力を抜く身体目指し古武術稽古

脱力したら体は動かない、きちんと体を動かせた時力の存在は無くなる。そのために構えを創る事に全力を尽くそう。

効率よく動くためには直線に動く身体に作り変える

効率良く動くとは真っ直ぐが基準となる動きを示し、点Aから点Bまで最短で移動するには当然曲がるより真っ直ぐの方が有利である事は明白です。

剣が基準となる武術の動きは、相手より一瞬でも早く動く事が生死を分ける必須条件ですので直線の動きを常に意識する必要があります。

しかしヒトの関節を基準にした動きは必ずと言って良いほど関節を支点とした回転運動になるため、一般的な動きは曲線を描く動きが主となる傾向があります。ですから、武術的身体操作の特徴は普通に動作する回転運動を行なう動きを直線運動に変換しなければなりません。

そのためには関節の動きを複合させる必要があります。

一つの関節を単純に動かせば関節を支点とした回転運動になりますが、いくつかの関節を組み合わせ、同時に動く事で結果的な動きは直線運動に成り得るのです。

この関節の動きの組み合わせが技となる条件の一つなのですが、普通に組み合わせても直線は生まれません。押すべきところを引いてみたり、上げるところを下げたりとことごとく日常的動作の真逆を行なう事で直線運動が生まれる印象です。

その様な日常的動作の真逆を行く動きは、日常的動作を行う者にとって想定外の動きとして認識されます。

日常的動作であれば、経験的に想定される動きに従って対応する事ができるのですが、普段経験する事もない動きをされるとヒトはパニックを起こし思考停止状態に陥ります。そこが技になるエッセンスなのでしょう。

普段経験する事もない動きが、人間離れしたアクロバティックな特殊な能力を持った人だけが出来る特殊な動きと言う事ではなく、本来動くところが動かずに、動く予想をしていないところが動いて、普通によくある一般的動作をされると混乱して対応ができなくなる。そんな普通の動作を普通では無い動きに変換する作業を古武術の稽古の中で行なっています。

私は毎週県立体育館の柔道場で稽古をしていて、そこには監視カメラが設置され管理事務所のモニターに映っているのですが、きっとそこに映し出されている映像だけを見れば武術の稽古風景には見えないだろうと思っています。

一般的にイメージされる武道稽古とは違う印象になるでしょうか。

そんな事を何十年も続けていると、物事の捉え方などが今の世の中にある一般的通常概念や考え方との間にすれ違いが生じて現代社会で行き場のない状況を自ら追いやっている様です。

家族にも変人扱いされ、「その考え方は間違っている」とよく妻に言われます。

しかし、点Aから点Bに曲線で動くよりも直線で動きたいし、前に歩き進めるには後ろに力を加えその反動で前に出るよりも前に倒れる事で脚が前に出る様なそんな身体の使い方をしたいのです。

身体の中の使い方で動きの質が変わる

電車を降りてプラットフォームから改札へ上がる階段を人波にまぎれて上っていると、周りの人達が左右に身体を揺すりながら上がられている事が結構気になる今日この頃です。

階段を上がる時や下る時は、平地を歩く時よりたくさん脚を上げたり下げたりしなければなりません。そして脚を上げている時間も長くなるので、階段の昇降は面倒な動作の一つです。

そこでヒトは効率よく階段を昇降しようと企みます。

脚を高く上げるより、脚を上げた反対側に身体を倒し倒れ掛かる角度が強ければ、より脚を上げずに済みます。また身体を左右に振ることで脚を上げている時間も短縮できバランスも取りやすそうです。

きっと、朝のラッシュ時間より夜のラッシュ時間のほうが身体の揺れ幅が大きいのではないかと想像します。

皆さん疲れると身体を動かすことが億劫になり、身体を動かさないように省エネで動作するのではないでしょうか。

身体を動かさないように省エネで動作すると、見た目に身体が大きく動いているように見えます。

近所のスーパーで老齢の御婦人が身体を左右に大きく揺すって歩いている姿を見ていても、重心を左右に振り捻る事で脚を出しているだけで関節や筋肉を可動させている様には見えないのです。まるで紙相撲の人形が振られているだけで、ほとんど身体は動いていないようです。

