力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

ヴァイオリンの弓の扱い方が剣の「手の内」と同じと知る

ブログって自分の知らない世界を気軽にそして結構ディープに知るツールとして、色々なジャンルのブログを読ませていただいております。

 お医者さんのブログなんかは、知識にもなるし医療の本音も垣間見られて面白い。

あと、演奏者さんブログも興味深く読ませていただいていて、特にクラッシック音楽が好きなのでピアノとヴァイオリン奏者の方が多いです。

この間ヴァイオリン奏者の方のブログで弓の持ち方について「弓の重みをきちんと右小指で受け、支えられる様になっていなければならない」という言葉が目に飛び込み改めて力の入れ具合を再認識させられたのです。

弓の重みを小指で受けた時に、弓を握ってしまえば必ず弓の重みがわからなくなるので、弓を持ったり握ったりすることはないはずです。

この弓の扱いは剣術における剣の扱いと同じで、運剣の邪魔にならぬ様余計な力は排除しなければなりません。

ただ、未熟な者にとって剣自らが能動的に動くイメージが持てず、つい剣を操作しようとしてしまいます。

操作しようとした途端必ず力が入ります。

その力は、剣の重みを消し去って剣の存在がわからなくなってしまい、存在がわからないまま振り回しても技にはなりません。

剣の存在を知るためには剣の重さを感じ取り、その重さが消えた時剣自らが能動的に動くことになるのでしょう。

その操作の最前線が「手の内」となり剣と身体の接点のあり方になります。

物を持つために必ず握るなり挟むなり、物を落とさない様に力で保持しようとします。

この保持する力が身体の動きを止めてしまっていることにようやく気付いたところです。

剣と手の接点となる部分には如何なる圧力も懸けてはならない。圧力が少しでも上がれば途端に身体の動きが止まってしまう事。

剣術に限らず、武術の動きは体捌きと言って体(体幹部)が動き、その動きに伴って手足が動かされます。

手足の動きが先行すると、体(体幹部)が動きの支点となり末端部を動かす事になるので結果的に体(体幹部)が動きを安定させるために固着した状態で手足を動かすことにまります。

物を握れば握るほど体(体幹部)の動きは制御され体捌きが行えない状況にどんどん陥ってしまうのです。

体(体幹)の動きで手足を動かさなければならないわけですが、手足を動かそうとすれば体が動かなくなってしまうわけです。

手を動かす以前に物を握る、支えるなどの力が体(体幹)の動きを止めてしまい、また足を動かす以前に体を支えるために力を入れたり、踏ん張ったりすればそれで身体の動きは固着され動かなくなってしまうのです。

ヒトは、二足歩行になり手がフリーになる事で知能や機能が発達したとどこかで読んだことがありましたが、武術的発想からすると手足が自由に使える様になると、逆に体(体幹)を使う必要がなくなってきている様にも思えます。

特に現代人は手足が長くなり末端部が使い易く進化している様にも見えます。

便利な手足を末端部で操作する事に慣れていますが、昔は手足を体(体幹)で操作した名残が武術に残されています。

その体(体幹)の動きを最前線でコントロールする事が「手の内」として表現されていた様に思われます。

ピアニスト牛田智大さんの座り方

ピアニスト牛田智大さんのファンである妻が、牛田くんのFacebookが再開された事に喜んでPCモニターの写真を撮っていました。

私が牛田くんの記事にコメントを入れた際、彼が返事を返してくれた処です。汗)

改めてYouTubeで彼の演奏(ショパン バラード1番)を視聴したところ、携帯電話のスピーカーで聴いても音色がよく響いているので、やはり凄いと感じました。

そういうものとは、生で聴かないと感じ取れないと思い込んでいたところ、携帯電話のスピーカでも感じ取れた事が意外です。

妻の携帯iPhone11のスピーカー性能が良いのでしょうか?

私の感受性が高いのか? そんな事はないはず。。。。

以前の記事にも書いた記憶がありますが、私の場合響きは腰のあたり仙骨と言う部分がビリビリします。

このビリビリ感がなんとも心地よく、「あ、、腰を取られた!!」という感じです。

武術においてお互いの腰を取り合い、崩された方がthe end 勝負あったとなります。

と言っても直接腰を捕らえに行くわけではなく、身体操作の結果腰が崩される状態になるのです。

稽古の時でも、相手に自分よりうまく腰が取られた時は自分の腰が崩されているにもかかわらず大変心地よく、なんの抵抗もなく腰がスッと落ちます。

ですから、自分が相手に崩されたり投げられても全く悔しいとか残念だとかの気持ちにはならず思わず笑ってしまうことがあるほどです。

そのような稽古の中でも大切な事は、正中を立てる事。

本来は存在しない抽象概念ですが、稽古を重ねるごとにその抽象的な正中線が明確になってきて、その線がお互いの基準線とし、その基準線をお互いが取り合う行為が武術で行っている事です。

