力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

稽古と練習の違いは武術と武道の違い

稽古と練習の違いを述べる前に、武道と武術の違いについて個人的なイメージを述べます。

歴史的に元々戦いの方法論として武術があり、これに基づき実践が行われてきました。

そして、近代になり実践を伴う事がなくなり方法論より精神論が幅を効かせる武道が発展してきた経緯があると思われます。

ゆえに武術=(術)方法論に対して武道=(道)精神論>方法論

なので、武術から発展した武道は武道により練られた身体は高い精神性を有することになります。

何れにしても、それぞれの能力を高めるために身体や精神を高める努力を行います。

しかし、その方法論として行う行為に武術と武道の違いがあり、方向性は全く正反対の性質があります。

武道における自己能力の向上には、今まで以上の能力を高めるために過去より現在を重要視している事。

この傾向は武道にかかわらず、運動学やスポーツ学においても同様の方向性です。

最新の科学的根拠に基づいて身体能力を高める行為は、常にアップデートを望み古いデータより新いデータが有利である。時には過去のデータや常識が全く覆される事もあります。

問題点として、過去に培ったデータや実績がある日突然無意味なものになるリスクが潜んでいて、過去が生かされないデメリットがあります。

武術における自己能力向上には、過去が基準になり常に現在から過去の方向に眼を向け過去に行われていただろう操法を再現する事に徹します。

過去とは、原点である流祖に遡るだけでなく、流祖から現在に至るまでの間に数多くの先人たちが命がけで練った実績も含めた経緯を指し、全て含めると一貫した事柄が膨大な情報量として蓄積されているのです。

武術はこの過去の膨大な実績を齟齬なく表現する事が求められます。

これこそ、歴史に学び正確に読み取らなければなりません。

手首の使い一つとっても壮大な過去の実績を踏まえ「ヒョイッ」と行うのです。

ただ、その「ヒョイッ」とした動きが、壮大な過去の実績を踏まえたものなのかどうか判断がつきません。

問題点として、歴史を読み違えると術としての機能が消失してしまい、長い歴史の中で淘汰された術が無数にあっただろうと推測されます。

以上から志す視線の方向に武術と武道の違いが表され、前者は稽古で後者は練習のイメージが感じられます。

稽古でも練習でも上手くなればどちらでも良いと言う声も聞こえてきますが、武術を行う以上稽古にこだわる必要性があります。

上記にも書いた先人の知恵や思いが含まれ、それを読み解く事が稽古の本題と言えます。それは単なるデータではなく、先人が一生を賭けた術の結晶であり、その様な積み重ねられたものがそう簡単に理解できるはずがありません。

このような表現をすると思いや考え方となり精神性にリンクする懸念が伺えます。

稽古の難しいところは、難しいところを精神性にシフトしてしまい、そこに答えを求めてしまう危うさがある事です。

難しい事を難しいまま稽古する事が大変難しく、つい難しい事を理解するために理解しやすく簡略化する傾向があり、それを行うと難しいという本質が消えてしまいます。

稽古にしても練習にしても、繰り返し繰り返し同じ事を反復する意味が込められていますが、その繰り返しの中にその行為は何を求めているのかを見極める必要があり、それを目指す事が本質を求める事になるのでしょう。

その本質を求めるために術を極める人たちは翻弄するのでしょう。

自分自身の中に本質を求める旅は、まるで暗闇の中で手探りで探すようなものだと思います。

真っ暗な自分自身の中に光を与える事が、本質を掴む最善の方法です。

しかし、真っ暗な自分自身の中にある本質を探し出すにも自分自身で自分に光を当てる事はできません。

ではどの様にして光を当てるのか。。。。

それは練習ではなく稽古するしかないと思われます。