力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

口伝とはタイムマシンのキーワード

奈良の春日大社は、今年第六十回の式年造替(しきねんぞうたい)を迎えました。

二十年に一度、神様の居られるお社を建て替える行事です。

20年に一度の行事が60回続いているって凄くないでしょうか。

1200年間途絶えず、また当時から変わらず行事を執り行なわれる事と以前と同じお社を造る事、両方ともが続いている事が素晴らしいですね。

特に宮大工が造るお社には設計図がないことを聞いて驚きました。

普通に考えると代々続けるためには綿密な設計図を残し、次回に備えているように思えそうですが。

まして、20年だと一人の職人が1回よくて2回携われるかと云うような機会の作業を口伝で伝えているのです。

大切なノウハウを盗まれないように配慮する事も解らないでもないですが、1200年も繋がっているということは、最良の伝え方であることは時が証明しています。

一見あいまいな伝え方のようで、途中で違う伝わり方になったりして、口伝えだけの情報だけで正確に伝わるものなのでしょうか。

大切なことは、伝えられた内容をどの様に解釈するかが重要ではないでしょうか。

特に言葉は抽象的になり易いので、解釈にばらつきが生じてしまいそうですが、そこを正確に読み取る能力が必要になります。

一度聞いた言葉を繰り返し繰り返し反芻するうちに、初めに聞いた時と違う感覚が芽生え始める。

一つの言葉について受け止める感覚が変わってくる瞬間があります。

受け取り方が、初めと180度違うこともあるでしょう。

口伝で伝わる情報は、パソコンでいうと圧縮ファイルみたいなものでいかに解凍を正確に行うかで出てくる結果か変わってきます。

圧縮ファイルを表面的に見ていると、解凍した時と全く違う情報になってしまいます。

そのところをより深く読み取ることで過去の情報が生のように再生されます。

これはまさしくTime Machineとしか言いようがありません。

口伝に含まれる情報を正しく解凍できた時、まさしく生の情報が再生され過去と寸分変わらず全く同じ状況を再現することが可能となるのです。

技の伝承とは過去に経験され、そこから導き出された言葉の断片の意味を反芻う

することで同じ境遇に至る過程が、正しく解凍する作業といえるのではないかとおもいます。

一つの言葉を聞いて百を知るために、その言葉の意味を考えて考え抜き、身体的表現ができた時、Time Machineが作動した時となるのでしょう。

Time Machineが作動したとき、設計図がそこに現れるので設計図が必要ないのかもしれません。

設計図は口伝というTime Machineの中に隠されているように思います。 

 

 

 

 

お辞儀も技の一つ その2

お辞儀をする人の横から他の人が腕に巻きついた(抱きついた)状況があったとします。

 

普通はこの状況からお辞儀をしようとすれば、巻きついた人が邪魔になり体を前方に倒すことが出来ません。

 

しかし、協調されたお辞儀が出来れば巻きついた人共々前方に体が倒れ、巻きついた人はそのまま前下方に崩れてしまいます。

 

普通は巻きついた人に制御されてしまいますが、強調されたお辞儀は人を制御することが出来るのです。

 

見た目にはほとんど違いはわかりませんし、科学的分析に対しても評価が大変困難となるでしょう。

 

違いのポイントは、動き方に対して動きを感じる感覚をコントロールしていることです。

 

普通のお辞儀は、腰を折りますので腰を中心に上半身が回転運動を起こします、すると腰の部分の回転速度と肩の部分の回転速度に違いが生じます。

 

また、腰が動き出してから肩が動き出すまでにタイムラグも生じます。

 

腕に巻きついた人は、これらの速度差や時間差を感じ取る事が出来るので、経験的に動きの予測がつき、その予測に基づいて態勢を整え安定した状態を自然に作り出します。

 

結果的に腕に巻きついた人は動きの予測をし、その動きに対して安定するように対応しているのです。

 

ですから、動けば動くほど人は安定しようとしますので余計に動きを制御されてしまいます。(安定する力以上の力で動けば動きますが、それは技ではないと思います)

 

逆に協調されたお辞儀は、予測が困難な動きといえます。

 

上半身が前方に倒れる動きは、腰の回転運動の結果倒れるのではなく、腰、背中、肩、首や頭など上半身のそれぞれの部分がそれぞれ下方に動きます。

(下方に動くと同時に前方に重心移動が起こるので、動きは、下方と前方の合成された前下方となります)

 

また、下方に向かう移動距離はそれぞれ異なります。

 

単位時間あたり、腰は少ない距離ですが、頭はたくさんの距離を動く事で真っ直ぐ上半身が倒れることが出来ます。(それぞれの部位の動き出すスタートが一致し、それぞれが同時にゴールする動き)