相手を掴んだり、刀を振ったりしますがそれは二の次で、その基準となる正中線が明確に現れその線に対して手や足の身体の動きが伴い動作が完成されます。

完成度の高い動作とは、その正中線がぶれずに明確に存在する事。

そのために稽古を積み見えない線を追求する事。それが武術の稽古の大半です。

ただ、そんな稽古をしなくとも正中らしき線を持つ者がいます。

それは、歩き始めた頃の赤ちゃんであったり小さな子供であったり、意識せずにその線を持ち合わしている人もいます。

本人は全く気付いていないのでしょう。

そして、自我が芽生え個性が顔を出し始めると瞬く間にその線が消えてしまう結果になりますが。

自我や個性の塊の大人は、その線の片鱗もありません。しかしそんな大人も幼い頃は残っていたかもしれません。

武術の稽古は、ひたすらそのこびり付いた自我や個性を削ぎ落とす作業だと理解しています。

武術の達人と生まれて間もなく歩き出した赤ちゃんが同等なんて理解に苦しむでしょうね。

ところで牛田くんの素晴らしいところは、その座り方。

YouTube動画では手元ばっかりで腰は写りはしませんでしたが、きっと腰がスゥと伸びて正中が立っている状態と同じ様に座れている様に感じました。

こればっかりは、いくら表面的に腰を伸ばしても無いものは無いのです。

有る状態と無い状態。

見た目はほとんど見分けがつきませんが、0か1かの違いほど大きな違いです。

1の状態を持つ牛田くん、ぜひ1が0にならない様に1の素質を曇らせる事なくそのままに成長して欲しいと切に思います。

 

 

 

ブラームスピアノソナタ1番で手首が痛む

知人の娘さんがコンクールに向けブラームスピアノソナタ1番を練習されていて、手首の小指側が痛むそうです。

曲は出足からいきなり激しく、オクターブが連続する動きに手首にストレスが生じ悲鳴をあげているようです。

本人から話を聞くと、鍵盤に対して指を並行に置くように指導されているようで、オクターブで指を目一杯広げ鍵盤に並行に置こうとすれば、体に近い位置になると当然手首が小指側に折らなければならず、大変窮屈な形になります。

その窮屈な状況が続くと手首の関節を締め付けてしまい痛みが発生するのでしょう。

妻に話すと、自分も小さい頃そのように教わったと言っていました。

でも、そのような指導は日本独特らしくヨーロッパでは指を並行に置くような指導はなく自然な位置だと聞いたことがあるそうです。

どちらが正しいのかは私にはわかりませんが、窮屈にならず痛まないように弾ければ良いのでしょうが。

ただ、弾きやすいように形を崩して弾いてしまうと響かなくなるでしょうね。

武術において術を創るためには、絶対に形を崩さないことなのです。逆にいうとその形(構え)が技や術になるということです。

ピアノにおいても同じで、そのタッチの仕方(形・構え)で響くのだと思います。

武術でもピアノでもその形(構え)が正しいのか、崩れているのかの判断が非常に難しいところでしょう。

武術の場合は、柔術や剣術は受け手が居ますのでその受け手の反応を手がかりに技術の修練を行います。

取り手と受け手が対峙してお互い相手より有利な状況を目指しながら、取り手はより厳しく構えを取り、そして受け手に割入ることで受け手が崩れる状況を作る事で技や術を練り上げていきます。

そのように相手が崩れた時自分の形(構え)が有利に働いたと言う事になります。

しかし、剣術の精髄と言われる居合術に関しては、相手が居ませんので自分で術を練り上げなければなりません。

ところで居合術というのは日本刀を鞘から抜き出す術をいうのですが、始めてから10年ほどはどこが難しいのか、何が難しいのかがわかりませんでした。

どうして剣術の精髄なのか鞘から刀を抜き出すことは、子供でも誰でも引っこ抜くことができるのに。

それからようやく鞘から刀を抜き出す難しさがわかって来ても居合術になるには時間が足りなさ過ぎるということもわかってしまったのです。

難しさの一つに評価してくれる対象が無いのです。

評価が曖昧だと出来たつもりになってしまいますよね。

ピアノも同じで評価が大変難しいと思います。

どのようにタッチしても音は鳴りますから。どのように刀を引っこ抜いても鞘から刀は出てきますから。

しかし、それでも上を目指して完成度を高めていきたいものです。

そのためには身体を巧みに動かし効率の良い理にかなった動きを見つけ出さなければいけません。

この巧みに身体を使う事が、芸術の術であり武術の術たる共通するところでしょう。

そこが居合術で刀を抜く事と一般人が刀を抜く事の違いに、そして一流ピアニストと一般ピアニストの違いであるように。

武術の稽古はほとんどが型稽古ですが、どの型も窮屈な動きが要求され、実践でそんな動きはありえないような動きも多々含まれます。

実践でありえない動きをなぜわざわざ稽古するのか?

