力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

身体の力が抜けず脱力方法を意識しても力が抜けない理由

身体の力みを感じて半世紀が過ぎ、今まで脱力する使い方を意識的に色々と行なって来たが、ようやくわかった事は意識的に色々と脱力の使い方を行なってもあまり意味が無かったと言う結果に落ち着きました。

なぜなら身体をコントロールしているのはほとんどが無意識イコール自律神経系が支配しているわけで、意識が身体の動きに関与する割合は多くはないからです。

トイレに行くだけでも方向を決めたりドアの開け具合を調節したり膀胱括約筋のコントロールと、そのような事をいちいち意識していたら大変です。ですから、身体が自動的に無意識に自動操縦で勝手に動いてくれていますので、寝ぼけていても用が足せるのです。

身体に力が入り過ぎて、脱力出来ない対処法は、無意識の作業に対して意識的に関与しなければならず、その様な事が出来様になるには、インドに行ってヨガの修行をするしかない様に思います。

無意識が力を入れよと判断しているのに意識的に力を抜こうとしても余り意味がないのではないでしょうか。

ただ、問題は無意識下で身体にそれだけ力を入れなさいと判断しているわけで、何かしら力をそれだけ入れなければならない理由があるはずです。

無意識下でそれだけ力を入れなければならない理由を明らかにすれば、その理由に対して意識的にアプローチする事には意味がある様にも思えます。

なぜ身体は余計に力を入れよとするのか?

日常の場面でもスポーツの場面でも慣れない場面は緊張したり力が入り過ぎる事がよくあります。

慣れない場面は、居心地が悪かったりポジションが決まらなかったり身体の在るべき場所がしっくりとこないシュチュエーションとして想像できます。

この身体の在りようが力を必要以上に入れてしまう原因となるのであれば、この身体の在りようを変える事で、必要以上の力を抜く事が可能です。

居心地の良い環境は広い意味で身も心も快適な状況に身を置いています。

また、スポーツの場面でもシッカリと訓練された身体は、効率の良いポジションを会得しベストな動きができる身体の準備が出来ています。

これらの身の置き方次第で力の入り具合が決定されるのではないでしょうか。

ベストな身の置き方をすれば、効率良く動く事が出来力の出力は少なくてすみます。しかし、居心地の悪い身の置き方をしていれば身体を制御する自律神経系は自分にとって快適な状況に近付けようと自動操縦で身体をコントロールし始めます。

この自分自身が気付かない作業が厄介です。

自分が意識しなくても自分の身体が良かれと判断し、自らをコントロールする時に力を使ってしまいます。

ある意味このコントロールが身体のそれらしい振る舞いをしてくれるのですが、力でコントロールする以上、コントロールすればするほど力が過剰に入ってしまいます。

この作業をする必要のない身体の状況に出来れば、過剰な力も必要がなくなるわけです。

そのためにも、「構」が極意であり重要になります。構は動作を行う前段階の状況で、この段階で身体が整っていれば力は必要ありませんが、構が崩れていれば身体は無意識的に姿勢を整えようと力を使い始めます。

無意識に入れた力は、意識で力を抜こうとしてもコントロール出来ません。

それは身体保持に無意識の自律神経系が、自分の思いとなる意識より優先されるから他ありません。

そこで力が抜けないと諦めるのではなく、構となる姿勢を整えて力を入れる必要の無い身体の在りようを見つける必要があります。

普段から、身体に力が入り過ぎて脱力出来ないとお感じの人は脱力に努力するのではなく、構もしくは姿勢もしくは身体の在りようを見直されてはいかがでしょうか。

 

 

指先の力が抜け腰と繋がる時響きが生まれる

雨の中ザ・シンフォニーホールへ日本センチュリーの定期演奏会に出かけ、ラヴェルボレロを初めて生で聴きました。

その前にフランスの山人の歌による交響曲なるものも初めてです。

ピアノは横山幸雄さんで、オルガン席だった為ピアノの音は殆ど聞こえませんでしたが今回アンコールにラヴェルの道化師の朝の歌を弾かれじっくり聴く事が出来ました。横山幸雄さんのピアノコンチェルトは以前聴いたことはあったのですがソロで聴いたのは初めてでしたが響きが腰に来たので感激してしまい、リサイタルも行ってみたくなりました。音楽的感性の全くない私は身体特に腰で共鳴することをコンサートでの最大の楽しみとしています。