 

このように同時にそれぞれが異なった動きをして一致した結果上半身を倒すことが出来ると回転運動が直線運動に近づき、直立した位置から前屈した位置まで最短距離で移動することが出来ます。

 

(上半身のそれぞれの動きが直線的に動くためには、胸の働きがなければ真っ直ぐ動くことが困難ですがそれは後ほど・・・)

 

この様に無駄な動きを排除し直線的に動くと速度差がなくなり、それぞれが同時に動き出すと時間差もなくなります。

 

人は速度差や時間差などを頼りに、動きの感覚を感じ取りますが、速度差や時間差が感じる前にいきなり動かれると、どのように動いたのか混乱してしまい対応できなくなってしまいます。

 

対応できないということは、動きに予測がつかないのでどのような動きに対してどのように体勢を保持すれば良いかが理解できないままに、抵抗もできず動かされるままに動かされてしまう結果となります。

 

お辞儀をする上半身は全てが下方に動き、上半身が前方に倒れるため重心が前方に移動します。

 

したがって、腕に巻きついている人共々下方と前方の合成された前下方に倒れていきます。

 

感覚として力ずくで倒されると、引っ張れれたと感じ取ることができますが、強調した動きで動かれると、何が何だかわからないが倒れてしまった様になります。

 

申し訳ありません。

 

よくわからない説明になってしまいました。

 

結局、力を入れなくても人を動かすことが出来る一例を挙げたっかったのですが。。。

 

そうゆうこともあるってことで、終わります。

お辞儀も技の一つ

頭を下げることを会釈といい、深く上半身を曲げるとお辞儀といいますが、きちんと出来ているでしょうか。

 

頭を差し出す行為は、相手に対して敵意がないことを表しているそうですが、その頭を下げる行為で自分の気持ちが相手に伝わらなければなりません。

 

形だけのお辞儀と心からのお辞儀は、動きに違いがあり、違いを動作で表すと、形だけでは身体の表面しか動いていないのに対して心からでは体の奥深い部分から動き出している違いがあります。

 

動かし易い首だけをペコペコと動かす動きは、動かし易く、表面的な少ない筋肉群だけで動作することが出来るので楽に行うことが出来ます。

 

表面的な動きは、動作に深みがなく薄っぺらい動きに見えます。

 

一方で、体の奥深い部分を使う動き方は、多くの筋肉を動かし連動させなければならないので簡単にはいきません。

 

そして、上半身を曲げる為にいろいろな部分が動きに参加して初めて連動となります。

 

ですから、腰を折るだけで上半身を曲げることは出来ますが、この単純な動きは表面的な動きと変わりません。

 

心からのお辞儀は、身体的にも高度な動作になるので難しいです。

 

高度な動作とは、動きの連動が複雑でまたそれを同時に行うことです。

 

お辞儀をする時は、腰が前に曲がり、同時に背中も前に曲がり、同時に首も前に曲がる(三つのことを同時進行することは結構大変です)と腰だけが前に曲がる動作とでは同じように見えるのですが、なんとも云えないまろやかさが現れます。

 

背骨が一個ずつ少しずつ動く前屈みと腰だけが一気に動く前屈みでは違うのです。

 

しかし、現代科学ではこの違いの評価はまだ出来ているようには思えません、また芸術性の評価も同じでしょう。

 

また協調されたお辞儀は、重心が前方に移動します。

 

単純なお辞儀は、動きがばらつくのでバランスを取る作業を行うため重心が固定され重心の位置は動きません。

 

これが意味することは、お互いお辞儀をする時などの場面で、先に強調されたお辞儀をすることで相手の懐に入り込む(重心が相手に近づく)ことで相手の動きを先に抑えることになるので、相手の動きを制止することになるのです。

 

お辞儀は、敵意がない証であると共に自己防御でもあると思います。

 

ビジネスの場でも協調された美しいお辞儀を相手より先を取ることで、そこで相手より一歩リードしたことになり、また相手に踏み込むことで有利に立ち回ることが出来るのではないでしょうか。

 

相手より先に美しいお辞儀を心がけましょう。

 

 

エフゲニーキーシンの飄々とした演奏が好きです

先日リストのラ・カンパネラを生で聴く機会がありました。

 

音もさることながらあの超絶的な指の動きに驚き、改めてユーチューブで有名人の聞き比べをし、中でもエフゲニー・キーシンのあの飄々とした奏法は素晴らしいと思ったのです。

 

あれほど目まぐるしく指を動かそうとすると、つい力が入ってしまうようなものでしょうが、力みなく動き続ける彼の指使いに感心しました。

 