その一つに、窮屈な動きであれば動きにくくなるので、動きやすくするためには窮屈では無い状態を作ろうとし、身体の位置関係を工夫して動きやすい位置や場所を探ろうとします。

一般的にはこのように動き易くするために形を崩して動きやすい形を作ろうとします。

目的を達成するために少々融通を効かせても良いではないか。そんな意見と同じですが術になるためには、融通を効かせた時点で型が崩れているのでそれは型から外れたものになり、術にはならなくなります。

型通り動く事が術になるわけですから、型を崩した時点で型ではなくなります。

型を崩さず、なおかつ窮屈にならずそして効率の良い動きを行う。

そんな時は当然無理がないので痛む必要もなくなります。

なんだか相反する事を行うようですが、そんな身体の使い方かできた時術になるのでしょう。

同じように鍵盤を叩いているようでも、響く弾き方とそうでない弾き方はそんなところに違いがあるのではないでしょうか。

 

半沢直樹の腰つきがかっこいい

半沢直樹面白かったですね!

いろいろ楽しませてもらいましたが、中でも半沢直樹の前向きに信念を通す姿勢は気持ちよかったです。

自分の信じる思いを最後まで貫き通す姿はスカッとします。

格好がいいですよね。

あのように格好良く立ち回ってみたいですが、現実は難しいですよ。

そうは思っていても腰が引けちゃいます。

。。。。。そこです。半沢直樹の格好良いところは腰が引けていないところ。

いざ!!!という時、腰が出るか。それとも引けるか。そこが運命の分かれ道。

信念を前向きに突き出す姿勢が重要です。

せっかく信念を持っていても前に突き出して表現しなければ、周りは認めようとはしません。それは、自分が表現しているつもりになっているだけで、周りに伝わらなければ意味がありません。

自分は自分なりに表現し相手に突き出しているつもりでも、相手は突き出された様には捉えられず、何を訴えているのか意味不明の場合がよくあります。

だから、自分の思いが相手に伝わらない。そんなミスマッチが起こります。

なぜでしょう。

それは一番肝となる部分が、相手の方向に向かうのではなく反対方向に向かっている事があります。

身体で一番肝となる部分は肉付き辺に要と書いて「腰」です。

この腰が前に出るか、後ろに引けるかで結果が変わってくるでしょう。

相手の理解を得るために、あの手この手といろいろアピールしてみるが、伝わらないのは肝となる部分が前に出ず引けている事が問題です。

身体でいうと腰が前に出ず、後ろに下がる場合です。

相手と対峙する時に手足をバタバタと突き出しても、肝心の腰が向かっていかなければ本質的な距離は縮まらず、距離が遠くなってしまいます。

相手が近いと危機感や感心が高まりますが、遠いと危機感や関心が薄まります。

腰の引けたスタイルは、相手には有利であって自らは不利な状況を自ら作っています。

例えば、手を前に出せば上半身が前方に倒れようとするので腰を引いてバランスを取ろうとします。また、足を前に出しても腰を引いてバランスをとります。手や足などの末端が前に出れば出るほど中心部の腰は後ろに引いてしまいます。

自分は相手に対してアピールしているつもりでも、本質は相手から遠ざかり思いが伝わらない結果となります。

半沢直樹のスタイルは、本質である腰が相手に向かう、もしくは入っていく姿勢です。

それは腰の引ける姿勢に対して腰が入る姿勢となります。

腰が入ると自分の要となる腰が相手に向かい、距離を詰めることになり腰が引けたスタイルの反対で、自らが有利でありながら相手は不利な状況になり得ます。

皆さんも腰の入った姿勢で頑張って下さい。

いやいや。。。

頑張ってその姿勢にしても腰の入った状態にはなりませぬ。

頑張るとは、我を張った無理をした状況です。

我を張った無理な状況では力が入ってしまい、無理矢理腰を入れた状況を作ろうとすると、腰を引いた状況をそのまま前方に引き出しただけの形となり、腰が入った状況とは似て非なる形となります。

腰を入れると一言で言ってしまえば簡単なようですが、大変難しい腰つきです。

腰を入れて仕事をする一流の職人が醸し出す腰つきは、一朝一夕には出来ません。

無理矢理ではなく、薄皮をはがすようにチョビチョビと熟成された姿は、真似のできない機能が備わった形となるのでしょう。

その姿から発せられた言動は、有無を言わさぬ説得力を持ち合わされたものになるはずです。

いつの日かそのような片鱗が伺えられる腰つきになってみたいものです。

 

 

ヴァイオリン、ヴィオラの構えは身体の左それとも正面?

