力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

ピアノ演奏者の手首の重要性は居合術と一緒

この度楽しみにしていたショパンコンクールが一年延期となった。

妻の一押し牛田智大さんの活躍を期待していたのに大変残念です。

ショパンコンクールといえば、往年の横山幸雄さん が思い出され、以前手元が良く見える席から氏の手首を見たとき大変参考になった思い出がありました。

全くぶれない氏の手首は、空間に止まって見えているにもかかわらず、複雑な身体の動きの中に包括されていた。

ピアノにかかわらず、人が道具となる物をコントロールするためには人と物とを結ぶ接点は手首であり、この有り様如何で道具が生きるか死ぬかが決定されるといっても言い過ぎではないと思う。

武術における、剣術や居合術など武器となる道具を扱うために、いの一番に手首の操作を学ぶのです。

それは一番基本となるからなのですが、基本の概念が昔と今では全く逆転してしまっているので、現代人にはピンとこないでしょう。

現代人の基本に対する概念は、礎となる大切なモノが最初にありそれを先ずマスターし、そこからステップアップして高度な技術を手に入れいく感覚ではないでしょうか。

だから、最初の基本がきちんとできていないと後が続かないという感じ。

いにしえの基本となる概念は、礎となる大切なモノがイコール極意になります。

ですから、いきなり頂点から学び始めます。

21年前、師から初めて手渡された直伝の技が「極意」だなんて知る由もなく、わけもわからずほぼ毎日続けているうちにようやく気付いたところです。

そんな難しいことをしようとしているのか。

だから、極意なのでしょう。

だから、時間を無駄なく使うために初めから学び始める、後々などといった悠長なことを言っている暇がないほど早々に学ばなければ、人生が終わってしまうぐらい大変なことなのでした。

その極意の中に手首の働きは、大きなウェイトを占める要因となるのです。

基本イコール極意。

手首の働き、これはいくら眺めていても見えては来ません。

それは手首に着目するのではなく、働きに焦点を当てなければ先には進みません。

しかし、目には見えない働きを自覚するためにはするべき事があります。

現代風であれば、客観的に捉え誰にでもわかるような形にしなければなりませんが、武術にしても芸術にしても「術」と名のついているものはその必要はないのです。

なぜなら、「術」は人には理解できない技、人智を超えた技だから。

理解不能だが人には伝わる、影響する。それが術の本質です。

ただ、人に理解されなくとも自分の中では確固たるものを作り上げなくてはなりません。それが、術なのか自分よがりの産物なのかの判断が非常に難しくはありますが。

答えは、人に影響を及ぼしているか否かで判断できるのでしょう。

そんな影響力のある手首の働きを早く表現してみたいものです。

とはいえ、いろいろ試行錯誤しているうちに手首をある角度にすると痛みが発していることに気づき、方向性がズレている判断材料にする日々は続きます。

それでも少しずつ薄皮を剥がすように動きに修正を繰り返し、20年過ぎればちょっとは変わったかなと思えるように稽古を積み重ねるしかありません。

ピアノで手首を痛めたり、腱鞘炎になったり果ては意にしない動きが発動されたりされなかったりトラブルはいろいろあると思います。

それは、たまたま神様が罰を与えたのではなく、まだまだ改良の余地がある知らせと取り、自分の知らない自分を探し出すきっかけと考えれば、まだすべきことはあるはずです。

自分の身体は自分の意のままに動くと考える事は一見当たり前のようですが、ちょっと稽古をしている人ならば、そんな事はありえないと言うでしょう。

そんな事があり得たら、皆んな名人になってしまいまいます。

自分の身体は自分の意に沿ってはくれません。

 名人になる人は、そこを超えてきた人。(現代の有名人とは違います)

 

今言える手首の働きは、身体全体の動きの中に手首の動きが包括され手首の存在がなくなること。しかし働きは存在する。

そんな働きのある動きと身体で創られた働きが100%道具に伝わる形。

100%なんです。

95%ではダメなのです。

95%では術にはならず100%になって初めて術になる。

100%だから術。

その術の中には力の存在は有りません。