去りたい想いが強くありました。

その後、知人から勧められて観たビデオが武術入門のきっかけとなったのです。

その当時武術など全く興味もなく、ビデオを見ても何をしているのか全く理解出来ませんでした。

でも、貸して下さった知人に感想を言わなければならないと思い、数回に渡り見直していると気づく事がありました。

ビデオでは色々技の説明があったのですが、全く意味不明でした。しかし、全ての動きが柔らかいのです。そしてその動きが美しいのです。

その時、自分が目指しているものがこれだと気付きました。

身体が固いのは柔軟性が乏しいからではなく、身体の動きが固いということを。

自分の体を自分の意思で自由に動かせていると当たり前に思っていてが、実は思い通りになど全く動かせてはいなかった。その不自由さが気持ち悪かったのです。

その後、ビデオの主である師に入門を許され現在に至ります。

入門後、師から指導を頂く機会を得て、そしてお話を聴く機会も増えてきました。

このブログは私の気付きを記載していますが、師のお言葉を自分なりに反芻した結果この様な内容となっております。

全ての動きが柔らかくそしてその動きが美しい師は自ら、身体は固く、走っても足は遅い方だったらしく、運動会は苦手で運動会が雨で流れたらと考える少年だったと話を聞いて、光明を見た想いになったのです。

なぜなら、そんな素晴らしい動きが出来る人は元々運動能力が高い場合がほとんどです。

一流のアスリートは、元々運動能力が高い上に努力して結果を出しています。運動会など楽しくて楽しく仕方ないだろうし、他の子とは明らかに違う動きができたので、目立ったに違いありません。

しかし、師は先天的な運動能力は持ち合わせていなかったとおっしゃいます。

ですから、師の身体能力がビデオに映された動きを創ったのではなく、武術の稽古を行なった結果あのような動きが出来上がったと考えられたのです。

ビデオの中でも木刀の柄を左手で巻き取る術があるのですが、その時の左手首の動きが何とも言えない柔らかい動きに感動し入門を決意したのですが、あのなんとも言えぬ手首の動きに未だに憧れだけでその様なはなりません。

しかし身体の柔らかく美しい動きは、術そのもの、術の現れた形そのものですので身体の柔軟性が高いから、身体能力が高いからと言ってもあの手首の動きは出来ません。

武術は身体を動かせば、その動きが全て術になる。

逆に言えば、身体の動きに全くの無駄がない。

それが武術的身体と言われ所以です。

その様な身体に行き着くには、10回ぐらい人生が必要になるでしょう。

 

ピアノ演奏者の重心線について

クラシックコンサートへは年に数回出かけますが、最近気になった演奏がありました。

ピアノコンチェルトでピアノ演奏者が舞台袖から現れた時に腰が引けた状態で歩いて出てこられたのです。

(私にはそう見えただけで、他の方はわかりませんが演奏が終わって妻に話すとそう言われるとそうかな~という程度)

腰でも痛められたのか、その様な状態で演奏出来るのか心配で見ていました。一応お辞儀は普通にされましたが、曲が始まりピアノパート以外の間、右手をピアノに掛け、左足の膝から下を後ろに引き身体を前後で支えている姿勢をとられている様に見えたので、演奏中ヒヤヒヤしながら聴いていました。

演奏は大曲をそつなくこなされ盛大な拍手を受けておられました。

難しい曲を淡々とこなすテクニックは素晴らしかったのですが、何故か私の身体に響いて来なかったのです。

ヒヤヒヤしていた事もあったのですが、演奏者の身体にも響いていなかったのでは?だから演奏者と共鳴することができなかったのか?といろいろ考えていると、演奏等人に響かせるためには、音楽性や演奏技術のほかに身体性が必須の条件ではないかと結論めいてきました。

今回の演奏のように身体性が低下した状態では伝わり方が弱まり、せっかくのパフォーマンスが減衰した形で伝わってしまう可能性がある様に感じたのです。

特に腰という中心が後方に崩れている状態は、座っていても身体が落ち着かず、安定させる為に身体が自然に力を入れて反射的に身体を緊張させる座り方になるはずです。

この緊張は、震わせ響かせる身体の邪魔になることは目に見えています。

緊張を取り除いた状態で演奏を行うには、重心線と身体を一致させる事。

物理的に当たり前のようですが、稽古を通じて本当に出来ていない事を経験します。

それは、自分でも知らないうちに身体が勝手に一致させようと頑張っている様子に気付くからです。この頑張りをほぼゼロにした時一致したと実感します。

 武術的身体を目指す上で身体の重心線は、重要な要素であり常に意識して捉えなければなりません。それは、重心線の位置に身体を維持することにより身体の重さを消す事ができるからです。

身体の重さが無くなれば、軽々と身体を扱えるイメージはできると思います。

重心線という実際には存在しない抽象的なものは重さもありませんので、その上に身体をきちんと合わせられた時本当に身体の重みが消える事が実感できます。

ただ、重心線はどなたにも何にでもあるのですが、きちんと当たり前にそこにしかない状態を作り出すことが難しいようです。つい力で維持しようとしてしまいます。

まして、動作を行えば必ず重心及び重心線は移動します。

この移動においてもつい力で行ってしまいがちです。力を出力することで重心線から身体が外れてしまいます。そこで重心線と身体の位置関係にズレが生じ、そのズレを補正するため新たに力を出力してしまうサイクルが出来てしまいます。

そうではなく、力を出力せず身体を動かす方法を取ることでズレを生じさせない動きとなるのです。

身体に力を入れて動かすのではなく、身体を支えている力を抜くことで重心線が倒れ掛かる様に動くと共に身体を捌く身体の動かし方。

イメージで言うと大木を切り倒す時に、無理やり引き倒すのではなく根元で楔形に切り込んだ方向に勝手に倒れる感じでしょうか。

大木であれば重心線と大木自体のズレはないはずですですが、ヒトはどうもグニャとズレてしまい易いようです。。