左肩に乗せ、左手で支えるヴァイオリンやヴィオラは身体に対して何処にあるのか?という疑問がトイレの中で浮かび上った。

我が家のトイレのトイレットペーパーホルダーは便座に座った左側にあるからです。

ほぼ毎日トイレで左側にあるトイレットペーパーを右手で取りに行く行為を無意識に行っていた時にフト見直したら、ほぼ右手を伸ばさず身体を捻らず左肩を後方に引いた形が、身体の正面にトイレットペーパーホルダーがある形になっていたのです。

今まではそうではなかった。

右手を身体を捻りながら、ぐるっーと回して左側にあるホルダーに手を伸ばして、身体の真ん中より左側に手を伸ばしていたはずです。

トイレットペーパーを取ってお尻を拭く事ができれば、どの様な取り方をしても問題ないでしょうが、ヴァイオリンやヴィオラの演奏はトイレットペーパーを取りに行くこととは違うはずです。

身体の左側にある楽器とどの様に向き合うかにより結果が変わってくるのではないでしょうか。

武術では、正中と言う言葉をよく使います。

簡単に言えば、「まんなかのところ」となりますが、単純に物の二等分線ではありません。

身体が向いている方向とでもいうのでしょうか。抽象的すぎて表現しようがありませんが。

武術では、この抽象的な「正中」の攻防を行います。

攻防において、自分の行きたい方向に相手より効率よく行けた方が当然有利になります。お互い相手と向き合えば行きたい方向は、自分と相手を結ぶ直線上になり、お互い同一線上です。

まさしくこの同一線上をお互いが取り合うのですが、行き着くところその線上何処かでその狙う先が相手と接する点が現れます。

その点での攻防が勝敗を決めることになり、その点でお互いが押し合うのではなく、その攻防する線を相手より細くすることで、相手に割り込む線を作った方がより直線を維持し、割り込まれた方は、直線から逸れる事になり相手よりも動きや距離が生じ不利になります。

ですから、自分の目指す動きとなる「正中」を最短距離で最小の大きさの動きを作ることで相手より有利な環境を作るのです。

この正中は、常に自分の正面に置くことが理想です。

この正面の概念も難しく、例えば左半身(左肩を相手に向け左向きの構え)においての正面は左肩方向になります。

左肩方向に正面を向けるのですが、私が以前行っていたトイレットペーパーの取り方は左側に身体がズレた、身体を捻った形は身体の正面がなくなってしまうので正中と言われるものが現れません。

しかし、最近気付いた身体の正面にトイレットペーパーのホルダーがある場合は、左に向いていてもそこが正面に当たります。

見た感じはほとんど変わりません。

しかし、正中からズレた位置から動き出してもそこからの動きはズレたままです。

動きをいくら修正しても、元々のスタートの状態がズレていればそこからは技にはなりません。

なぜなら、技は技になるかならないか、二つに一つです。

途中から技になることはありえません。

技は初めから最後まで理にかなった動きが出来て技になります。

だから、初めの構えが大切になるのです。

そして、その構えを作るために最大限の労力を使って作り上げます。

その労力を惜しみなく使って構えを作ってきた古の侍は、構えを見ればどの程度労力を使ったか一目で想像がつきました。

その構えが自分より正中が細いのか、見れば自分より実力があるのか経験的に一目でわかるので戦う前に勝負の結果が見えていました。

ですから、勝負は戦ってみなければわからない事はなく、戦う前に勝敗は高確率で予想されていた事になりますので、むやみやたらの戦は無かったと聞いたことがあります。

そんな侍の目は全く持ち合わせてはいませんが、YouTubeでいろいろなヴァイオリニストの映像を見ていると、身体の正中がウァイオリンに向いている人と向いていない人がいるように見えました。

真に相手に向き合う事、真に楽器に向き合う事は同じでしょう。

自分は相手に向いているつもりであった、自分は楽器に向き合っているつもりであった事を気持ちや精神で解決するのではなく、身体を見直し気付き感じる事で身体の動きを修正する事で道理に沿った動きを身に付けたいものである。