見た目は動いているように見えても、実際の身体の動きはほとんど動いていません。

動作が出来ているので、身体が動いていると思っても実際は身体が動いていない場合があります。

逆に身体が動いているとはどのような場合があるのでしょう。

例えば、重心が左右上下の移動を最小限に制御されたお能のすり足などは非常に身体を巧みに動かさなければ出来ない動作だと思います。

やってみるとわかりますが、片方の脚を上げて前に進もうとすれば必ず腰がグニャっと反対側に押し出され、重心が反対側の脚に乗り、重心の奇跡は左右にカーブを描きます。

また、脚を前方に出せば腰が下がり重心が上下動する事により、重心の軌跡は上下にカーブを描きます。

真っ直ぐに進もうとしても現実は真っ直ぐ進む事が出来ません。なぜなら自分が動こうと思った動きとは違う動きが起こってしまうのです。

当然といえば当然なのですが、身体は反射的にバランスを取ろうと勝手に身体を動かし制御を行います。そこで意図しない動きが含まれてしまいます。

お能の摺り足などは、身体が勝手に動く意図しない動きを起こさせない様に綿密に筋肉を動かし重心を制御し、重心がカーブを描かずほぼ真っ直ぐに進む事が出来ます。真っ直ぐ歩くなんて途方も無く難しい動作と言え、この様に身体を制御する為には繊細に巧みに多様に動かさなければなりません。

老齢のご婦人の歩き方とお能の摺り足は、同じ様に身体を前に進める動作ですが身体の動き方と身体の使われ方は全く異なる動作です。

よく動いている様に見えても身体はあまり機能していない動作、反対にあまり動いていない様に見えても身体が巧みに機能している動作。

武術や身体藝術、楽器演奏などは、身体の使い方でパフォーマンスの質が如実に変化する典型です。

見た目は同じ様な動きに見えても、身体の中の動きの違いにより結果に現れる作用に違いが出るはずです。

色々な事を表現する為には必ず動かなければなりません、その動きの発端を身体の表面が動く以前の身体の中ですでに始まっている。その見えていない動きこそ動きの本質になりえるのではないでしょうか.。

 

筋肉の働きはエンジンではなくハンドル

野口体操の故野口三千三先生の著著に「筋肉はエンジンではなくハンドル、エンジンは身体の重みで筋肉はその重みをコントロールするハンドルである」様なことが書かれていました。

野口先生の著書を初めて読んでから約30年が過ぎてようやく意味が飲み込めたのです。東京藝術大学の教授であった野口先生の著書「からだに貞く(きく)」「重さに貞く(きく)」を身体の動きに興味を持ち始めた当時読んでみたもののあまりピンと来ませんでしたが、古武術の稽古を続けるうちに頭の片隅に残っていた野口先生の言葉がある日リンクしたのです。

それまで当然の様に骨格筋とは身体を動かす為のエンジンだと何の疑いもなく思い込んでいました。

この思い込みが普通にある以上身体を動かす為には必ず筋力を出力しなければなりません。ですからこの先生の著書を初めて読んだ20代の頃は全く意味がわかりませんでした。

しかし、古武術の稽古を繰り返し続けるうちに骨格筋肉の使い方が根本的に変化して来ると、筋肉がエンジンであると辻褄が合わなく感じ出して来るのです。

筋肉が主になって身体を動かすのでは無く、筋肉で身体の動きをコントロールする身体の使い方があると実感した時、そういえば昔そんな事が書いてあった本があったと思い出しました。

野口先生は武術経験者では無いと思われますが、古武術を通してようやく言われる事が実感出来たのです。

 

身体を動かす、または使うとはこう言う事だと最近つくづく思う様になりました。

一般的な筋肉をエンジンとする使い方に慣れてしまうと、身体を力でコントロールしてしまいます。

身体のコントロールは本来体性感覚で行わなければならないはずです。しかしそれを力に頼る身体の動かし方使い方をしていると感覚が鈍くなる傾向があり、自分の置かれている状況がわかりにくくなる様に思います。

だから闇雲に身体を動かす事で、疲れるし痛めてしまう様な非効率な身体の動かし方になってしまう傾向が強くなるのでしょう。

 

感覚的に自分の身体を動かす、使うとは身体の重さを自覚しそれをコントロールする必要があるはずですが、普通は自分の身体の重さを意識する事はまずありません。

身体を動かす、使うとは身体の重さを移動させる事であり、手先だけの動きでも手の重さを感じ取り、その重さをコントロールする力があれば、今ほど力を入れる必要はないはずです。