オルガン席は、指揮者が良く見えるので個人的には好きな席です。いつも身体の動きを気にしているので聴くよりも見る意識が強くなり、指揮者の身体操作が非常に興味があるためです。

そして、今回のピアニスト横山さんの手元も上から大変良く見えました。

軽やかな手元は、指を丸く使いニャンコの手の様な特徴的なタッチが結構多く見られたのですが、それを見て剣術の手首の操作に共通する動きに気がついたのです。

「切先を効かせる」剣術においてその様に使う場合があります。

切先とは剣の先端部分であり、効かせるとはこの先端部分に力を集約させ剣をコントロールし相手との接戦で相手の剣を通して相手を崩す操作を行うことがあります。

しかし、実際やってみるとわかりますが(箒みたいな棒でどなたかの膝付近に箒の先っちょを軽く当て、横にはたいてみて下さい。)なんともなりません。切先を効かすことが出来れば軽く当てているだけでも受ける人の腰が崩れます。

両手の間隔を広げ力一杯押さえ込めば相手が崩れるかもしれませんが、それは力の作用なので技とはいえません。

「切先を効かせる」ためには、指先の力具合と手首の操作と力の出所である腰の作用を制御し一致した動きを腰から手首を通して指先まで繋げなければなりませんがそれがようやくわかったものの上手くいきません。

演奏中の横山さんの手首は、空間において全く動いていませんでした。表現が難しいのですが、ぶれていないという事。

普通にニャンコの手みたいに指を動かせば必ず手首はぶれますが彼の手首は空間にピタリと止まっていたのです。

素晴らしいと思うとともにあの手首の使い方だから指先イコール切先を効かせる事が出来る、すなわち指先に力を集中させる事が出来、結果的に指先の力が必要なくなるはずです。それは、指先は作用点であり力点は腰(広背筋の下部)で腰からのエネルギーを支点となる手首でエネルギーをロスせず指先に伝える事ができれば、指先に力を入れずに指先を効かす事が出来る。はずです。。。。。、

今まで無数の仮説を立ててことごとく実証出来ず崩れ去って来ましたが、仮説の精度が徐々に上がって来ている感じはします。今まででしたらあの手首を見ても気付かなかったでしょうが感性が高まることで見えないものが見え出す事がある。そして仮説を実証する為にあの手首の使い方が表現できるように稽古しなければなりません。

一流のピアノ演奏と切先を効かせる達人の技は、普通の身体操作では絶対表現出来ません。同じ事を繰り返していても身体操作はどんどん変換され同じ動きでも全く質の違う動きが生み出されなくてはなりません。その結果響かせる事が出来、また腰を崩すことが出来るのでしょう。

楽器演奏で音を共鳴させ響かせることと武術で相手を崩すことは、相手を取るという意味で同じ行為といえるでしょう。

あとは手首を制御し広背筋の下部で指を動かす事が出来る様に稽古しなければなりません。

意識せずに出来る人は出来ても、出来ない人は出来る様に稽古するしかありません。

 

効率よく動くためには直線に動く身体に作り変える

効率良く動くとは真っ直ぐが基準となる動きを示し、点Aから点Bまで最短で移動するには当然曲がるより真っ直ぐの方が有利である事は明白です。

剣が基準となる武術の動きは、相手より一瞬でも早く動く事が生死を分ける必須条件ですので直線の動きを常に意識する必要があります。

しかしヒトの関節を基準にした動きは必ずと言って良いほど関節を支点とした回転運動になるため、一般的な動きは曲線を描く動きが主となる傾向があります。ですから、武術的身体操作の特徴は普通に動作する回転運動を行なう動きを直線運動に変換しなければなりません。

そのためには関節の動きを複合させる必要があります。

一つの関節を単純に動かせば関節を支点とした回転運動になりますが、いくつかの関節を組み合わせ、同時に動く事で結果的な動きは直線運動に成り得るのです。

この関節の動きの組み合わせが技となる条件の一つなのですが、普通に組み合わせても直線は生まれません。押すべきところを引いてみたり、上げるところを下げたりとことごとく日常的動作の真逆を行なう事で直線運動が生まれる印象です。

その様な日常的動作の真逆を行く動きは、日常的動作を行う者にとって想定外の動きとして認識されます。

日常的動作であれば、経験的に想定される動きに従って対応する事ができるのですが、普段経験する事もない動きをされるとヒトはパニックを起こし思考停止状態に陥ります。そこが技になるエッセンスなのでしょう。