普通は激しくなればなるほど力が入ってしまいがちですが、激しくとも涼しげに動く彼の指は力感を感じさせることなく、淡々と鍵盤を捉えていました。

 

超絶な技法になればなるほど、力を抜かなければ曲についていけません。

 

力を入れて鍵盤を叩き、また指を力で引き上げてなんてしていたらまったく間に合わないでしょう。 

 

動かすために力を入れると、次は力を抜かなければなりません。

 

その間に必ず一旦停止する瞬間があり、その瞬間をいくら急いでも無くすことは出来ません。

 

結局、力を入れると抜くために動きが止まり、その間が徐々にズレを生み、そのズレを補正する為に急いで動かそうとすると余計に力に頼ったり焦ったりして、本来の動きから逸脱してしまうのではないでしょうか。

 

力を入れるから抜かなければならない。

 

ではいっそう力を入れなければ抜く必要もないのではないでしょうか。

 

力を入れなければ動けないではないかと、突っ込まれてしまいます。

 

ごもっともなのですが、力の入れ方に工夫を凝らしてみる必要があります。

 

この工夫により力をいかにも入れていないように振舞うことが出来るかがポイントとなるでしょう。

 

その一つとして、一筆書きで描く動きを行ってみる。

 

動作を区切らないことで、力を入れたり抜いたりの作業をショートカットできるのではないかと云うことです。

 

言い換えると、ずっと身体が動き続けていることで力のテンションが保たれると止まる瞬間がなくなります。

 

ピアノの演奏に限らず動作を行う時は、動作動作を繋ぎ合わせて一連の動作とします。

 

このとき動作が一旦止まって、また動き出すような極端なことがなくても、動作を繋げた動きは、その繋ぎ合わせの瞬間に動きが滞ります。

 

それは、動作に角ができた時です。

 

動作に角ができた時、一筆書きが途切れた瞬間となり、また動きが始まる瞬間となります。

 

このとき、力を改めて入れなおす作業が力を入れる状態と同じに感じられるのです。

 

ですから、この力の入れなおす作業をしなくて良いように、継続的に動作を続ける事。

 

角ができないように動作を続けるためには、角を出来るだけ丸く使うことです。

 

 

一流の人達は実際の腰の位置も低いです

一流と呼ばれる人達は腰が低い態度だけでなく、実際の腰の位置も必然的に低くなります。

 

腰が高いとスタイル良く見えるますが、スポーツや武道では禁忌とされます。

 

それは動作を行う前の構えの時点で腰が高いと身体が不安定になり思ったようにコントロールすることが出来なくなるのです。

 

日常動作では、腰を落とすと動きにくくなり腰が高いと体が動かし易いですが、正確に身体の動かそうとすれば、先ず一番重たい腰を一番に動かすことが先決です。

 

その重たい腰に身体のほかの部分が形を崩さないで着いて行く事が重要であり、腰以外の部分が先に動いて最後に腰が動く動作は、腰とその他の部分にブレが生じ形が崩れることになるからです。

 

効率的な動きは美しく崩れないことが特徴です。

 

腰が高いと腰以外の部分が動きやすくなり、腰とほかの部分で動きの分離が起こってしまい、動きがばらばらになりまとまりのない動きとなり、正確さを欠きあいまいな動きとなり動きが伝わらなくなります。

 

人に影響を及ぼす動きをしようと思えば必ず腰を低く落とすことです。

 

腰を落とせば、必然的に体が真上に乗り易くなり、身体のバランスがより安定的に取り易くなります。

 

(これは初歩的な身体の使い方で、上級者は腰を低く落とさなくても腰に体を乗せる事が出来るので、スクワットみたいな形にはならない。)

 

低い腰構えは重心線が体の中にあるため、体の重さを利用して体を動かすことが出来るため余計な力を入れなくても体を動かすことが出来るメリットも加わります。

 

腰が高いと体が腰に乗り切れず傾き、体が傾けば体の重心が体の外に出てしまうので重さを利用して体を動かすためのエネルギーが少なくなるので、筋力を利用しなければ動けないことになるのです。

 

そうすると、本来の動きの中に不必要に力が入ってしまい素直な動きが消えてしまいます。

 

本当に少しのブレ、少しの傾きで体が崩れれしまい、伝えようとする力が抜けてしまうのです。

 

そして力が抜けるから、勝手に力を入れて動こうとすると本来の形や動きではなくなります。

 

この時の動きはすでに、伝えるべき形や動きが何もない状態となってしまっています。

 

形や動きは良く似ていても何も伝わるものがない形や動きは、いわゆる形骸化した動きと云うことになるのでしょう。