感覚が鈍い分力に頼って無駄な力を入れている様です。

筋肉をエンジンからハンドルに切り替える為には今以上に感覚を鍛えなければなりません。

感覚の中でも身体の所在となる重心と重心線の感覚を意識する事は重要です。

逆にそれさえコントロール出来れば、異次元の身体能力が発揮される事でしょうが、重心と身体の動きを一致させるとは至難の作業となります。

きっとこの文章を読んでおられる方は意味がわからないと思います。身体が動けば重心も重心線も動く事は当たり前なのに何が難しいのかがわからないと思います。

説明になっているかどうかわかりませんが、断片的な表現として身体が動いて重心が動く事と重心が動いて身体が動く事の違いでしょうか。

前者は一般的な身体の動かし方ですが、後者は?符がつくと思われます。

前者は筋肉をエンジンとして使う身体の動かし方で、後者は筋肉をハンドルとして使う身体の動かし方の違いです。

また、前者の身体の動かし方は筋肉に力を入れますが、後者の身体の動かし方は力を抜く事で動きが達成されます。

そして、力を抜く事で重心が引き出され、その行方を筋肉でコントロールし動作が完遂するのです。

東京オリンピックを前にしてスポーツ界は科学的動作解析を駆使して成果を上げていますが、こんな非科学的な事をしているへそ曲がりもたまには居ます。

いいんです、古武術はスポーツではないので!

こんなスポーツ以外の身体の動かし方使い方があっても。。

 

型にはまる事が出来れば達人

戦国の時代から武術の稽古はもっぱら型稽古を行い、乱取りなどは近年になってから始まったと聴き、先人ほど型の重要性を感じ取っていた様に思われます。

なぜ、型の重要性が薄れてきたのでしょうか? 

一つには型の紐解き方が異常に難解であることが上げられます。            

代々家伝として受け継がれてきた「型」は家の宝であり財産そのものでした。

家を守るに当たりその財産を次ぎの代に正確に伝える事が重要な責務となます。

また、他流派や外部に型の内容が盗まれない様にする事も重要です。そのために型の紐解き方に工夫がなされています。

簡単に盗まれない様にする為には、今風に言えばパスワードを入れないと解錠しないシステムが備わり、それも単純なファイルではなく圧縮ファイルの様な一見意味不明な状態で解凍しなければ、解読できない内容となっていたと考えられます。

トレジャーハンターの宝の地図と一緒で読み解く事が容易ではないのです。

このように型を紐解くには、宝の地図を解読するほどの難題が隠されており、それを解読して初めて型に近づくことが許されているようです。

大概の場合、独自の発想で解読しようとすれば、ことごとく型にははまらずギャップが生じます。

人の特性として、わからないことがあれば独自に発想を飛ばして理解しようと勤めますが、武術においては、この法則が成り立ちません。

型を理解するには、独自の発想を削除する作業が必要であり、型は独自の発想や個性などのアイデンティティとは真逆の性質があると思っています。

一般的にわからないことがあれば、わかるように自分の頭の中で発想を飛ばしいろいろな可能性を見出そうとします。

しかしそれをしてしまうと独自の解釈と型とがどんどん距離が開いてしまい、型が要求する形には近づく事が出来ません。わからないことをわからないまま稽古を繰り返していると自分の意識ではなく自分の身体が気付いてくれる事があります。型を練るとは、この様に頭で理解しようとするのではなく、身体が納得するまで身体を繊細に捌き色々な動きを試行錯誤を繰り返す作業であり、繰り返して無駄な動きを省き動きが消えてなくなるぐらい、そして力の存在が無くなるまで繰り返す作業だと思います。

また型にはまるとは、型の意図を読み取り再現出来て初めて言える事であり、型にはまる事ができればそこで達人の域に達している事になります。

しかし過去においてそんなに多くの達人が量産されたとは思えません。

武術は、武士の嗜みとして多くの侍が稽古を積んできた歴史があった訳ですが、現代のオリンピック強化選手の様にその世界にどっぷりと浸かった生活を延々と続けていても達人の域には一握りしか至る事ができない狭き世界です。

それ程型にはまる事が難儀で大変で有る事は歴史が物語っているはずです。

先ず型にはまる前に正確に型を紐解かなければなりませんが、その時点で間違ったパスワードを入れてしまいがちです。

型は入力したパスワードに対してそれなりの出力がなされる為に間違ったパスワードを入れたとしても自分が満足すればそれなりの答えが出てきてしまうので、出来た気になってしまいます。

そこが宝の地図と一緒で読み解けないか、もしくは間違った解釈をするかどちらかです。

間違わない様に紐解くためには、家伝を継ぐ者に直伝で教えを請う事がパスワードを解く最高の近道です。

しかし、パスワードを解くヒントを頂いても上手くファイルを解凍する事が出来ず、必ずバグが発生し本来のファイルを開ききる事が出来ません。一番の問題は、自分の身体が自分が思う程思う様には動いてはくれない現実を直視せざるを得ない場面が容赦なく自分に降りかかります。

その受け止め方次第で、宝の地図の描かれている宝が変わってくるのですが、自分という存在がある以上型にはまる事は無理なように思い、どれだけ自分という個性を削り、捨て去り、無くした先に型が要求する答えがあるように思います。