普段経験する事もない動きが、人間離れしたアクロバティックな特殊な能力を持った人だけが出来る特殊な動きと言う事ではなく、本来動くところが動かずに、動く予想をしていないところが動いて、普通によくある一般的動作をされると混乱して対応ができなくなる。そんな普通の動作を普通では無い動きに変換する作業を古武術の稽古の中で行なっています。

私は毎週県立体育館の柔道場で稽古をしていて、そこには監視カメラが設置され管理事務所のモニターに映っているのですが、きっとそこに映し出されている映像だけを見れば武術の稽古風景には見えないだろうと思っています。

一般的にイメージされる武道稽古とは違う印象になるでしょうか。

そんな事を何十年も続けていると、物事の捉え方などが今の世の中にある一般的通常概念や考え方との間にすれ違いが生じて現代社会で行き場のない状況を自ら追いやっている様です。

家族にも変人扱いされ、「その考え方は間違っている」とよく妻に言われます。

しかし、点Aから点Bに曲線で動くよりも直線で動きたいし、前に歩き進めるには後ろに力を加えその反動で前に出るよりも前に倒れる事で脚が前に出る様なそんな身体の使い方をしたいのです。

身体の中の使い方で動きの質が変わる

電車を降りてプラットフォームから改札へ上がる階段を人波にまぎれて上っていると、周りの人達が左右に身体を揺すりながら上がられている事が結構気になる今日この頃です。

階段を上がる時や下る時は、平地を歩く時よりたくさん脚を上げたり下げたりしなければなりません。そして脚を上げている時間も長くなるので、階段の昇降は面倒な動作の一つです。

そこでヒトは効率よく階段を昇降しようと企みます。

脚を高く上げるより、脚を上げた反対側に身体を倒し倒れ掛かる角度が強ければ、より脚を上げずに済みます。また身体を左右に振ることで脚を上げている時間も短縮できバランスも取りやすそうです。

きっと、朝のラッシュ時間より夜のラッシュ時間のほうが身体の揺れ幅が大きいのではないかと想像します。

皆さん疲れると身体を動かすことが億劫になり、身体を動かさないように省エネで動作するのではないでしょうか。

身体を動かさないように省エネで動作すると、見た目に身体が大きく動いているように見えます。

近所のスーパーで老齢の御婦人が身体を左右に大きく揺すって歩いている姿を見ていても、重心を左右に振り捻る事で脚を出しているだけで関節や筋肉を可動させている様には見えないのです。まるで紙相撲の人形が振られているだけで、ほとんど身体は動いていないようです。

見た目は動いているように見えても、実際の身体の動きはほとんど動いていません。

動作が出来ているので、身体が動いていると思っても実際は身体が動いていない場合があります。

逆に身体が動いているとはどのような場合があるのでしょう。

例えば、重心が左右上下の移動を最小限に制御されたお能のすり足などは非常に身体を巧みに動かさなければ出来ない動作だと思います。

やってみるとわかりますが、片方の脚を上げて前に進もうとすれば必ず腰がグニャっと反対側に押し出され、重心が反対側の脚に乗り、重心の奇跡は左右にカーブを描きます。

また、脚を前方に出せば腰が下がり重心が上下動する事により、重心の軌跡は上下にカーブを描きます。

真っ直ぐに進もうとしても現実は真っ直ぐ進む事が出来ません。なぜなら自分が動こうと思った動きとは違う動きが起こってしまうのです。

当然といえば当然なのですが、身体は反射的にバランスを取ろうと勝手に身体を動かし制御を行います。そこで意図しない動きが含まれてしまいます。

お能の摺り足などは、身体が勝手に動く意図しない動きを起こさせない様に綿密に筋肉を動かし重心を制御し、重心がカーブを描かずほぼ真っ直ぐに進む事が出来ます。真っ直ぐ歩くなんて途方も無く難しい動作と言え、この様に身体を制御する為には繊細に巧みに多様に動かさなければなりません。

老齢のご婦人の歩き方とお能の摺り足は、同じ様に身体を前に進める動作ですが身体の動き方と身体の使われ方は全く異なる動作です。

よく動いている様に見えても身体はあまり機能していない動作、反対にあまり動いていない様に見えても身体が巧みに機能している動作。

武術や身体藝術、楽器演奏などは、身体の使い方でパフォーマンスの質が如実に変化する典型です。

見た目は同じ様な動きに見えても、身体の中の動きの違いにより結果に現れる作用に違いが出るはずです。

色々な事を表現する為には必ず動かなければなりません、その動きの発端を身体の表面が動く以前の身体の中ですでに始まっている。その見えていない動きこそ動きの本質になりえるのではないでしょうか.。

 

筋肉の働きはエンジンではなくハンドル

野口体操の故野口三千三先生の著著に「筋肉はエンジンではなくハンドル、エンジンは身体の重みで筋肉はその重みをコントロールするハンドルである」様なことが書かれていました。

野口先生の著書を初めて読んでから約30年が過ぎてようやく意味が飲み込めたのです。東京藝術大学の教授であった野口先生の著書「からだに貞く(きく)」「重さに貞く(きく)」を身体の動きに興味を持ち始めた当時読んでみたもののあまりピンと来ませんでしたが、古武術の稽古を続けるうちに頭の片隅に残っていた野口先生の言葉がある日リンクしたのです。

それまで当然の様に骨格筋とは身体を動かす為のエンジンだと何の疑いもなく思い込んでいました。

この思い込みが普通にある以上身体を動かす為には必ず筋力を出力しなければなりません。ですからこの先生の著書を初めて読んだ20代の頃は全く意味がわかりませんでした。

しかし、古武術の稽古を繰り返し続けるうちに骨格筋肉の使い方が根本的に変化して来ると、筋肉がエンジンであると辻褄が合わなく感じ出して来るのです。

筋肉が主になって身体を動かすのでは無く、筋肉で身体の動きをコントロールする身体の使い方があると実感した時、そういえば昔そんな事が書いてあった本があったと思い出しました。

野口先生は武術経験者では無いと思われますが、古武術を通してようやく言われる事が実感出来たのです。

 

身体を動かす、または使うとはこう言う事だと最近つくづく思う様になりました。

一般的な筋肉をエンジンとする使い方に慣れてしまうと、身体を力でコントロールしてしまいます。

身体のコントロールは本来体性感覚で行わなければならないはずです。しかしそれを力に頼る身体の動かし方使い方をしていると感覚が鈍くなる傾向があり、自分の置かれている状況がわかりにくくなる様に思います。

だから闇雲に身体を動かす事で、疲れるし痛めてしまう様な非効率な身体の動かし方になってしまう傾向が強くなるのでしょう。

 

感覚的に自分の身体を動かす、使うとは身体の重さを自覚しそれをコントロールする必要があるはずですが、普通は自分の身体の重さを意識する事はまずありません。

身体を動かす、使うとは身体の重さを移動させる事であり、手先だけの動きでも手の重さを感じ取り、その重さをコントロールする力があれば、今ほど力を入れる必要はないはずです。

感覚が鈍い分力に頼って無駄な力を入れている様です。

筋肉をエンジンからハンドルに切り替える為には今以上に感覚を鍛えなければなりません。

感覚の中でも身体の所在となる重心と重心線の感覚を意識する事は重要です。

逆にそれさえコントロール出来れば、異次元の身体能力が発揮される事でしょうが、重心と身体の動きを一致させるとは至難の作業となります。

きっとこの文章を読んでおられる方は意味がわからないと思います。身体が動けば重心も重心線も動く事は当たり前なのに何が難しいのかがわからないと思います。

説明になっているかどうかわかりませんが、断片的な表現として身体が動いて重心が動く事と重心が動いて身体が動く事の違いでしょうか。

前者は一般的な身体の動かし方ですが、後者は?符がつくと思われます。

前者は筋肉をエンジンとして使う身体の動かし方で、後者は筋肉をハンドルとして使う身体の動かし方の違いです。

また、前者の身体の動かし方は筋肉に力を入れますが、後者の身体の動かし方は力を抜く事で動きが達成されます。

そして、力を抜く事で重心が引き出され、その行方を筋肉でコントロールし動作が完遂するのです。

東京オリンピックを前にしてスポーツ界は科学的動作解析を駆使して成果を上げていますが、こんな非科学的な事をしているへそ曲がりもたまには居ます。

いいんです、古武術はスポーツではないので!

こんなスポーツ以外の身体の動かし方使い方があっても。。