常々、型は過去専用タイムマシンだと感心しており、型にはまる事が出来ればタイムマシンに乗り往年の侍の世界を体感する事ができるということになります。

何百年もの間一生を懸けた達人達が練って練って練り込んだ型は、そう簡単に型通りにはまる事はできません。

 

 

腰が高いと動作が不利になる意味

武術において腰を低く構える事は必須であり常套ですが、意外とこの基本の形が守られていない事がよくあります。

それは腰を低く落とす重要性が理解出来ていない、そして腰を低く落とした方が動作において有利である事が実感されていない場合は、ないがしろにされやすい様です。

長年稽古をしていても、兄弟子から「〇〇さん(私)、なんだか腰が高いような感じがする。」と指摘を受けました。

自分は腰を落としているつもりになっていただけでした。

まだまだ、型どおりの形には程遠い、我流の形です。

頭では腰を低く落とさなければ、腰を入れてとか考えているうちは型にはまっていない状況であり、それさえも忘れて勝手な動きを自分なりに行っているようでは「術」でもなんでもない、ただ運動しているだけです。

師はそのことを「創作武術」と茶化します。

「術」としてのエッセンスが型の中にあるわけですから、型から外れて創作してもたいしたものは生まれません。

そして型を行う以前の問題として、構えが重要になります。

動作を行うスタートの地点で間違った、あるは非効率な状況で動き出してその後正確な効率の良い動作が出来るとは思えません。

「始めよければすべてよし」のように、出足となる形すなわち「構え」ができていなければその後の動きが良くなる可能性はほとんどありません。

その構えの腰つきが高いのです。

一つ言い訳ができるとすれば、兄弟子の言葉が以前であれば「腰が高い」と一喝されたものですが今回は「なんとなく腰が高く見える」との表現でした。

その辺りを自分なりに分析してみると、腰の位置はそれなりに低い様だが、何かに問題があると捉えられたと感じたのです。その何かを改善しなければなりません。

例えはその場で腰を床スレスレまで下げたとしても、見え方は変わらなかったと思われます。それは、腰の高さの問題では無く腰の在り様に問題があった訳で高さを変えても問題の解決にはなりません。

腰が高い在り様とは、床に対して腰が高いのでは無く、肚(はら)に対して高い事に気付いたのです。ですから腰をいくら床に近付けても腰が低いとは言えません。

肚と腰は表裏一体の関係ですが、これらの高さが一致する事が重要です。どの様な腰の位置でも肚に対して一寸でも腰が上がれば腰が高い状態になってしまいます。

腰が上がれば、重心が前方に移動します。重心が前方に移動すれば、脚の前方の筋肉で身体を支えようと筋肉が緊張してしまいます。そしてこの緊張が動きの邪魔になってしまいます。

(一般的には腰を後方へ引く、あるいは身体全体を後傾させ、前に移動した重心を中央に維持させる補正動作を反射的及び自然に行うため重心移動に気付かない)

そんな些細な緊張など大した影響がない様に思われがちですが、明らかに相手に伝わり、影響を受けた相手もその緊張に対して緊張を起こします。

一般的日常動作においては、微細過ぎて無視してしまいがちですが、生物間では感じ取る能力を充分持ち合わしています。しかし、弱い力ほど無視しがちで、無視しても悪影響はほとんどありません。でも、感じ取る能力はないのではなく有り、ただ無視しているだけなのです。

構えを作るとは、この緊張も削除する必要があります。余計な緊張は動きの邪魔にもなりますし、相手や周辺の人に緊張反応を起こさせてしまいます。結果的にこれらの緊張は動作においては不利な条件となってしまいます。

不利な条件となる余計な緊張を起こさせないためには、踏ん張らない位置で立つ事、そのためにも肚と腰の高さを一致させ重心を身体の中心に維持する必要があります。そして、動作を行なっていても身体と重心がずれない様にしなければなりません。

しかし、その状態で腰を落としても、大概腰が肚よりも上がってしまいます。

それは、以前腰を入れるの記事に書いた様に腰を割る事が出来ていない場合、股関節が屈曲してしまい前屈みの状態となってしまいます。

 

nara344970.hatenablog.com

 

腰を低く落とすと重心が低く安定するにもかかわらず、動き易いと言う相対する条件が同時に得る事が出来るのです。

だから、腰を低くそして落とすのです。

その形がきちんと出来た時、「なるほど!これは動き易いわい」と実感されるのでしょう。

その形が出来て初めて型の動作が始める事ができるのですが、そこに至るプロセスはまだまだ前途多難であり、腰を低くするだけでも難儀、それを落とす事もまた難儀。まあ、行きつ戻りつする事が術を練る作業と捉えれば納得できるかなあ〜